2021/09/01

ローマで入院

  ウィーンに来てからちょうど半年、良い区切りということで8月末はイタリア旅行にあてるつもりでいた。ローマから途中シエナなどに寄りつつフィレンツェに至る10日強の旅程で、同行する妻も私も全く初めて訪れる地域である。8月22日、小さな内陸国から脱出した開放感とともにローマに降り立ち、23日は古代ローマの遺跡や美術館、そしてイタリアの美食を堪能した。しかし、23日の夜中に感じた腹痛が24日のヴァチカン観光中も収まらず、結局その日は観光を諦めて昼間に宿に帰ってきた。そして、そこから長い胃腸炎との闘いが始まった。

 24日に帰宅して以後、急激に体調は悪化し、一日半ほどほとんど意識が朦朧とした状態が続いた。体温計は持っていなかったが、明らかな高熱で布団にくるまり寝込みながら、定期的に腹痛で目覚めてトイレに立つということが繰り返された。昼夜の感覚もなく、妻が持ってきてくれた薬やクラッカー、ジュースなどを時折口にし、朧げな頭であと何日と何時間でこの宿を出ないといけないのだろうなどと考えていた。何度か薬局やスーパーに買い出しに出かけてくれた妻だが、彼女もやや軽度ではあったものの同様の症状を覚え始めており、25日には二人そろって寝込んで過ごすという状況に陥ってしまった。

 25日夜、泊まっていたアパートメントのオーナーに妻が状況を説明し、最終的に公共の(=無料の)救急車を呼んでもらうことにする。日本の感覚だとものすごく遅々とした歩みであったが、救急隊員がやってきて未だ朦朧とする私と一応自立できる妻を救急車まで連れ、近くの公共病院へと乗せていった。救急車に乗るのも人生初であれば、入院もまた人生初である。救急車の車内は異常に寒く、早速寝間着とサンダル姿で出てきたことを後悔した。病院に到着後もその寒い車内で1時間弱病室が開くまで待たされ、深夜0時を回る直前に二人部屋に通された。

 ベッドに寝転がると早速点滴を投与されるとともに検査用の血液などが採取された。その時点で私は妻の症状が同じものだとは知らずただの付き添いだと思っていたため、妻から先に点滴の投与が始まったときは対象を間違えているのではないかと驚いた。しかし、実際には二人で同じ食べ物にあたり、二人とも入院するという始末であったのだ。深夜に医者が会いに来るという話だったが結局来ず、定期的な看護師による経過観察の合間に眠りをとった。発症後初めて体温計で体温を測ってもらったところ39.5℃もあり、この日も寒い病室で汗だくになった。

 26日朝、ビスケットと紅茶のわびしくまた胃に優しくない朝食が出され、その後昨晩のコロナPCR検査が陰性であったため普通病棟に移されると告げられる。どうやら、一晩過ごした個室はコロナ疑いのある患者の一時滞在病床だったということらしい。妻と私が順にストレッチャーに乗せられ、廊下を通って他の患者の間を抜け、最終的に玄関ホールのような広い空間の一角に開いたコの字型の隙間のような小部屋に二人そろって通された。一応ホールと小部屋の間には扉があり仕切りを作ることは可能だが、光や音は完全に漏れるため、密室には程遠い。明らかに環境は悪化したが、ホールのど真ん中に並べられている患者も多くいたため、自分たちの方がまだましだと思って乗り切るしかない。

 この普通病棟では、そもそもの患者数が多く、またひっきりなしに緊急度の高い患者が外部から運ばれてくるため、看護師や職員の対応が非常に遅い。呼びかけてもまず「後で」と制されるし、水を頼んだとしてそれが本当に届けられることはまれである。水程度のことであれば最悪水道水を自分で汲んで飲めば良いのだが、始まるはずの治療が一向に始まらない時は大変であった。英語を話せない看護師も多いため妻がイタリア語に翻訳した文言を手当たり次第に見せて回り、抗生物質の投与を要求した。最終的には26日の夕方と夜に二度、点滴管を通して薬が投与された。

 我々の間には26日夜に退院できるのではないかという淡い希望があったがそれは叶わず、この小部屋で一晩過ごすことを強いられた。もっとも、病状からすれば、未だに38℃があり腹痛も引かないことから残るのが妥当な判断であった。昼食はなぜか出なかったが、夕食には肉、ジャガイモスープ、パスタという食べられるわけがない食事が出されたので、かわりにバナナだけもらって空腹をしのいだ。細かいことだが、抗生物質を投与するときにそれまで栄養などを送っていたと思われる点滴が除かれたため、何か口から食べなければ栄養が一切とれないという恐怖心があった。

 夜は断続的に眠りに落ちた。覚醒している間はこのような惨めな扱いをする病院への恨みを募らせ、そのうち再び眠りに落ちて、その恨みは病院が爆破するという単純な夢に結実した。しかし、その爆破と同時に目が覚め、小部屋と玄関ホールを仕切る暗い壁が現れた。熱にうなされた頭では、爆破したはずの病院のまさにそのなかに自分がまだ閉じ込められているという絶望に気がつくには少し時間がかかった。

 27日の朝はそれまでの混乱が嘘のように病院側とのやり取りが迅速に進んだ。朝最初に検温や諸々の測定、そして抗生物質の投与にやってきた看護師に今日こそ退院したいと告げると、分かったが、まず医者と話さなくてはならないという返答。医者はいつ来れるか分からないという話だったが、意外なほど早く小部屋まで来て、書類を繰りながら我々の病状、今後採るべき食事、薬局で買うべき薬などについて説明した。そして、書類に署名したところで手続きは完了、いつでも出られるということである。拍子抜けしつつ、最も重要な治療費について尋ねると、イタリアでは完全に無料、外国人も無保険者も関係ないという。最後に好印象を残して二泊三日のローマでの入院は終わった。

 治療費が完全に無料だと分かると、不思議なことだがいろいろなことに納得しそうになる。例えば、看護師は基本的には皆親切であったが、仕事が雑であり、使用済みの医薬品を平気で私のベッドの上に放置していくことがあった。一度、抗生物質の入っていた空き瓶が置かれていたのに気がつかず私が寝返りを打って瓶が落下し、ガラスが床に散乱したことがあった。また、点滴の抜き差しも雑であるためしばしば自分の血が服やシーツに飛散した。日本で入院したことがないので断言はできないが、日本ではありえないことだろう。

 27日はもう一泊もとのアパートメントに泊まり、翌28日に空港のホテルに移動、29日の便でウィーンに帰国した。27日に指示された薬を買い、服用を続けている。熱は28日頃には完全に引き、腹痛自体も今はほぼないが、まだお粥などの軽い食事しか食べる気にならないという状態である。肝心の胃腸炎の原因となった菌あるいはウイルスについては医者曰く数日後に判明するということだったので、そろそろ問い合わせれば教えてくれるかもしれない。旅行二日目夜の発症なので可能性は限られるが、かといって変なものを食べたわけではないので特定はできない。いずれにせよ、これほど強力な胃腸炎は生まれて初めてである。

 今回は旅行保険に入っていたので、無料だった入院費は措くとしても、ローマ以外のホテルのキャンセル料や早期帰国のための航空券代などが保険会社から支払われる見込みである。そうなれば、今回の顛末による金銭的な損失はなかったことになるので、近いうちにローマ以降の旅程をまったく今回の予定と同じルートで繰り返したいところである。