2014/09/01

2014/9/1


・ドゥッセルドルフとケルン

ケルン人のお気に入りのネタが、ドゥッセルドルフとケルンの争いだというのは、こちらに来てから知ったことだ。人口はケルンの方が多いが、州都はドゥッセルドルフである。観光資源はケルンに多いが、ドゥッセルドルフは日本を始め様々な企業の誘致に成功しており、豊かなのはドゥッセルドルフである。外国人の目から見ればケルンには大聖堂があるしとか思うが、ドゥッセルドルフに行ってみるととても近代的な都市で、ケルンにないものがあり、ケルン人の羨望も理解できると感じた。
この争いについて、ドゥッセルドルフの雑誌の記事を見つけたので訳してみた(当然、読む量を増やすためである)。



太古よりの争い:なぜケルン人はドゥッセルドルフが嫌いなのか?

ドゥッセルドルフ。ケルンとドゥッセルドルフのライバル関係は多くの面を持っている。DEGメトロスターズ対ハイエ、アルト対ケルシュ、Helau対Alaaf。多くは本気で言われているわけではない。しかし―中世より今日まで、両者の当時より非常に異なっていた都市の間の争いは再三存在した。ラインは両者を結びつけると同時に、別ってもいた。それぞれ異なる岸に位置しているからだ。

今日、両都市はメッセ、空港、新たな企業の誘致、また文化首都としても競合している。ドゥッセルドルフがそこで、多くの場合より豊かな成功を手にしている。

それはかつては違った。互いにたったの40kmしか隔てていない両大都市の間のライバル関係の歴史的な根について、Andrea Bartschが、及び城の塔にある船運博物館を巡る30人との講演ツアーの際に伝えた。出発点は、Bartschによれば、11世紀と12世紀に当時既に際立った交易都市であったケルン、大司教座は、未だ眠れるドゥッセルの村とは違い、関税の権利、積み替えと進水の権利を持っていたことにある。

これは次のことを意味した:バター、ニシンあるいはオランダからの織物のような、ラインを越えて運ばれる商品は、先での販売に成功するまえにまずケルンで中継保管されなければならない。そのことは、ケルンの港の何百もの船を示した古い銅版画が証拠立てている。

交易、それと結びついた労働市場は、ドムシュタットの市民たちを持てる者にした。反対に、ドゥッセルドルフ人は妬みながら、彼らがケルンの市場で相応の値上がり価格で買えるようになる前に、商品がまずは一度ラインの上で彼らの前を通り過ぎていくのを見つめなければならなかった。「あなたがたがそう望んだら、ケルン人は戦いを始めました。」Bartschは言う。後に、確かに両隣接都市の間に直行の航路ができた。しかし、さまざまな嫌がらせで、ケルン人は隣人を小さいままにとどめた。それについては、数年に及ぶ帝国最高法廷での戦いへと至った。それは、結局ケルン人の方をとった。

局面が変わったのは、ケルン人が交易でわずかしか金が稼げなかったために19世紀初めの工業化の開始を逸したときであった。今や、怒れるのはあなたがただった。ドゥッセルドルフ、Elberfeld、ゾーリンゲンの間の地域には、そこでのちに工業化が発達する前の昔から、煙突が煙を吹いていたからである。さらに、「上り調子の」ドゥッセルドルフへの羨望は、その都市が19世紀にプロテスタントのプロイセンによってライン地方の首都とされ、ずっと大きく、際立っているケルンはされなかったときに加わった。この恥辱は、イングランド人が第二次世界大戦の後、ドゥッセルドルフをノルドライン・ヴェストファーレン州の州都と宣言したとき、もう一度繰り返された。

Susanne Fimpeler,塔・船運博物館の代表は、このテーマ「ケルンとドゥッセルドルフのライバル関係の歴史的起源」への反響に驚いている。いま、彼女は同僚のAndrea Bartschと共同で、自らの展示をさらに準備するつもりだ。

http://www.rp-online.de/nrw/staedte/duesseldorf/warum-die-koelner-duesseldorf-nicht-moegen-aid-1.1128172