2018/05/30

結婚することについて


 ほとんどの人に報告できていないのだが、結婚することになった。まずは、この記事で初めて伝えることになってしまった知人友人に謝りたい。報告の時期も遅れてしまい、結婚式(身内のみでやります)まで20日を切っているという状況である。

 もともとは、「結婚」という制度・文化・習俗について、様々な視点から勉強、考察し、その成果を付した長大な結婚報告を著すつもりであった。自分の結婚はこの勉強のための最良の機会であるし、結婚を手掛かりに社会学という近くて遠い学問を覗こうかとも画策していた。しかし、端的に忙しく、とても専門外の読書に耽る時間などなく、簡単な報告で済ますことになってしまった。無論、結婚に人生における「功績」としての絶対的な価値を認めていない人間の一人として、人はなぜ結婚するのかという命題には関心を持ち続けている。加えて、当面は入籍なしの事実婚でやっていくので、そのあたりの実際的問題についても勉強する必要がある(さすがにこれはある程度しているが)。いずれ考えをまとめられる時期が来ると良いと思っている。

 相手の女性については特に触れる必要もないだろうが、一点、情報を正確にしておきたいので書いておく。彼女はEthnic Chineseではあるが、日本生まれ日本育ちで、母語は日本語である。数年前には日本国籍を取得した。こう書くとネトウヨに媚びているような文章だが、もちろんそんなことが言いたいのではない。彼女のアイデンティティについては言うまでもなく、私としても、中国という文明世界と直接的な接点を持てたことを幸運だと思っている(ヨーロッパを勉強しているだけに尚更である)。ともかく、日本の大学に留学に来ていた中国人ではない、ということだ。

 久々の更新なので最後に私の近況報告を。今年度から博士課程に進学し、ようやく某会から生活費と研究費をもらって自活できるようになった。6月の末に初めての国際学会での発表が控えており、その準備が忙しさの最大の要因。今後2年ほどは定期的に史料調査に行きつつ日本で研究し、そのあとは留学してそこで学位をとることを計画している。そのまま日本を脱出できるだけの能力を身につけられればよいのだが、そううまくはいかないだろう。
 
 今後ともよろしくお願いします。

2016/11/16

Georg von Rauch, Russland: Staatliche Einheit und nationale Vielfalt, Munich, 1953.


Georg von Rauch, Russland: Staatliche Einheit und nationale Vielfalt, Munich, 1953.

 本書は国家中枢の中央集権的志向と諸民族の分権的志向との間の緊張関係を軸にした、ロシア史の通史である。ロシアの多民族性に着目しているという点で、これはAndreas Kappeler, Rußland als Vielvölkerreichの先駆であり、ロシアの連邦制的改革案について取り上げている点で、Dimitri von Mohrenschildt, Toward a United States of Russiaの先駆である。帝国論、ナショナリズム論の隆盛によりKappelerの研究ですら既に古くなった今では、類書の少ない後者の視点で読むことが有用だろう。

 本書の優れた点は、何にもまして、キエフ・ルーシからソヴィエト連邦に至るロシア史上の全ての国家体制とその改革案に現れた連邦主義的原理を網羅的に取り上げようという企図にある。近代の帝国改革案はしばしば古来の国制を理想化とともに援用することで正当化されたから、正当化の根拠とされた国制の実情とその改革案をその場で比較対照できるのは、本書の通史的特徴の長所だと言える。また、アメリカ建国以後の連邦構想のみを扱ったvon Mohrenschildtに対し、著者はアメリカ建国以前に模索されたロシアの複合国家への改編にも視線を向けることで、複合国家と連邦国家との共通性を提示している。ただし、共通性にもかかわらず存在するであろう両者の原理的な相違について考察が十分なされているわけではなく、複合国家的改編と連邦国家的改編の構想は並列的に扱われている。
 
 ロシア史上の連邦主義的国家構想の網羅的考察という以上のような企図にもかかわらず、若干の漏れを指摘することはできる。例えば、本書で主に取り上げられているのは中央及び諸民族による国家構想であり、ロシア人の地域主義者(シベリアのポターニンなど)によるそれは重視されていない。著者は改編後の国家の地域単位の措定が、歴史的特権によるべきか、民族によるべきかの区別は行っているが、それ以外に、19世紀にはそれが経済的一体性によるべきだという議論が登場しており、その議論が例えばシベリア地域主義者の自治の主張の根拠とされたのだった。また、当時の研究水準でやむを得ない点であろうが、中央アジアやカフカースについての記述は薄い。他方、バルト・ドイツ人の回想録などにより、ラトヴィア人の運動についてはとりわけ詳しく論じられている。

 筆者の専門であるウクライナについては、ペレヤスラフ条約をロシア国制史上の画期とする記述と、1917年キエフでの諸民族大会の連邦制決議を民族の法的主体としての承認としてやはり国制史上の画期とする箇所に頷いた。オーストリア=マルクス主義の影響がブンドとラトヴィア・ナショナリストに対して以外具体的に論じられていないのは物足りなかった。

2016/06/12

ドイツの町と紋章54 ベルリン


Wappen des Landes Berlin

ベルリンはドイツ連邦共和国の首都で、人口は350万人。ベルリンだけで単独の州を形成している。

紋章には有名な「ベルリンの熊」が描かれている。なぜベルリンの紋章にこの熊が現れたのか、その起源ははっきりしない。第一の説は、ブランデンブルク辺境伯領を築いたアルブレヒト1世、の添え名が「熊」であることに由来する、というものだ。他に、ベルリンの音と近い熊(ベール)が取り入れられたという説がある。熊は1280年の印章に初めて現れ、しばらくブランデンブルクやプロイセンの鷲とともに描かれてきたが、20世紀になり、熊が単独で用いられるようになった。

なお、ハンブルクと同様、公式の紋章とは別に、市民が自由に使える紋章も存在している。

2016/05/31

読んだもの(5/2016)


引き続き連邦制。阿部、早坂の論文はどちらもウクライナ連邦主義の研究には有用だろう。
論文の手直しに向け再び一次大戦関連も読んだ。何よりロシア語のモノグラフ(バフトゥーリナ)を初めて通読したのが今月の成果。2014年にキエフで出た論文集は正直そんなに高いレベルではないが、レエントとヤニシンの研究史はウクライナでの研究動向を知るには重要か。


Langewiesche, Dieter, Die Monarchie im Jahrhundert Europas: Selbstbehauptung durch Wandel im 19. Jahrhundert, Heidelberg, 2013.

Бахтурина А. Ю., Политика Российской Империи в Восточной Галиции в годы Первой мировой войны, М., 2000.

Colley, Linda, Acts of Union and Disunion, London, 2014.

Himka, John-Paul, "The National and the Social in the Ukrainian Revolution of 1917-1920," in Archiv für Sozialgeschichte 34, 1994, S.95-110.

Biondich, Mark, "Eastern Borderlands and Prospective Shatter Zones: Identity and Conflict in East Central and Southeastern Europe on the Eve of the First World War," in Böhler, Jochen/ Borodziej, Wlodzimierz/ Puttkamer, Joachim von (eds.), Legacies of Violence: Eastern Europe's First World War, 2014, pp.25-50.

Heathorn, Stephen, "Let us remember that we, too, are English': Construction of Citizenship and National Identity in English Elementary School Reading Book," in Victorian Studies 38, 1995, pp.395-427.

Брейар, С.,  "Украина, Россия и кадеты," in In memoriam: Исторический сборник памяти Ф.Ф.Перченка, М./СПб., 1995, с.350-361.

Реєнт О. П./ Янишин Б. М., "Велика війна 1914-1918 рр. у сучасній українській історіографії," in Украінський історичний журнал, 2014, №3, с.4-21.

Реєнт О. П./ Янишин Б. М., "Перша світова війна в українській історіографії ," in Реєнт, О. (Упоряд.), Велика війна 1914-1918 рр. і Україна, К., 2014,

Солдатенко, В. Ф., "«Українська тема» в політиці держав австро-німецького блоку й Антанти," in Реєнт, О. (Упоряд.), Велика війна 1914-1918 рр. і Україна, К., 2014, с.80-109.

Реєнт О. П., "Перша світова війна й політичні сили українства," in  Реєнт, О. (Упоряд.), Велика війна 1914-1918 рр. і Україна, К., 2014, c. 302-309.

佐藤勝則編『比較連邦制史研究』多賀出版、2010年。

柴宜弘、中井和夫、林忠行『連邦解体の比較研究: ソ連・ユーゴ・チェコ』多賀出版、1998年。

池田嘉郎編『第一次世界大戦と帝国の遺産』山川出版社、2014年。

ブルンナー、オットー(石井紫郎他訳)『ヨーロッパ―その歴史と精神』岩波書店、1974年。

上条勇『文化的民族自治の理論―マルクス主義と多民族共生への模索―』金沢大学人間社会研究域経済学経営学系、2015年。

阿部三樹夫「コストマーロフのウクライナ主義と連邦主義」『ロシア史研究』41、1985年、81-104頁。

早坂真理「ロシア・ジャコバン派とミハイロ・ドラホマノフの論争 ―国際主義と民族主義の狭間―」『茨城大学教養部紀要』26、1994、53-77頁。

2016/05/01

読んだもの(4/2016)


連邦制、とくにドイツとナロードニキ。それに付随して、マルクス主義における民族問題と共同体論。あとはひたすら『スラヴ研究』。
Корольовのものは初めて読んだウクライナ語論文だが、かなり雑だった。Langewiesche, von Mohrenschildtはどちらも良書。


Langewiesche, Dieter, Reich, Nation, Föderation: Deutschland und Europa, München, 2008.

Von Mohrenschildt, Dimitri, Toward a United States of Russia: Plans and Projects of Federal Reconstruction of Russia in the Nineteenth Century, East Brunswick/London/Toronto, 1981.

Freeze, Gregory L., "The Soslovie (Estate) Paradigm and Russian Social History," in The American Historical Review 91(1), 1986, pp.11-36.

Dixon, Simon, "Russia's Soslovie (Estate) Paradigm Revisited," in The Slavonic and East European Review 93(4), 2015, pp.732-740.

Stakhiv, Matviy, "Drahomanov's Impact on Ukrainian Politics," in The Annals of the Ukrainian Academy of Arts and Sciences in the U.S., Vol. II, Spring, 1952, No. 1 (3), pp.47-62.

Хрипаченко, Т. И., "«Автономия» и «Федерация» в дебатах либералов и украинских националистов по «Украинскому вопросу»," in Вестник Омского университета, 2011, № 1, c.123-131.

Кудряшев, Вячеслав Николаевич, "М. П. Драгоманов и русские социалисты: дискуссия о федерализме," in Вестник Томского государственного университета 336, 2010, с.82-85.

Корольов, Геннадій, "Ідея федералізму як парадигма історичної перспективи доби Української революції 1917–1921 рр.," in Український історичний журнал 494, 2010, с.103-117.

和田春樹『マルクス・エンゲルスと革命ロシア』勁草書房、1975年。

和田春樹『農民革命の世界 : エセーニンとマフノ』東京大学出版会、1978年。

肥前栄一『ドイツとロシア : 比較社会経済史の一領域』未来社、1986年。

アンダーソン, ジョージ『連邦制入門』関西学院大学出版会、2010年。

イム・ホーフ, U.(森田安一監訳)『スイスの歴史』刀水書房、1997年。

コリー, リンダ(川北稔監訳)『イギリス国民の誕生』名古屋大学出版会、2000年。

外川継男「ゲルツェンにおける「スラヴ連邦」の思想をめぐって」『東欧研究会会報』2、1966年、16-22頁。

青木節也「「民族革命」の運命―ウクライナにおける民族統一戦線の成立と解体 1917-1920―」菊地昌典編『ロシア革命論 歴史の復権』田畑書店、1977年、260-301頁。

矢田俊隆「プラハに開かれた最初のスラヴ民族会議がヨーロッパ諸民族にあてた声明 (訳及び解説)」『スラヴ研究』3、1959年、93-100頁。

萩原直「ニコライ・バルチェスクにおける「ネーション」と「農奴解放」の問題」『スラヴ研究』6、1962年、43-64頁。

鳥山成人「ポーランド=リトワ連合小史(ミェルニクの連合まで)」『スラヴ研究』10、1966年、1-26頁。

外川継男「檄文の時代 : 人民主義の発生をめぐる若干の資料と解説」『スラヴ研究』16、1972年、161-207頁。

伊東孝之「東欧の民族問題とマルクス主義の民族自決権概念 : ローザ・ルクセンブルク」『スラヴ研究』18、1973年、53-96頁。

鳥山成人「エカテリナ2世の地方改革―その動機と背景に関する問題と諸見解―」『スラヴ研究』20、1975年、25-48頁。

早坂真理「ヴァレリアン・カリンカの保守主義思想 : 農民解放とホテル・ランベール(1852-1861)」『スラヴ研究』22、1978年、191-216頁。

原暉之「シベリア・極東ロシアにおける十月革命」『スラヴ研究』24、1979年、75-126頁。

西山克典「ロシア革命と農民―共同体における"スチヒーヤ"の問題によせて」『スラヴ研究』29、1982年、11-40頁。

林忠行「パリ平和会議の期間におけるチェコスロヴァキアと「ロシア問題」」『スラヴ研究』30、1982年、71-94頁。

稲掛久雄「「人民の権利」党をめぐって―その形成から「崩壊」までー」『スラヴ研究』32、1985年、106-126頁。

遠藤泰弘「ヴァイマル憲法制定の審議過程におけるフーゴー・プロイス ―直接公選大統領制をめぐって―」権左武志編『ドイツ連邦主義の崩壊と再建 ― ヴァイマル共和国から戦後ドイツへ ―』岩波書店、2015年、2-25頁。

飯田芳弘「ヴァイマル共和国における民主的単一国家論」権左武志編『ドイツ連邦主義の崩壊と再建 ― ヴァイマル共和国から戦後ドイツへ ―』岩波書店、2015年、26-63頁。

シェーンベルガー, クリストフ(遠藤泰弘訳)「ドイツ連邦国家の発展 ―1870年から1933年まで―」権左武志編『ドイツ連邦主義の崩壊と再建 ― ヴァイマル共和国から戦後ドイツへ ―』岩波書店、2015年、231-248頁。

藤波伸嘉「ババンザーデ・イスマイル・ハックのオスマン国制論―主権、国法学、カリフ制―」『史学雑誌』124(8)、2015年、1-38頁。

西村木綿「民族の「自決」とは何か:ユダヤ人「ブンド」の問いをめぐって」『社会思想史研究』39、2015年、131-149頁。

2016/02/03

ドイツの町と紋章53 グライナウ


Wappen der Gemeinde Grainau

グライナウはガルミッシュの隣の小さな町で、人口は3400人。ツークシュピッツェに向かう鉄道はこの町を通り、2600mまで登ってゆく。
僕もツークシュピッツェに滑りにいくときに立ち寄った。ツークシュピッツェがどの自治体に属しているのかはよくわからない(何せ展望台にオーストリアとの国境があるくらいだし)。

紋章は、左に赤い口の熊の頭部が、右にアヤメの意匠が描かれている。熊の頭は、かつて「熊のふるさと」と呼ばれたバイエルン・アルペンの森で仕留められた最後の熊を想起させるものである。最後の狩猟は19世紀前半にフライジンク司教領の猟師長によりなされ、熊の頭はガルミッシュ林務官邸の記念像となった。アヤメの紋章はフォン・ハンマースバッハ家に由来する。

ドイツの町と紋章52 ガルミッシュ=パルテンキルヒェン


Wappen des Marktes Garmisch-Partenkirchen

ガルミッシュ=パルテンキルヒェンはバイエルン南部のマルクトで、人口は26000人。1935年、翌年の冬季オリンピック開催のため、ナチの要請でガルミッシュとパルテンキルヒェンが合併して誕生した。
スキーリゾートとなっており、僕もガルミッシュに滑りに行った。市内に宿泊するとバスや近郊電車に無料で乗れたりする。

紋章は左に鷲が、右に赤と白の帯が描かれている。これは合併前の両自治体とは関係がなく、当地を領有したエッシェンローエ伯の紋章である。紋章の制定はガルミッシュ=パルテンキルヒェンを中心とするヴェルデンフェルス伯領がエッシェンローエ伯により統治されていたという誤った認識に基づいてなされた。実際には、ヴェルデンフェルス伯領の創設はもっと最近の出来事であり、エッシェンローエ伯とは関係がない。これにより、ガルミッシュ=パルテンキルヒェンの紋章は近隣の自治体エッシェンローエとほとんど同じものになったが、以上の経緯はおそらく冬季オリンピック開催に合わせて急いで紋章が用意されたことに起因している。

下図はエッシェンローエの紋章。

Wappen der Gemeinde Eschenlohe