2016/01/24

ドイツの町と紋章44 インゴルシュタット


Wappen der Stadt Ingolstadt


インゴルシュタットはオーバーバイエルンでミュンヘンに次ぐ第二の都市で、バイエルン全体でも五番目の人口を有している。アウディの本拠地として有名。

紋章は、白地につめのついた青いヒョウが描かれたものである。かつて町の印章には守護聖人の聖マウリティウスが描かれていたが、やがて紋章学でヒョウと呼ばれる寓話上の生物が登場し、それが単独の意匠となった。ヒョウの紋章の起源には諸説あり、シュパンハイム家のものに由来するというものが有力で、ヴィッテルスバッハ家の神聖ローマ皇帝ルートヴィヒ4世により授けられたという伝説もある。1340年以来、現在と同じ紋章が用いられている。

2015/09/04

[論文メモ] von Hagen, Mark. “Revisiting the Histories of Ukraine,” in Georgiy Kasianov/ Philipp Ther (ed.), A Laboratory of Transnational History: Ukraine and Recent Ukrainian Historiography. Budapest/N.Y., 2009 等三論文


von Hagen, Mark. “Revisiting the Histories of Ukraine,” in Georgiy Kasianov/ Philipp Ther (ed.), A Laboratory of Transnational History: Ukraine and Recent Ukrainian Historiography. Budapest/N.Y., 2009

Ther, Philipp. „Die Nationsbildung in multinationalen Imperien als Herausforderung der Nationalismusforschung,“ in Andreas Kappeler (Hg.), Die Ukraine: Prozesse der Nationsbildung. Köln/Weimar/Wien, 2011

Wendland, Annna Velonika. „Ukraine Transnational: Transnationalität, Kulturtransfer, Verflechtungsgeschichte,“ in Andreas Kappeler (Hg.), Die Ukraine: Prozesse der Nationsbildung. Köln/Weimar/Wien, 2011


いずれも、「ウクライナ史」へのアプローチに関する、最新の研究動向を踏まえての問題提起。

von Hagenはかつての挑発的なvon Hagen, Mark. “Does Ukraine Have a History?” in Slavic Review 54-3, 1995を振り返りながら、現在注目すべき視点をいくつか挙げている。境界領域、地域などはスラ研のおかげもあって馴染みがあるが、都市という視点はあまりとられていないように感じる(リヴィウは例外)。ともかく、多様性こそにウクライナ史の特徴があるという論点は、1995年から変わっていない。

Therは帝国という場への視点が今までのナショナリズム論に欠けていたと指摘し、ネイションと帝国政府の相互作用や、「ネイション化する帝国(ドイツやロシア)」とその臣民であるネイションのナショナリズムとの緊張関係などに着目すべきと述べる。また、ナショナリズム内部の潮流においても、帝国や王朝原理に迎合的なものが存在する場合がある。いずれの視点も、ウクライナ史によくあてはまっており、今後の可能性を感じさせる。

Wendlandはトランスナショナルヒストリー、文化交換、絡み合いの歴史の視点をウクライナ史に導入した。ウクライナ・ネイションビルディングは、フロフ論のような内在的な語りでは捉えられないトランスナショナルな運動だった。ドニプロとガリツィアの知的交流、ポーランド人からの民族理論の吸収、ディアスポラから、反ユダヤ主義、ホロドモル、ナチとの協力などの負の側面まで、ウクライナ史は文化交換と絡み合いに満ちている。さらに、相互作用の特に濃密だった都市や境界地域
、そしてそこでの同化と異化についても、研究が期待される。最後に著者は、既にウクライナのトランスナショナルな面を鋭く指摘し、自らが文化交換の主体として活動してきたミハイロ・ドラホマノフに注目する意義を、改めて述べている。

第一次世界大戦におけるウクライナ・ナショナリズムについて、ドイツ・オーストリアとウクライナ人インテリの間の文化交換を通して語ることは可能かもしれない。

[論文メモ] Magocsi, Paul Robert. “Old Ruthenianism and Russophilism: A New Conceptual Framework for Analyzing National Ideologies in Late-Nineteenth-Century Eastern Galicia,” in Paul Robert Magocsi, The Roots of Ukrainian Nationalism: Galicia as Ukraine’s Piedmont. Tronto/London/Buffalo, 2002


Magocsi, Paul Robert. “Old Ruthenianism and Russophilism: A New Conceptual Framework for Analyzing National Ideologies in Late-Nineteenth-Century Eastern Galicia,” in Paul Robert Magocsi, The Roots of Ukrainian Nationalism: Galicia as Ukraine’s Piedmont. Tronto/London/Buffalo, 2002 (first appeared in Paul Debreczeny (ed.), American Contributions to the Ninth International Congress of Slavists, Kiev 1983, Vol. II. Colombus, 1983, pp. 305-324)

ガリツィアのウクライナ・ナショナリズム研究の古典の一つ。おそらく、最初にポピュリスト史観を批判し、侮蔑的に扱われていた「ルソフィル」に光を当てた論文である。
著者はまずルソフィルとウクライノフィルの二分法を批判し、ルソフィルのなかにも時代によって異なる潮流が存在し、「老年ルテニア人」と「ルソフィル」に区別されるべきだと述べる。「老年ルテニア人」とは1848年に主役となったインテリ勢力で、ルーシの一体性、反ポーランド、ハプスブルク帝国への忠誠、ユニエイト教会との緊密性などに特徴がある。一方、著者の定義する「ルソフィル」は1890年代に登場した新たな潮流で、ロシア人との一体性、ロシア語の使用、オーストリア批判、共通の敵ウクライノフィルに対抗してのポーランド人との協力、などが特徴である。

おそらく、後の議論に影響を与えた論点は次の二つである。まず、ウクライノフィル、老年ルテニア人、ルソフィルの三勢力は19世紀前半に登場した老年ルテニア人から枝分かれしたものであり、元々共通の根を持っていたという説。これは、ウクライノフィルとルソフィルの時間超越的な二分法を退けるもので、ルソフィルをウクライナ・ナショナリズム内の保守勢力として再定義したWendlandの議論などに影響を与えたと思われる。第二点は、「ルソフィル」は「老年ルテニア人」からの枝分かれであって変身ではなく、「ルソフィル」登場後も第一次世界大戦期まで「老年ルテニア人」は存在しつづけたという説。これについては批判的応答が多い感覚があるが(Himkaがそうだった気がする)、もう一度註などで触れている諸論文を整理しなくてはいけない。

2015/08/30

[論文メモ] Jobst, Kerstin S. „Marxismus und Nationalismus: Julijan Bačyns'kyj und die Rezeption seiner „Ukraïna irredenta“ (1895/96) als Konzept der ukrainischen Unabhängigkeit?,“ in Jahbücher für geschichte Osteuropas 45, 1997


Jobst, Kerstin S. „Marxismus und Nationalismus: Julijan Bačyns'kyj und die Rezeption seiner „Ukraïna irredenta“ (1895/96) als Konzept der ukrainischen Unabhängigkeit?,“ in Jahbücher für geschichte Osteuropas 45, 1997

ウクライナ民族史観において独立ウクライナを提唱した最初の書物として称揚される„Ukraïna irredenta“だが、その肩書きが果たして正当なものなのか、著者であるバチンスキーの経歴を詳しく辿ることによって検討している。バチンスキーはラディカル党においてHimkaの言う「青年」ラディカルとして独立ウクライナを唱え、のちに社会民主党党員となり西ウクライナ人民共和国に参加した。20年代のソ連領ウクライナでのコレニザーツィヤに感銘を受けるとソ連に移住した。このような亡命ウクライナ人知識人での親ソ的傾向は珍しくなかったが、実際にソ連に移住した者の多くはやがてスターリン時代の粛清の被害者となった。バチンスキーも収容所で生涯を閉じた。

今までバチンスキーを扱った歴史家の多くは、彼を単純にウクライナ・ナショナリストとして描くことを躊躇させるソ連移住のエピソードについて、無視するか全く気付かずにいた。さらに、問題の書物„Ukraïna irredenta“を詳しく読めば、バチンスキーはマルクス主義の立場からウクライナ国家を想定しており、経済的な問題が解決されれば、やがて国家は不必要になると考えていたことが分かる。つまり、彼にとって独立ウクライナは発展段階の一部を構成する要素でしかなかった。また、同時代の知識人も、„Ukraïna irredenta“を独立ウクライナ提唱の書としては読まず、社会民主党の一派閥による政治的パンフレットとしか見なされなかった。確かにマルクス主義に熱中する一部の党員や学生には読まれたが、ナショナリズムを主導するような影響力はなかった。

本論において著者はバチンスキーを扱ったウクライナの通史のほとんどを批判しているが、2010年には自ら通史を著し、そこでしっかりバチンスキーの脱神話化を行っている。

Jobst, Kerstin S. Geschichte der Ukraine. Stuttgart, 2010

[論文メモ] Zayarnyuk, Andriy. “On the possibility of peasant intellectuals: the case of the Ukrainians in Habsburg Galicia,” in Social History 39-1, 2014


Zayarnyuk, Andriy. “On the possibility of peasant intellectuals: the case of the Ukrainians in Habsburg Galicia,” in Social History 39-1, 2014

ナショナリズム論の主流をなす近代主義、構築主義においては、インテリに非常に重要な役割が与えられている。とりわけ、ウクライナを含む東欧のネイションビルディングについて論じる歴史家は、常にインテリに注目し、彼らを目覚めつつあるネイションの先導者と見なしてきた。一方、当時は人口の大半を成していた農民は、農奴解放後の社会で「伝統的」存在として描かれ、「近代的」な都市の知識人と対置されている。そこで、そのような農民像の批判的検討を目指し、著者は「農民インテリは可能か?」という問いを提示し、ガリツィアにおける「啓蒙された」農民の活動を辿り、彼らが実際はグラムシの「有機的知識人」に相当するような存在であったことを示した。

重要なのは、著者の言う「農民インテリ」が単なる都市のインテリ層の地方における代弁者であったわけではなく、農民としての自意識を持ちながら知的活動に従事していたという点である。さらに、ナショナリズム論の伝統的な農民像への反駁としては、その活動がルテニア・ネイション全体の規模に及んでいたことが重要である。オーストリア=ハンガリーにおいてはあらゆる政治はネイションが舞台となり、農民インテリはそのネイションを(実践的には新聞や雑誌、読書会などを)、農民全体の利害形成の場として利用した。やがて、ネイション・レヴェルの農民インテリの交流は、農民政党を自認するラディカル党の誕生をもたらした。

[論文メモ] Himka, John-Paul. “Young Radicals and Independent Statehood: The Idea of a Ukrainian Nation-State, 1890-1895,” in Slavic Review 41-2, 1982


Himka, John-Paul. “Young Radicals and Independent Statehood: The Idea of a Ukrainian Nation-State, 1890-1895,” in Slavic Review 41-2, 1982

1890年代前半のルテニア・ラディカル党における世代間論争について。ドラホマノフの影響を受け、連邦制のなかでのウクライナを目指すFranko,Pavlykら「老年」ラディカルに対し、マルクス主義の影響を強く受けたBudzynovs'kyi, Bachyns'kyiら「青年」ラディカルは独立国家としてのウクライナを政治的目標とした。彼らは、ドラホマノフが唱えたアナーキズムを主調とする社会主義は時代遅れだと見なし、ウクライナ人の生き残りと発展のためには政治的独立、そして自立した社会機構が不可欠だと論じた。

青年ラディカルは初めて自治を超えて独立ウクライナを唱えたため、民族史観では純粋なウクライナ・ナショナリストとして描かれがちである。しかし、Himkaは独立国家案が旧来のドラホマノフ主義に対するマルクス主義からの反発として生じたものであることを示した。また、「民族発展の基盤として国家が必要」という主張は、ナショナリズムの段階的な発展(文化的覚醒→大衆動員→政治的要求)を想定する議論とは真逆の論理であり、ウクライナ以外のネイションとの比較の可能性も感じさせる。

2015/08/17

ドイツ留学答え合わせ


ドイツ観光局のホームページに「外国人観光客が選んだドイツの観光地ベスト100」というものが掲載されていたので、単純にそのうちいくつに訪問できたのか数えてみる。基準は緩めで、内部に入らなかった建物なども含めてしまう。
以下がそのランキングで、訪れたところは太字にした。


  1. ヨーロッパ・パーク(遊園地)
  2. ノイシュヴァンシュタイン城
  3. ケルン大聖堂
  4. ハイデルベルクの旧市街と城
  5. ブランデンブルク門(ベルリン)
  6. ローテンブルク・オプ・デア・タウバー旧市街
  7. ボーデン湖とマイナウ島
  8. ツークシュピッツェとパルテナッハ渓谷(ガルミッシュ=パルテンキルヒェン)
  9. ベルリンの壁  
  10. ロマンティック街道
  11. シュヴァルツヴァルト自然公園
  12. ケーニヒス湖
  13. カイザーブルク(ニュルンベルク)
  14. オクトーバーフェスト(ミュンヘン)
  15. モーゼル峡谷
  16. フラウエン教会(ドレスデン)
  17. ドイツ国会議事堂(ベルリン)
  18. ベルヒテスガーデン
  19. ザクセンのスイス
  20. リューゲン島
  21. ローレライとライン中流
  22. ドレスデン旧市街
  23. ハルツ国立公園
  24. ニュルンベルク・クリストキンドルマルクト
  25. レーゲンスブルク旧市街と聖ペテロ大聖堂
  26. フライブルク大聖堂
  27. サンスーシ宮殿(ポツダム)
  28. マウルブロン修道院
  29. キムゼー湖とヘーレンキムゼー島
  30. ハンブルク倉庫街とミニチュア・ワンダーランド
  31. エルツ城
  32. ダンケルン城休暇村
  33. バンベルク旧市街と大聖堂
  34. レジデンツ(ヴュルツブルク)
  35. リンダーホーフ城
  36. ホーエンツォレルン城
  37. 博物館島(ベルリン)
  38. アリアンツ・アレーナ
  39. ローマ建築遺跡群と聖母教会(トリーア)
  40. ハンザ都市リューベクとホルシュテン門
  41. ファンタジーランド(遊園地)
  42. ハンブルク港と魚市場
  43. ティティ湖
  44. ヴァルトブルク
  45. DDR博物館(ベルリン)
  46. アーヘン大聖堂
  47. マリエン広場(ミュンヘン)
  48. アレクサンダー広場のテレビ塔(ベルリン)
  49. ヴィルヘルムスヘーエ公園(カッセル)
  50. レゴランド
  51. リューデスハイムのつぐみ横丁、ロープウェイ、記念碑、ワイン畑
  52. ゼンパーオペラ(ドレスデン)
  53. ドイツの角、エーレンブライトシュタイン城塞(コブレンツ)
  54. ツヴィンガー宮殿(ドレスデン)
  55. クヴェードリンブルクの教会、城、旧市街
  56. ベルリン動物園
  57. ハーメルンのネズミ取りの家
  58. バーデン・バーデン浴場
  59. ヴィース巡礼教会
  60. 英国庭園(ミュンヘン)
  61. ウルム大聖堂
  62. バウハウスゆかりの地(ワイマール、デッサウ)
  63. ベルリン大聖堂
  64. ディンケルスビュールの後期中世の旧市街
  65. オリンピック公園とオリンピック・スタジアム(ミュンヘン)
  66. デュッセルドルフ旧市街
  67. ルートヴィヒスブルク城
  68. ホーエンシュヴァンガウ城
  69. シュパイヤーのカイザードム
  70. ホーフブロイハウス(ミュンヘン)
  71. ヴァッテン海
  72. ヴィクトゥアリエン市場(ミュンヘン)
  73. ハイデ・パーク
  74. アウグストゥスブルク城とファルケンルスト(ブリュール)
  75. ノイシュタット(ワイン街道)
  76. 新・旧ピナコテーク(ミュンヘン)
  77. ニュルブルクリング
  78. マリエンブルク要塞(ヴュルツブルク)
  79. 諸国民戦争記念碑(ライプツィヒ)
  80. オーバーアマガウ
  81. ドイツ博物館(ミュンヘン)
  82. 黄金の間(アウグスブルク)
  83. BMWワールド・BMW博物館(ミュンヘン)
  84. レーマー(フランクフルト・アム・マイン)
  85. ハノーファー新市庁舎
  86. フェルクリンガー・ヒュッテ
  87. ゲルリッツ旧市街
  88. メルヘン街道
  89. フラウエン教会(ミュンヘン)
  90. ホーエンシェーンハウゼン記念館(ベルリン)
  91. エアフルト大聖堂
  92. カヌーパーク・マルクレーベルク
  93. 自動車都市ヴォルフスブルク
  94. アウグスブルク大聖堂
  95. ニンフェンブルク宮殿とその庭園(ミュンヘン)
  96. フッゲライ(アウグスブルク)
  97. リヒテンシュタイン城
  98. ブレーメン市庁舎とローラント像
  99. ライヒスブルク(コッヘム)
  100. メルセデス・ベンツ博物館(シュトゥットガルト)
59/100ということで、一年間にしてはよく頑張ったと思う。
自然系の名所とか遊園地とか、残りは知らないところも多かった。