2015/07/25

ドイツの町と紋章43 プファッフェンホーフェン・アン・デア・イルム


プファッフェンホーフェンはオーバーバイエルンの都市で、ミュンヘン、アウグスブルク、インゴルシュタットを結んだ三角形の中心に位置する。
クリスマスマーケットの時期に訪れたが、確か朝早くてまだ店は閉まっていた。

紋章は以下の通り。

Wappen der Stadt Pfaffenhofen a.d. Ilm

黄色いジグザグ模様はかつてのヴィッテルスバッハ家の自由領に由来し、13世紀の印章で用いられていた。このジグザグは後にヴィッテルスバッハ家が所有する修道院などの紋章にも用いられ、やがてプファッフェンホーフェン地域を象徴するものとなった。ある時期は町の名前とかけた坊主(Pfaffe)の意匠も描かれていたが、1812年にバイエルン王マクシミリアン1世によって今日の紋章が定められた。

2015/07/13

ドイツの町と紋章42 グレーフェルフィング


プラネグのすぐ北の町。これも同日、クリスマスマーケットを訪問。

Wappen der Gemeinde Gräfelfing

中央の青帯は町を流れるヴルム川を表し、上部の赤い王冠は町と関係の深いベネディクト修道会の象徴である。下部の赤い七つの葉のブナ(Buche)は、Rottenbuch司教座聖堂参事会とかかっている(1206年、フライジンク司教のオットー2世が、この参事会本部をグレーフェルフィングに移した)。この紋章は1961年に制定された。

2015/07/12

ドイツの町と紋章41 プラネグ


ガウティングど同日、クリスマスマーケットのため訪問。

紋章は以下の通り。

Wappen der Gemeinde Planegg

中央の青い帯は町に流れるヴルム川を表し、下部の緑の草原(Plan)は町の名前(Planegg)とかかっている。赤いフクロウは当地を支配し、バイエルン公国の政治家一族として重要な役割を果たしたHoerwarth家のシンボルである。プラネグは1732年まで当家の所領であった。この紋章は1951年に制定された。

2015/07/09

ドイツの町と紋章40 ガウティング


ガウティングはミュンヘン南西部のベッドタウン。クリスマスマーケットだけのための訪問。

紋章は以下の通り。


Wappen der Gemeinde Gauting

水車の輪は町を流れるヴルム川に多くの水車が置かれていたことを表している。そして、カール大帝は742年に水車小屋で生まれたというガウティンクでの伝承から、輪の上に王冠が描かれた。ガウティンク周辺にカロリング家の所領があったという説もあるらしい。全体の色は、ヴィッテルスバッハ家の青と白が基調となっている。

2015/07/08

ドイツの町と紋章39 フライジンク


フライジンクはミュンヘン近郊最大の都市で、人口は4万5千人。S1はNeufahrnで空港行きとフライジンク行きに分離する。
フライジンクにはバイエルンで最初の部族大公領がおかれ、やがてフライジンク司教区の首都となった。バイエルンのミュンヘンの勃興とともに徐々に重要度を失ってゆくまで、バイエルンの聖俗の中心として栄えた。

紋章は以下の通り。

Wappen der Stadt Freising

上部にはバイエルンの菱形模様が、下部には初代フライジンク司教であるコルビニアンの象徴である熊が描かれている。かつてはフライジンクの黒ん坊と教会の塔の意匠も存在したが、18世紀末に熊が唯一のモチーフとなった。フライジンクが世俗化されバイエルン領に併合されると、菱形模様が加えられた。現在の紋章は1819年に定められたものである。


バロックのフライジンク大聖堂。


PB290034

2015/07/05

ドイツの町と紋章38 ファターシュテッテン


ファターシュテッテンはミュンヘンの東に位置する町で、人口2万2千人。都市でもマルクトでもない自治体としてはバイエルンで二番目に人口が多いらしい。
ここからはクリスマスマーケット目的の訪問が多いので、詳しくは当時の記事を参照。

紋章は以下の通り。



左上の緑のスイレン模様は12世紀にファターシュテッテンの教会が所属していたテーゲルン修道院を、右下の金の縦帯は古道を表している。この紋章は1969年に制定された。

2015/7/5


・発表について

先日歴史学科のゼミで発表を行った。留学生活はまだ一月残っているが、かなり入念に準備して臨んだので、この一年の集大成として位置付けていた。一応、ここでまとめておく。

ゼミは19世紀のガリツィアについてのゼミであり、僕は「ロシアから見たガリツィア(Galizien aus russischer Perspektive)」という題で発表した。他の学生はだいたいハプスブルク支配と関連する発表をしていたので、少し異なる視点を提供できたとは思う。ドイツ語に自信がなくほぼすべての文章を原稿にした結果、理論と実践の分析から結論を導き出すかなり論文的な構成になってしまったのは、今のドイツ語力の限界だろう。とはいえ、日頃ほとんど会話していないにもかかわらず、意外とすらすら喋れたのはよかった。

内容は、ガリツィアのウクライノフィルやポーランド人が喧伝した「ロシアの脅威」「狂信的汎スラヴ主義」「ルソフィルとの共闘」「ウクライナ人の抑圧」などのテーゼをロシアの側から検証するというもので、まずロシアのナショナリズムはウクライナ人に対して抑圧的というより統合的であったということを全ロシア人概念から示し、次に実際のガリツィア政策ではハプスブルクの王朝的正統性を重んじたツァーリとロシア政府が積極的な介入を嫌ったため、ルソフィルへの支援やプロパガンダ活動も限定的だったことを述べた。ネイション概念についてはAlexei Miller、ルソフィルとの関係についてはAnna Velonika Wendlandを主に参照した。

ほとんど発表準備を始める前はほぼ何も知らなかったテーマなので、自分としてもそれなりに有意義な発表だった。ただ、今回のような「ロシアの脅威」の反証が狙いとなるとどうしても「ガリツィアはロシア帝国の政策においてそれほど重要ではなかった」という結論に至ることになり、この視点をこれ以上深めるのは難しそう。純粋にロシア史の文脈からロシアにおけるガリツィア・イメージの変遷を検討するとかなら面白そうだが。