F. ハルトゥング(成瀬治・坂井栄八郎訳)『ドイツ国制史――15世紀から現代まで』岩波書店、1980年。
ドイツ国制史の古典で、ひとえに勉強のため。領邦君主と領邦等族の二元主義などの近世ドイツ史の重要問題を学び、近代史に関しても、ヴェストファーレン講和以後もフランスに接した西南諸領邦を中心に、神聖ローマ帝国の改革が模索されていたこと、ドイツ連邦の機能不全はその弱さではなく、むしろ実力に見合わぬ中央権力の強さにあったこと(すなわち、強大な中央権力は個々の領邦の反発を受けたし、さらに連邦はプロイセンとオーストリアという二大国によって自国のために利用された)などが分かり面白かった。
ハルトゥングは諸領邦の分立主義と帝国のあいだの緊張を重視するが、それはナポレオンによって帝国が分解されれば問題が解決されるような単純なものではなかった。ヴェストファーレン講和以後、主権を獲得した小領邦は、自らが帝国なしには存在も危ぶまれるほどに弱小であることに気づき、家産領の増進に専念していたハプスブルク家の皇帝に対抗し、再び帝国権力を強めることを試みた。結局それは失敗に終わるが、ウィーン会議以後即座にドイツの統一的権力樹立の試み(ドイツ連邦)が開始されたのであり、それは1871年のドイツ帝国の誕生まで連続していた。そう考えると、ドイツ統一は1848年革命に象徴されるような「統一と自由」を求める自由主義的ナショナリズムの成果というよりは、ヴェストファーレン講和以来常に求められていた弱小な諸領邦の保護役としての帝国が、諸邦分立主義に対抗し得るプロイセンの強大な国内的・国際的実力と、ナショナリズムの高まりを巧妙に回収したビスマルクによって実現された、ということなのかもしれない。要するに、ドイツとイタリアの統一をロマン主義的な観点のみで同一視することはできない、ということだ。
ドイツ帝国の国制は、「君主制の個別諸邦を破壊することなしにそれらを統一体にまとめあげるという、ドイツの歴史的発展によって与えられていた特別な課題を巧みに解決」(382頁)したのであり、「これは他の連邦国家、たとえばアメリカ合衆国やスイスとのいかなる比較も不可能にするものである」(384頁)、という。僕にとっての問題は、ドイツ帝国的連邦制がのちに現れる連邦国家のモデルとなることはあったのかという点だが、上述の特殊性はそのまま神聖ローマ帝国という「怪物」の特殊性に由来するのだから、なかなか見つからないだろう。
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