2014/10/12

2014/10/11


・特になし

四連休の二日目、今日は髪を切る予定だったが取りやめ、読書を中心に日本での休日と変わらぬ一日を過ごした。逆にこういう日があると「留学」が始まったんだなと実感する。非日常感のあったケルンの日々とは違う。

最近はVolker Berghahnの第一次世界大戦についてのペーパーバックを読んでいるのだが、調べていたら今夏邦訳が出ていたことを知った(しかし原著9Euroが3000円超・・・)。ついでに第一次世界大戦で検索をかけたら、木村靖二が新書を書いていたり(留学前だったのに気付かなかったらしい)、マイケル・ハワードの翻訳が出ていたりと一応ブームは持続している模様。

2014/10/10

2014/10/10


・バイエルン州立図書館

僕が通っているミュンヘン大学のメインの建物Hauptgebäudeの向かいにバイエルン州立図書館がある。今日は授業がない四連休の初日であり、一日過ごすつもりでそこに行ってみた。ドイツ国内でもかなりの所蔵数を誇る図書館のようで、Worldcatで日本にない本を検索するとここには置いてあると出ることも多々あり、留学前から訪れるのを楽しみにしていた。

中に入ると早速備え付けのPCを立ちあげ、予めリストに入れておいた本をざっと眺める。この図書館は大学図書館と提携しており、先日入手した大学図書館のアカウントでそのままこの図書館のOpacシステムにもログインできるのだ。
開架式の図書館ではないため読みたい本をOpac上で注文する必要があり、ここで試しに気になる数冊を注文すると受取りは10月16日から可能になると言われた。開架でないのは予想していたが、まさか受取りに一週間弱もかかるとは思っていなかった。
雑誌コーナーは開架になっており、ロシア・東欧史関連の専門誌の充実ぶりを確認して満足。そのあとは持参した本を読み、結局昼過ぎにはすることもなくなって帰宅した。今後は欲しい本は早めに家で注文しておくべきだと学んだ。

2014/10/09


・授業初週終了

火曜日から木曜日までにしか授業を取らない僕は今日でミュンヘンでの授業日程の初週が終了したこととなる。とはいっても五つとるうちだったひとつは老人に怯えて既に切ったし、二つは来週が初日なので火曜日と今日それぞれ一つずつの授業に出席したのみである。来週からは語学学校の授業も始まるし、今週はウォーミングアップ程度と見なすべきだろう。
今日の授業は「ロシアとアジア」が主題であったが、教授の専門は日露戦争ということだった。教授の口からいずれ日本人の名や日本の地名が飛び出すかと思うとそれはそれで面白そうだが、僕としてはタタールやトルキスタンの征服の部分に興味がある。それにしても、パワーポイント授業なのでなんとかなりそうだが、聞き取れない・・・。

2014/10/08

2014/10/8


・授業後に机を叩く学生たち

昨日の記事で触れたが、ドイツの学生たちは授業終了の際片手で机をドンドンと叩くことで拍手に似た表現をする。気になって少し調べてみたが、日本語ではその事実は紹介されているものの起源に関する解説は見つからなかった。
そこでドイツ語で検索してみると2002年と古いがちょうどこの伝統を扱った記事があったので今日訳してみた。


なぜ学生たちはトントンと叩いて喝采を示すのか?

学生が授業のあとに喝采を打ち鳴らすとき、彼らはそれによって古き慣習に従っているのだ。ドイツ学生史協会のFriedhelm Golueckeは長らくこの領域で研究しており、我々にここで喝采表明の歴史への簡単な見通しを与えてくれる。

宗教改革の時代、学生寮(Bursen―教師と学生の住宅、教育組合だ)への強制が廃止されると、学生たちは自発的に同郷組合、今日まで広まってきた結合で組織した。それは19世紀の終わりまで、実際は学生の代表であった。それは学生たちの振舞いの規範を定めた―学生組合に属していない者にもである:いわゆるFinke、Kamel、Wilde、Obskurantに対してだ。(訳注:これらは順にアトリ、ラクダ、野蛮人、反啓蒙主義者の意であり、どれも学生組合に属していない学生を軽蔑的に指すとき用いられるようだ)
学生たちの相互関係にとって最も重要な規則は、コメントにおいて定められた。表彰の正式な儀式や、不快感に至るまでである:Vivat!(ラテン語、万歳!)あるいはPereat!(ラテン語、くたばっちまえ!)。学生寮で修道院に似た生活が支配的であったことを顧慮するならば、学生寮の解散でも簡単には放棄されなかった非常に古い伝統が一緒に付いてくることもあった。他方で、新たな影響も効果を持つようになった。例えば、啓蒙的なフリーメーソンと、彼らの集会所での慣習を通じて、である。

教育の範疇での学生による喝采と不快感の表明は、簡単には固定されなかったようだ。それは時間的にも、場所的にも相違している。起源は、たいていはっきりとは見つからない。時に、このような学生の表明は二義的でもある。18世紀後半から19世紀半ばにおけるアカデミックな教師の「口笛の野次」、それは今日一般的に、大学の外においても慣例となっているが、大学では新入生―「キツネ」たちの全く軽蔑的ではない挨拶をも意味することがあった。

似ているのが、新入生による講義の際の「太鼓叩き」であり、1800年ごろ、棒で床を突いていたのである。それは歓迎の挨拶だったが、しかしまた教授にとっては不快感の印ともなりえた。18世紀の終わりごろ、この場合こぶしが机に打ち付けられるようにもなった。

しかし同時に不快の印として既に「床を足でこする」と「シューシュー音を立てる」ことが知られていたので、机を叩くのは教師たちにとって喝采の表明へと変わっていったようだ。後に棒を講義に持っていくことはなくなったので、この場合足を踏み鳴らすことも慣例となった。

http://www.spektrum.de/frage/warum-bekunden-studenten-durch-klopfen-ihren-beifall/589114

2014/10/07

2014/10/7


・授業初日

今日は二つの授業に出る予定だったが、四限(たぶん)の「景観史」はだだっ広い教室に老人が10人ほどまばらに座っているのみという授業開始時刻の光景に怖気づき帰ってきてしまった。
二限の「19世紀の暴力」は、現代からの視点を前面に押しだした授業で、若干のinteraktiv志向もあり形式は好きではないが、内容には関心があるので今後も出席するつもり。こちらは200人くらいの学生と老人が集った人気授業だった。肝心の聴き取りは、教師の自己紹介や事務的な話はほとんど聞き取れず、授業内容に入るとなんとか筋は理解できるという感じだった。パワーポイント授業なので、ちゃんと文字の読める位置に座ればまったくついていけないということにはならないと思う。そして、授業終了と同時に学生が一斉に机を叩きだしたのは驚いた。調べてみたら想像通り拍手と同義のようだ。

4時間ほど空き時間があり学期中に通う語学学校の手続きを済ませ、さらに余った時間で歴史学科の図書館を訪れた。歴史学科だけで五階分、素晴らしい。今日は寝たかっただけなのだが寝てる人が見当たらなかったので机に突っ伏す勇気は出ず、HimkaのReligion and Nationality in Western Ukraineを席に運んで数ページ読んだのち座ったまま寝た。

2014/10/06

2014/10/6


・ミュンヘン入り

一ヶ月ぶりの更新。余りにも呆気なく更新が滞ったことに自らもいささか驚いている。

10月1日に寮に入り、学生証その他重要書類の受取り、各方面での住所変更、生活物資の買い出しなどにここ数日は追われていた。歴史学科で行われた留学生向けのオリエンテーションにも参加し、だいたいの学事進行も頭に入った。授業は今日から始まっているのだが、月曜日は休みにしたので初めての授業は明日である。とりあえず初週は五コマ出席し、後におそらく一つは削るだろうという計画だ。
取る予定の授業は「19世紀の秩序と暴力」「景観史」「ウクライナ語」「16世紀から19世紀のロシアとアジア」「ロシア革命」である。シラバス的なものを見るとどれも概説のようだが、それでも日本で行われている特殊講義に比べればかなり詳しいテーマを扱っている。
それに加えて、大学と提携している語学学校が「学問のドイツ語」みたいな授業を週二回、夜に開講しているのでそれも受けるつもりだ。

明日からは本職の方の勉強を本格的に再開する予定なので、そのことについてだけでもブログを続けていきたいが・・・。

2014/09/01

2014/9/1


・ドゥッセルドルフとケルン

ケルン人のお気に入りのネタが、ドゥッセルドルフとケルンの争いだというのは、こちらに来てから知ったことだ。人口はケルンの方が多いが、州都はドゥッセルドルフである。観光資源はケルンに多いが、ドゥッセルドルフは日本を始め様々な企業の誘致に成功しており、豊かなのはドゥッセルドルフである。外国人の目から見ればケルンには大聖堂があるしとか思うが、ドゥッセルドルフに行ってみるととても近代的な都市で、ケルンにないものがあり、ケルン人の羨望も理解できると感じた。
この争いについて、ドゥッセルドルフの雑誌の記事を見つけたので訳してみた(当然、読む量を増やすためである)。



太古よりの争い:なぜケルン人はドゥッセルドルフが嫌いなのか?

ドゥッセルドルフ。ケルンとドゥッセルドルフのライバル関係は多くの面を持っている。DEGメトロスターズ対ハイエ、アルト対ケルシュ、Helau対Alaaf。多くは本気で言われているわけではない。しかし―中世より今日まで、両者の当時より非常に異なっていた都市の間の争いは再三存在した。ラインは両者を結びつけると同時に、別ってもいた。それぞれ異なる岸に位置しているからだ。

今日、両都市はメッセ、空港、新たな企業の誘致、また文化首都としても競合している。ドゥッセルドルフがそこで、多くの場合より豊かな成功を手にしている。

それはかつては違った。互いにたったの40kmしか隔てていない両大都市の間のライバル関係の歴史的な根について、Andrea Bartschが、及び城の塔にある船運博物館を巡る30人との講演ツアーの際に伝えた。出発点は、Bartschによれば、11世紀と12世紀に当時既に際立った交易都市であったケルン、大司教座は、未だ眠れるドゥッセルの村とは違い、関税の権利、積み替えと進水の権利を持っていたことにある。

これは次のことを意味した:バター、ニシンあるいはオランダからの織物のような、ラインを越えて運ばれる商品は、先での販売に成功するまえにまずケルンで中継保管されなければならない。そのことは、ケルンの港の何百もの船を示した古い銅版画が証拠立てている。

交易、それと結びついた労働市場は、ドムシュタットの市民たちを持てる者にした。反対に、ドゥッセルドルフ人は妬みながら、彼らがケルンの市場で相応の値上がり価格で買えるようになる前に、商品がまずは一度ラインの上で彼らの前を通り過ぎていくのを見つめなければならなかった。「あなたがたがそう望んだら、ケルン人は戦いを始めました。」Bartschは言う。後に、確かに両隣接都市の間に直行の航路ができた。しかし、さまざまな嫌がらせで、ケルン人は隣人を小さいままにとどめた。それについては、数年に及ぶ帝国最高法廷での戦いへと至った。それは、結局ケルン人の方をとった。

局面が変わったのは、ケルン人が交易でわずかしか金が稼げなかったために19世紀初めの工業化の開始を逸したときであった。今や、怒れるのはあなたがただった。ドゥッセルドルフ、Elberfeld、ゾーリンゲンの間の地域には、そこでのちに工業化が発達する前の昔から、煙突が煙を吹いていたからである。さらに、「上り調子の」ドゥッセルドルフへの羨望は、その都市が19世紀にプロテスタントのプロイセンによってライン地方の首都とされ、ずっと大きく、際立っているケルンはされなかったときに加わった。この恥辱は、イングランド人が第二次世界大戦の後、ドゥッセルドルフをノルドライン・ヴェストファーレン州の州都と宣言したとき、もう一度繰り返された。

Susanne Fimpeler,塔・船運博物館の代表は、このテーマ「ケルンとドゥッセルドルフのライバル関係の歴史的起源」への反響に驚いている。いま、彼女は同僚のAndrea Bartschと共同で、自らの展示をさらに準備するつもりだ。

http://www.rp-online.de/nrw/staedte/duesseldorf/warum-die-koelner-duesseldorf-nicht-moegen-aid-1.1128172