2014/10/19

2014/10/19


・アンデクス修道院
Das Kloster Andechs ist heute ein Priorat der Benediktiner in Andechs in Bayern im Bistum Augsburg. Es ist seit 1850 Wirtschaftsgut der Abtei St. Bonifaz in München.
Das Kloster entstand am Ort der Burg Andechs, dem Stammsitz der Grafen von Andechs, die in direkter Linie 1248 ausstarben. 1455 wurde hier ein Benediktinerkloster durch Herzog Albrecht III. von Bayern-München gegründet, um einen 1388 hier aufgefundenen bedeutenden Reliquienschatz aufzunehmen. Die 1423 bis 1427 erbaute und ab 1751 von Johann Baptist Zimmermann im Rokokostil umgestaltete Klosterkirche Andechs war zunächst als Wallfahrtskirche errichtet worden. Der „Heilige Berg“ Andechs ist nach Altötting der zweitgrößte Wallfahrtsort Bayerns.
Die Klosterschänke ist dank ihrer Küche und ihres Bieres (Andechser) aus der Klosterbrauerei ein Magnet für Touristen und Einheimische.
アンデクス修道院は今日バイエルン州アンデクス、アウグスブルク司教区に属すベネディクト会の修道分院である。1850年以来ミュンヘンの聖ボニファス大修道院の所有物(Wirtschaftsgutって専門用語なのかな・・・)である。
その修道院は1248年に直系の途絶えたアンデクス伯爵の館であったアンデクス城の地に建てられた。1388年にここで発見された聖遺物を収容するため、1455年、ここにベネディクト修道院がバイエルン-ミュンヘンのアルブレヒト三世公によって設立された。1423年から1427年の間に建設され、1751年にバプティストのZimmermannによってロココ様式で改修されたアンデクス修道院付属教会は、まず巡礼教会として築かれていた。「聖山」アンデクスはAltöttingに次ぎ、バイエルンで二番目に大きい巡礼地である。
修道院付属の居酒屋は、その料理と修道院醸造所で作られたビール(Andechser)により、旅行者と地元民にとっての魅力となっている。
毎週末一日は外出に使おうということで、今日はミュンヘン南部のHeerschingという町にまず向かった。Ammerseeという湖に面した綺麗な町だったが、そこで有名な修道院まで歩いて5kmの散歩コースがあると書かれた看板を見つけ、気持ちの良い天気だったので歩いてみることにした。

Andechsは自治体も違う隣町であり、森の中をハイキング気分で歩いて1時間弱の道程である。修道院が唯一といってよい見どころで、かなり多くの人が集まっていた。せっかくなのでビールも飲みたかったのだが、修道院周辺の店はどこも満席状態で、仕方なく少し離れた駐車場の隅にあるミニゴルフ場の隅にある売店で瓶のAndechserを買った。

日曜日であり交通の便は良くないが、ちょうどよいタイミングでTutzingというSバーン駅に向かうバスが来たのでそれに乗車。TutzingはStarnbergerseeというAmmerseeより有名であろう湖に面した町である。そこも少し散策し、暑かったのでアイスを食べ、ストライキにより本数の減ったDBのローカル線でミュンヘンに戻った。

Ammersee
Kloster Andechs

2014/10/18

2014/10/18


・読んでいるもの

Kerstin S. Jobst, Geschichte der Ukraine. Stuttgart, 2010

レクラム文庫のウクライナの通史。だんだんかなりの好著だと分かってきたので一段落ずつメモをとりながらじっくり読んでいる。

①ガリツィアのRussophilenはウクライナのナショナル・ヒストリーからは裏切り者としての烙印を押されているが、その実ウクライナの民族運動の土台をつくったのは彼らだった。19世紀の前半、彼らはルテニア人に「ロシア的な起源」を広めることで、とくに宗教におけるポーランド人との違いを教えた。確かに、ガリツィアのルテニア人農民が理解できる参照軸は日常接する宗教しかないだろうな。そしてルソフィル→アンチ・ローマカトリック→ウクライノフィルと展開してゆく。

②1895/96年のパンフレットで初めてウクライナの独立を唱えた(らしい)バシンスキーという人物について。彼は社会主義者でありマルクス主義の解釈のもとウクライナの独立を唱えた、当然の帰結としてウクライナ国家も世界国家に溶解してゆく運命だった。また、彼はガリツィア・ルテニア人の起源をキエフ・ルーシではなく1848年革命時のガリツィア総督シュタディオン伯が強欲なポーランド人に対抗させるために産み出したものだとした(この皮肉は当時広く流布していたらしい)。彼の教義は影響力をもたなかったが、のちのナショナル・ヒストリーでは独立を最初に唱えた人物という部分だけが取り出され、民族主義の輝かしい先駆者とされた。


・読んだもの

Potul’nyts’kyi, Volodymyr. “Galician Identity in Ukrainian Historical and Political Thought,” in Christopher Hann and Paul Robert Magocsi (ed.), Galicia : A Multicultured Land. Toronto/Baffalo/London, 2005

ちょっと図式的にすぎる気もしたが。とりあえずウクライナ主義におけるガリツィアの位置づけが東ウクライナ出身かガリツィア内部からの視線か、あるいはどんな政治的立場化かによっていかに異なっていたかを示すもの。

2014/10/17

2014/10/17


・ビザ取得

今日はミュンヘン市の役所Kreisverwaltungsreferatにある外国人局Ausländerbehördeでビザの申請を行った。学生ビザ専用の待合室があるのだが、10月だとそのせいでかえってそのエリアだけ人が集中することになっている。開館後30分くらいで行ったのだが2時間半待たされた。

申請から受理までは20日くらいかかるという話だったのに、手数料を払った窓口ですぐに滞在許可のプリントされたパスポートが返却されたのには驚いた。ドイツ大使館のホームページにはそれぞれの書類にコピーが2部必要だと書かれているが原本だけで十分であり、写真も一枚だけでよかった。他の市では勝手が違うから念のため多めに書いているのかもしれないが、とりあえず僕は若干のコピー代を無駄にした。


・最近読んだもの

Magocsi, Paul Robert. “Galicia : A European Land,” in Christopher Hann and Paul Robert Magocsi (ed.), Galicia : A Multicultured Land. Toronto/Baffalo/London, 2005

Hrytsak, Yaloslav. “Historical Memory and Regional identity among Galicians Ukrainians,” in Christopher Hann and Paul Robert Magocsi (ed.), Galicia : A Multicultured Land. Toronto/Baffalo/London, 2005

Volker Berghahn, Der Erste Weltkrieg. Muenchen, 2003

これをやらないとブログ書いてる意味がなかった。光吉淑江がHrytsakについて何を書いていたか読み返さねば。

2014/10/15

2014/10/15


・ドイツ語書籍通読

今日、最近読み進めていたVolker Berghahn, Der Erste Weltkrieg. Muenchen, 2003を読了。ドイツ語の書籍を通読したのは初めてだが、LMUの図書館で借りた本なので、一週間かそこらで読めたことになる。まあ100頁ちょいのポケットブックだが。基本的には年代を追いつつも、「上から」の動きと同じだけの重点が「下から」の動きにも置かれており、女性や労働者などの被支配集団にも目配りが効いている。ただ紙幅の限界かドイツ中心だからなのか分からないが、民族問題への言及が少ないようには感じた。あとドイツ国内の諸侯の動きとかも知りたかった。

あと、今日はしばらく読んでいた日本語書籍の『狂王ルートヴィヒ』も読み終えた。ルートヴィヒ2世の評伝で、まあミュンヘンで学ぶ者としての通過儀礼。

2014/10/14

2014/10/14


・語学学校

今日から今学期の間大学の授業と並行して通う語学学校の授業が始まった。週に二時間×2が二か月ということでそこまでの負担にはならないし、日常会話ではなく学問で用いるドイツ語が学べるということで受講することにした。

今回は会話コースではないので人数も30人弱と多め、LMUと提携している学校ということもあってかメンバーもヨーロッパ人がほとんどで、メキシコ人の機械技師が多数派だったケルンの語学学校と比べるとかなりの違いがあった。日本人も僕の他にあと二人いた。
11月からは受講生のプレゼンテーションとディスカッションが主になるようで、来学期からゼミにも出たいと思っている僕にはありがたいプログラム。まあがんばる。

2014/10/13

2014/10/13


・ENDLICH DEUTSCH!

ここ数日WDRというケルンのテレビ局が制作しているENDLICH DEUTSCH!というドキュメンタリー仕立てのドラマを見ていた。ケルンでドイツ語を学ぶ様々な国から来た人々を主役とした物語で、ネットに公開されているうちでは最終話となる第四話で彼らが試験に合格しドイツ市民権を手にすることとなり、タイトルのDEUTSCHはドイツ語ではなくドイツ人を指しているのだと分かった(ENDLICHは「ついに」くらいの意味)。
出演者の話すドイツ語がまあまあ聞き取りやすいのと時折映るケルンの風景へのノスタルジーとで見ていたのだが、出身国に応じて振り当てられた国民性、あるいは個性もめちゃくちゃでありながら愛すべきという感じで描かれており(ギリシア人は家にヤギを飼い、ロシア人は大人しいがウォッカを飲みまくり挙句の果てにアルコール中毒で死に、セルビア人は裸体主義者で戦争の話題に触れられると激昂、日本人は一言も話さないが優秀)、こうやって移民受入れ国家の土壌は培われていくんだろうとか思っていた。一人登場する人種主義者の男が出演者とは正反対に憎むべき人間として描かれているのも抜かりない。

http://www.ardmediathek.de/tv/ENDLICH-DEUTSCH/Sendung?documentId=23651140&bcastId=23651140

2014/10/12

2014/10/12


・ダッハウ強制収容所
Das Konzentrationslager Dachau, in der Folge KZ Dachau genannt, bestand vom 22. März 1933 bis zur Befreiung durch Truppen der US Army am 29. April 1945. Das NS-Regime errichtete es wenige Wochen nach seiner Machtübernahme; das KZ Dachau war während der Diktatur des Nationalsozialismus eines der bekanntesten Konzentrationslager (KZ).
ダッハウ強制収容所―のちにKZダッハウと名付けられる―は1933年3月22日からアメリカ軍による1945年4月29日の解放まで存在していた。ナチ体制が権力掌握後数週間でそれを設置した:KZダッハウはナチズム独裁のあいだ、最も知られた強制収容所(KZ)であった。
今日は現在おそらくアウシュヴィッツに次いで名が知られているであろうナチの収容所、ダッハウ強制収容所を訪れた。ダッハウは旧市街や宮殿もあるバイエルンの普通の町であるが、やはりその名を聞いて頭に浮かぶのはまずこの収容所であろう。
ダッハウはミュンヘンの郊外、Sバーンで15分ほどの距離にあり、収容所は駅からバスで10分ほどの場所に位置している。日曜ということもあってか、駅から収容所までのバスは「まるで強制収容所」という不謹慎な形容が思い浮かんでしまうのほどの混みようであった。

入口の門にはアウシュヴィッツと同じくArbeit macht freiの一文。門をくぐれば収容所特有の薄ら寒くなる広大さに出迎えられる。
多くのバラックが残されていたアウシュヴィッツ・ビルケナウとは異なり、ダッハウのバラックはほとんどが解体され、一部が博物館や展示用に残されている。博物館の展示はかなり充実しており、12年間での収容所の役割の変遷が詳しく綴られている。 とくに囚人の内訳の変換の展示が興味深かった。悪名高い人体実験の記述は読んでいて気持ち悪くなる。
ここはアウシュヴィッツのような絶滅収容所ではなかったらしいが、収容所の隅にはシャワー室を偽装したガス室が設置されていた。そのそばには囚人の多くが信仰していたのであろうユダヤ教、カトリック、プロテスタント、正教の四つの礼拝堂が彼らの安らかな眠りのため、並んでいた。

アウシュビッツほどの直截的な衝撃はなかったが、これがナチ体制の多くの収容所のモデルであったと思うと、やはり彼らの行いは全く非人間的であったと感じざるを得ない。

「労働は自由をもたらす」
収容所
偽装シャワー室