2021/09/01

ローマで入院

  ウィーンに来てからちょうど半年、良い区切りということで8月末はイタリア旅行にあてるつもりでいた。ローマから途中シエナなどに寄りつつフィレンツェに至る10日強の旅程で、同行する妻も私も全く初めて訪れる地域である。8月22日、小さな内陸国から脱出した開放感とともにローマに降り立ち、23日は古代ローマの遺跡や美術館、そしてイタリアの美食を堪能した。しかし、23日の夜中に感じた腹痛が24日のヴァチカン観光中も収まらず、結局その日は観光を諦めて昼間に宿に帰ってきた。そして、そこから長い胃腸炎との闘いが始まった。

 24日に帰宅して以後、急激に体調は悪化し、一日半ほどほとんど意識が朦朧とした状態が続いた。体温計は持っていなかったが、明らかな高熱で布団にくるまり寝込みながら、定期的に腹痛で目覚めてトイレに立つということが繰り返された。昼夜の感覚もなく、妻が持ってきてくれた薬やクラッカー、ジュースなどを時折口にし、朧げな頭であと何日と何時間でこの宿を出ないといけないのだろうなどと考えていた。何度か薬局やスーパーに買い出しに出かけてくれた妻だが、彼女もやや軽度ではあったものの同様の症状を覚え始めており、25日には二人そろって寝込んで過ごすという状況に陥ってしまった。

 25日夜、泊まっていたアパートメントのオーナーに妻が状況を説明し、最終的に公共の(=無料の)救急車を呼んでもらうことにする。日本の感覚だとものすごく遅々とした歩みであったが、救急隊員がやってきて未だ朦朧とする私と一応自立できる妻を救急車まで連れ、近くの公共病院へと乗せていった。救急車に乗るのも人生初であれば、入院もまた人生初である。救急車の車内は異常に寒く、早速寝間着とサンダル姿で出てきたことを後悔した。病院に到着後もその寒い車内で1時間弱病室が開くまで待たされ、深夜0時を回る直前に二人部屋に通された。

 ベッドに寝転がると早速点滴を投与されるとともに検査用の血液などが採取された。その時点で私は妻の症状が同じものだとは知らずただの付き添いだと思っていたため、妻から先に点滴の投与が始まったときは対象を間違えているのではないかと驚いた。しかし、実際には二人で同じ食べ物にあたり、二人とも入院するという始末であったのだ。深夜に医者が会いに来るという話だったが結局来ず、定期的な看護師による経過観察の合間に眠りをとった。発症後初めて体温計で体温を測ってもらったところ39.5℃もあり、この日も寒い病室で汗だくになった。

 26日朝、ビスケットと紅茶のわびしくまた胃に優しくない朝食が出され、その後昨晩のコロナPCR検査が陰性であったため普通病棟に移されると告げられる。どうやら、一晩過ごした個室はコロナ疑いのある患者の一時滞在病床だったということらしい。妻と私が順にストレッチャーに乗せられ、廊下を通って他の患者の間を抜け、最終的に玄関ホールのような広い空間の一角に開いたコの字型の隙間のような小部屋に二人そろって通された。一応ホールと小部屋の間には扉があり仕切りを作ることは可能だが、光や音は完全に漏れるため、密室には程遠い。明らかに環境は悪化したが、ホールのど真ん中に並べられている患者も多くいたため、自分たちの方がまだましだと思って乗り切るしかない。

 この普通病棟では、そもそもの患者数が多く、またひっきりなしに緊急度の高い患者が外部から運ばれてくるため、看護師や職員の対応が非常に遅い。呼びかけてもまず「後で」と制されるし、水を頼んだとしてそれが本当に届けられることはまれである。水程度のことであれば最悪水道水を自分で汲んで飲めば良いのだが、始まるはずの治療が一向に始まらない時は大変であった。英語を話せない看護師も多いため妻がイタリア語に翻訳した文言を手当たり次第に見せて回り、抗生物質の投与を要求した。最終的には26日の夕方と夜に二度、点滴管を通して薬が投与された。

 我々の間には26日夜に退院できるのではないかという淡い希望があったがそれは叶わず、この小部屋で一晩過ごすことを強いられた。もっとも、病状からすれば、未だに38℃があり腹痛も引かないことから残るのが妥当な判断であった。昼食はなぜか出なかったが、夕食には肉、ジャガイモスープ、パスタという食べられるわけがない食事が出されたので、かわりにバナナだけもらって空腹をしのいだ。細かいことだが、抗生物質を投与するときにそれまで栄養などを送っていたと思われる点滴が除かれたため、何か口から食べなければ栄養が一切とれないという恐怖心があった。

 夜は断続的に眠りに落ちた。覚醒している間はこのような惨めな扱いをする病院への恨みを募らせ、そのうち再び眠りに落ちて、その恨みは病院が爆破するという単純な夢に結実した。しかし、その爆破と同時に目が覚め、小部屋と玄関ホールを仕切る暗い壁が現れた。熱にうなされた頭では、爆破したはずの病院のまさにそのなかに自分がまだ閉じ込められているという絶望に気がつくには少し時間がかかった。

 27日の朝はそれまでの混乱が嘘のように病院側とのやり取りが迅速に進んだ。朝最初に検温や諸々の測定、そして抗生物質の投与にやってきた看護師に今日こそ退院したいと告げると、分かったが、まず医者と話さなくてはならないという返答。医者はいつ来れるか分からないという話だったが、意外なほど早く小部屋まで来て、書類を繰りながら我々の病状、今後採るべき食事、薬局で買うべき薬などについて説明した。そして、書類に署名したところで手続きは完了、いつでも出られるということである。拍子抜けしつつ、最も重要な治療費について尋ねると、イタリアでは完全に無料、外国人も無保険者も関係ないという。最後に好印象を残して二泊三日のローマでの入院は終わった。

 治療費が完全に無料だと分かると、不思議なことだがいろいろなことに納得しそうになる。例えば、看護師は基本的には皆親切であったが、仕事が雑であり、使用済みの医薬品を平気で私のベッドの上に放置していくことがあった。一度、抗生物質の入っていた空き瓶が置かれていたのに気がつかず私が寝返りを打って瓶が落下し、ガラスが床に散乱したことがあった。また、点滴の抜き差しも雑であるためしばしば自分の血が服やシーツに飛散した。日本で入院したことがないので断言はできないが、日本ではありえないことだろう。

 27日はもう一泊もとのアパートメントに泊まり、翌28日に空港のホテルに移動、29日の便でウィーンに帰国した。27日に指示された薬を買い、服用を続けている。熱は28日頃には完全に引き、腹痛自体も今はほぼないが、まだお粥などの軽い食事しか食べる気にならないという状態である。肝心の胃腸炎の原因となった菌あるいはウイルスについては医者曰く数日後に判明するということだったので、そろそろ問い合わせれば教えてくれるかもしれない。旅行二日目夜の発症なので可能性は限られるが、かといって変なものを食べたわけではないので特定はできない。いずれにせよ、これほど強力な胃腸炎は生まれて初めてである。

 今回は旅行保険に入っていたので、無料だった入院費は措くとしても、ローマ以外のホテルのキャンセル料や早期帰国のための航空券代などが保険会社から支払われる見込みである。そうなれば、今回の顛末による金銭的な損失はなかったことになるので、近いうちにローマ以降の旅程をまったく今回の予定と同じルートで繰り返したいところである。

 

2021/05/17

ウィーン生活8:オーストリアのコロナ政策

  ウィーンに到着した2月から現在まで、何度か公式のコロナ政策に変化があったので、後世のために一応まとめておきたい。

 まず、2月下旬の到着時は、政府がいわゆるハード・ロックダウンを解除し、飲食店やホテルの営業を停止する一方、商店や図書館・博物館は開いているという状況だった。そのため、入国時の隔離のあとは、直接足を運んで必要なものを買いそろえることができた。

 しかし、3月に感染者、特に重症患者が急増し、状況が深刻な東部三州(ウィーン市、ニーダーエスターライヒ、ブルゲンラント)では4月初旬のイースター休暇に合わせて再度ハード・ロックダウンが導入されることになった。当初、この措置は一週間程度と予告されていたが、開始時点で4月11日の日曜日までの継続に変更された。この期間はスーパーを除く商店や図書館などが完全に閉まり、「健康維持」目的以外での外出が24時間禁止された。実際はそこまで厳重に外出目的のチェックがある訳ではなく、公園での散歩などが咎められることはなかった。ただ、暖かくなった3月の下旬は野外でピクニックをして集まる若者の姿が目立ち、特に人が集まるシュテファン広場、ドナウ運河などにマスク着用義務が定められ、監視のために警察が配置された。

マリア=テレジア広場もマスク着用義務対象

 この東部三州のハード・ロックダウンはまず18日に延長され、19日にいち早く解除したブルゲンラント以外の二州では結局5月2日まで継続された。こちらでは、最初からロックダウンの期限は暫定的であり、継続の是非はその都度判断すると明言されている。そのため、当初のイースター・ロックダウンが延びたこと自体は予想通りでありそれほど反発はなかったように思うが、初めてロックダウンを経験した身としては、いつ終わりが来るのかはっきりしないのは辛かった。

 5月3日に再び商店が開く前から、政府は5月19日にレストラン、ホテル、スポーツ施設、劇場などを再開すると述べ、その後具体的な規則が練られていくとともに、EU内の一部の国からの入国時隔離義務を撤廃することも明らかになった。既に商店などの再開から2週間近くが経ったが、感染者は減り続けており、予定通り19日に緩和措置が取られることは確実である。レストラン、ホテル等の利用には、陰性/接種/回復証明書の提示が義務付けられる。ワクチン接種の順番が来ていない現時点の我々にとって、このルールはカフェやレストランに入るためだけに毎度検査を受けなくてはならないことを意味する。ウィーン市にはドラッグストアで受け取った検査キットを用いて自宅で検体を採取する制度があるが、それでも面倒であることに変わりはない。

 19日以後どうなるかは何の専門知識もない自分には知るよしもないが、フォアアールベルク州の経過はやや希望を持たせてくれる。フォアアールベルクでは感染者数の少なさから3月に例外的にレストランなどの営業が解禁し、その後の緩和のモデルとして動向が注目されていた。緩和直後の4月、フォアアールベルクでは感染者が急増して今後が危ぶまれたが、ワクチンの効果か、あるいは感染者急増自体が緩和に伴う検査数増加の結果だったのか、ともかく5月に入って感染者は再び減少フェーズに入った。ただ、もちろん人口密度の高いウィーンでは全く異なる経過を辿る可能性も十分あるだろう。

 全体として、今のオーストリアには楽観的な雰囲気が漂っている。市民は19日の緩和措置とその後の夏季休暇を心待ちにしており、おそらくその雰囲気が現在進行中の政権党のスキャンダルへの関心を下げている。日本では各種変異株の動向が注目されているようだが、こちらでは冬にはすでに英変異株への入れ替わりが完了してそれを前提とした対策が講じられ、まだインド変異株は交流の少なさからかそれほど入ってきていないようで、大したニュースにはなっていない。ワクチン接種スピードは西欧ではおそらく平均的で、保健省によれば、今のところ接種可能人口の40%弱が一度目の接種を完了している。

2021/05/14

ウィーン生活7:大学生活

  こちらの暦では3月1日から夏学期が始まり、自分が正式に博士課程の学生になったのもその日のことである。2か月半が経ち勝手も分かってきたので、個人が確実に特定されない範囲で大学での研究について書いていく。

・博士課程

 日本と同じく、博士号取得のための最小年数は三年であるため、卒業できるのは最短で2024年の2月である。ただ、これも日本と同じく、(少なくとも自分の分野では)三年で博論を書き終えるのは難しいというのが共通認識であるらしい。自分の場合は日本で数年既に博士課程を経験しているわけだが、その点は顧慮されない。奨学金が三年分しか決まっていないなどの事情があり、心の中では三年で書き終えることを諦めてはいないが、現時点では指導教員を納得させる根拠もない。

 放任主義的な日本と比べると、ここでは学生が博論を提出するまでの段階を前もって具体的に組織することが奨励されている印象を受ける。初年度のどこかで博論の執筆計画について聴衆の前で発表するFOePなるイベントがあり、それを経て初めて正式に指導教員と契約が結ばれる。単位取得のため授業やゼミに出席するのはFOePを成功裡に終えたあとのようだ。大学には学部横断的な博士候補生支援事務局があり、相談窓口を設けるとともに様々なワークショップを主催している。

 指導教員とは1―2か月に一度面談をして研究状況について報告することになっている。先日二度目の面談があり、4月はずっとそのための準備にあて、現時点で考えている章構成とその内容、参考文献リストについての資料を作った。ブログの更新が滞ったのはだいたいこの作業のせいである。

・研究チーム

 現在、自分は正規の博士候補生であると同時に、指導教員がリーダーを務める研究チームの一員にもなっている。研究チームは拠点をウィーン大においてEU版の科研費のようなもので運営されている。自分は無給であるが、チームの成員として、大学の建物内にパソコンなどが備えられた作業場所を与えられている(もっとも、つい先日までロックダウンであったのでほとんど使っていないのだが)。今学期は一切授業を取っていないので、数週間に一度行われるこのチームのミーティングが生活の基準になっている。そこではチームメンバーの誰かが書いた原稿について討論し、その後個人の研究状況について互いに報告することが通例である。

 今まで自分が出席した三度のミーティングはすべてzoomであり、メンバーのほとんどとはまだ直接会ったことがない。人によって考えがあるとは思うが、アカデミアでは皆対等であり批判に遠慮はいらないというのが原則だとしても、そのような議論の場は人間同士としての信頼関係を前提として成り立つのではとも思う。また、そもそも国際的な研究チームに加わるのは初めてであり、欧州アカデミアのコミュニケーション規範についても何も知らない。そういうわけで、毎回の議論はやや居心地が悪く、今は直接顔を合わせて他のメンバーに人間として認知される機会が来るのを待っている。

・図書館

 こちらに来てまず驚いたのは、図書館が契約しているオンラインデータベースの充実ぶりである。日本でも主要な雑誌にはほとんどアクセスできたが、こちらでは雑誌だけでなく、Eブックもかなりの数が簡単に手に入る。他方、紙媒体の図書については、自分の研究分野についてもそれなりに充実した専門図書館があるものの、ここですべてが手に入るという感じではない。特に、ロシア語文献はおそらく東京のほうが多かった。また、昔の新聞などの一次史料もほとんど所蔵していないようである。

 ロックダウンのせいで、作業場所としての図書館についてはまだ余り書くことがない。椅子が固く高さも調整できない中央図書館を除いてまた一度も用いていない。ただ、所属する研究所の専門図書館は一度司書に案内してもらった。おそらく、最も作業に使いやすいのは大学図書館ではなく、オーストリア国立図書館であろう。

 最後に、大学の東アジア学科の専門図書館は、ウィーンで日本語書籍が手に入る数少ない場所の一つである。図書館の性格上、自分が好んで読む翻訳文学が手に入らないのが惜しいが、日本文学であれば読む本に困らない程度の量は所蔵している。

2021/03/21

ウィーン生活6:入国から一か月

  2月21日にウィーン空港に到着してから1か月が経った。到着時からオーストリアの防疫措置に大きな変化はない。商店や博物館はマスク+人数制限措置の上で開いているが、劇場や映画館は閉まったままで、レストランやカフェの店内営業は、テラス席を含め禁じられている。また、ショッピングモール等の公共施設も屋内での飲食を禁じており、外出時には寒い公園のベンチでテイクアウトした昼食をとるしか手段がない。この一か月、ほとんど出かける気にならなかったのはこの昼食の問題が大きい。また、後半の二週間は基本的に寒く、一日のどこかで雪が降る変な天気が続いた。

 もう六年前のことだが、交換留学生として一年間ミュンヘンで暮らしたことがあるので、生活への適応についてあまり不安は持っていなかった。しかし、三年間の長期生活である、妻との二人暮らしである、あれから歳をとった、などの理由で、思ったより苦労した一か月となった。

・買い物

 家具が一通りそろった学生寮に住み、それほど研究に打ち込む必要もなかった前回の留学とは違い、今回は自分で机、椅子、プリンター、モニターなどを買いそろえて研究環境を整える必要があった。また、最低限の食器はあったものの、フライパンやキッチン雑貨なども買い足した。生活に必要な買い物を終えた心境としては、やはりIKEAに頼らざるを得ず、Amazon.deも何はともあれ便利ということである。隔離開けすぐにIKEAの実店舗に行ったときにはそれほど安く思えず最低限の買い物に抑えたが、そのあといろいろな店を回った際、あのとき買っておけばよかったと思うことが多かった。それでもネットでほとんどの商品が買える上に、IKEAの通販は2―3日後に商品が届くのでオーストリア基準ではきわめて優秀である。Amazonも、別に安い商品が集まっているわけでもなく、送料無料にするには€29以上の買い物が必要という縛りがあり、日本のように翌日に届くことはほぼないが、それでも街でそれぞれの専門店を回って買いそろえるよりは楽である。IKEAとの比較で無印良品とニトリが恋しいという話はよく出るが、個人的にはあらゆるメーカーのあらゆるジャンルのものが買える店、東急ハンズやドンキホーテのありがたみを感じた(もっとも、日本ではほとんど使わないのだが)。

 一応、現地の家具屋であるXXXLutz(とグループのMöbelix)、Leinerなども一通り覗き、椅子はLeinerのネットショップで買った。プリンターはオフィス用品店のPAGRO DISKONTで買った。100均的な店としてはTEDIがあり、風呂用のサンダルなどを買ったが、ドイツの会社であるためドイツより販売価格が50セントほど高いのに腹が立った。

・食事

 外で食事ができないので、ほとんど自炊をしている。食材は専門店で買うべきだという価値観を持っているが、店員とのコミュニケーションを避けたいので、結局スーパーマーケットですべてを買うことになる。

 最寄りのスーパーはMERKURである。大型店舗で知られるチェーンスーパーだが、品揃えに偏りがある印象がある。加工肉やワインがやたらと充実しているが、野菜の種類はそれほど多くなく(しかも新鮮に見えない)、ライ麦の入っていないパン(Brot)を一つも置いていない。また、米は1kgサイズでしか売っていない。しかし、先日MERKURが同グループのBILLAブランドに統合され、BILLA Plusと名前を変えると知り、急に愛着がわいてきた。

 オーストリアはスーパーマーケットの多様性が低い。そもそも格安スーパーのPenny, Lidl, Hofer(ドイツ名Aldi)はドイツ発であり、ロゴに元々なじみがある。残るはBILLA、SPAR、MERKURであるが、そのMERKURはBILLAの傘下であり(しかももうすぐ消える)、そのBILLAもケルンのスーパーREWEの傘下である。結局、認識が間違っていなければ、フランチャイズのSPARが唯一のオーストリア発スーパーマーケットチェーンということになる。

 ただし、ウィーンは多文化都市であるので、中心部を出ると世界各地の食材を扱うスーパーマーケットが点在している。とりわけ便利なのはトルコ系スーパーで、家の近くにもあるETSANは、上述したチェーン店に匹敵する数をウィーン市内に展開しているように見える。スパイス、米、羊肉を買うのはここである。ナシュマルクト周辺には中国系スーパーが数店舗あり、その近くに日本食品店もある。トラムからはロシア食品店、ルーマニア食品店も見える。

 概して食材は安くはなく、六年経ったこともあるが、ドイツよりも高いように感じる。特に、肉、チーズ、パンが思っていたより高い。じゃがいも、パスタはさすがに安い。日本と比較してバスマティ米とアイスランド風ヨーグルトが安く手に入るのが地味にうれしい。


 現在の防疫措置の期限は3月26日だが、明日の3月22日にその後の措置が発表される。飲食店のテラス席再開が許可されるのか、その場合の条件が何かが最大の注目点である。ホテルの観光目的の営業許可も待ち遠しいが、それはまだ期待できないだろう。

2021/03/16

ウィーン生活5:Volksoper~Türkenschanzpark

 先日の土曜日(3月13日)、Volksoperから西に向かってちょっとした散歩をした。何度か大学や買い物に出かけたついでに市の中心部を歩くことはあったが、何の目的もなく外出するのはおそらくウィーンに来て初めてである。

 まず、環状道路ギュルテルGürtel沿いに走るU6のヴェーリンガー通りWähringer Straße駅で下車。この駅は1898年、都市鉄道の他の駅と同様、オットー・ワーグナーの設計で建設された。すぐ目の前にVolksoperがある。当然コロナにより公演は中断しており周囲は閑散としている。「大衆劇場」の名の通り、リンクの国立歌劇場とはやや異なる演目を上演しており、オペレッタやミュージカル等で有名であるようだ。建築はFranz Krauß, Alexander Graf(1898年)。フランツ=ヨーゼフ帝即位50周年に建てられた。

Währinger Straße駅


Volksoper

 ヴェーリンガー通りを西に進むと、Kutschkermarktという市場と交わる。この市場は、ウィーンではもはや数少ない路上市場で、クチカー通りの南北数百メートルに野菜、チーズ、肉などを売る露店が連なっている。いわゆるヨーロッパの市場という感じの品ぞろえで、基本的にどの店もBioを謳っている。市場の南側のファーマーズマーケットは金曜日と土曜日のみ開催。

Kutschkermarkt

 市場でケバブを買い、さらに西のヴェーリンガー・シューベルト公園Währinger Schubertparkのベンチで食べる。この公園はもともと墓地であり、かつてはベートーベンとシューベルトもここに眠っていた(のちに中央墓地に移された)。公園になったのは1925年のことである。今ではなんの変哲もない静かな公園だが、ベートーベンとシューベルトがここにいたことを記念するモニュメントは残されている。

ベートーベン・シューベルト記念碑

 その後、静かな住宅街を抜け北に曲がり、土曜日で閉まっていたウィーン大学天文台の脇を通り、テュルケンシャンツ(トルコ陣)公園Türkenschanzparkに至る。この公園がある場所に、1683年の第二次ウィーン包囲の際、オスマン帝国軍が陣営を張っていた。1888年に公園が開かれた際にはフランツ=ヨーゼフ帝がやってきて演説を行った。この演説の内容は展望塔Paulinenwarteの壁に刻まれている。広大な公園の中で最も興味深かったのが、コサック記念碑である。これは2003年、オーストリアのウクライナ人コミュニティのイニシアチヴで建てられたもので、コサックが第二次ウィーン包囲の際、防衛軍に助力したことを記念している。バンドゥーラを抱え、チューブを垂らしたコサックの姿が珍しいのか、記念碑の前で足を止める人が多かった。

フランツ=ヨーゼフ帝の演説

コサック記念碑

 最後はS45のGersthof駅まで歩き、そこから帰路についた。



 

2021/03/08

ウィーン生活4:入国から二週間

  水曜日(3月3日)に新指導教員との面会を済ませ、入国後の一通りの懸案事項を処理し、やや気が抜けたところで風邪を引いてしまった。可能性がゼロとは言えないのだろうがおそらくコロナではなく、喉の痛み、頭痛、倦怠感、微熱などが順にやってきて3日ほど続いた。唯一持ってきていた葛根湯をとりあえず飲み、途中からドラッグストアで売っている飴とホットレモンを摂り、ようやく日曜の朝に快復した。治るまでかなり気分が参っていたが、妻にうつらなかったのがせめてもの救い。

飴とホットレモン

 今日で入国から二週間が経ったことになるが、五日間隔離していたとはいえ、この間一度もウィーン市を出ていないというのは自分の行動様式からすると異常事態である。ただ、レストランはテイクアウトのみ、商店は入店制限、ホテルは観光利用禁止という現状だと、とても出かけようという気分にはならない。日本では、これほど強く「終わってほしい」と感じることはなかった。

 以下、ここ最近済ませた用事をまとめておく。

・巨大ショッピングモールSCSで買い出し。IKEAを中心に食器など買いそろえる。レストランはもちろん、ショッピングモール内で飲食が一切できないので、寒空でテイクアウトしたバーガーキングを食べる。上で一度もウィーン市を出ていないと書いたが、厳密にはこのSCSは隣のVösendorfという自治体に属している(ので市内交通チケットに加えて2ユーロほど多めにかかる)。

SCS

Superdryも入居

・住民登録。自分の住む14区はなぜか自らの区役所を持っていないので、13区の庁舎で手続きをする。日本語記事で認証翻訳付きの戸籍が必要だという情報を仕入れ、一応用意したが、パスポートと家主の署名入りMeldezettelのみで登録が完了した。概してあっさりと完了。

13区庁舎

・Erste Bankの銀行口座開設。結局窓口のほうが確実という説も目にしたが、とりあえずオンラインでの口座開設を試したところ成功した。テレビ電話で本人確認手続きが完了し、その時点でオンラインバンキングの利用が可能になり、後日キャッシュカード・デビットカードが送られてきた。

・ウィーン市内交通の年間乗車券購入。学生割引は26歳までの年齢制限があり、残念ながら大人料金の365ユーロ。こちらも購入手続きはネットで済ませ、後日カードが家に送られてきた。カードが届くまでの間も、購入確認メールを見せれば切符を新たに買う必要はないということだ。ただ、ウィーンに来てからまだ一度も検札にあっていない。

・奨学金支給機関に出頭。

 そのほか、引き続きAmazon.de(残念ながらAmazon.atは存在しない)などで必要な家電などを購入している。唯一まだ目途が立っていないのが自宅での作業用の椅子。実際に家具屋を何件か回ったりもしているのだが決定打がなく、ネットで決めるのも怖く、備え付けの固いダイニング用の椅子で作業を続けている。

2021/02/28

ウィーン生活3:隔離三日目~五日目

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 既に隔離中の記憶は遠のきつつあるのだが、一応書き残しておく。この日は隔離初日にBILLAのオンラインショップで購入した品を受け取った。宅配を受け取るプロセスを試せたとともに、ともかく食べるものに困らない状態になったことで安堵した。買ったのはジャガイモ、たまねぎ、ハム、チーズ、水、コーンフレーク、パンなど、大したものではないのだが。

 もともと家にあったデロンギのエスプレッソマシンを洗って作動させ、普通のJulius Meinlの豆を使いある程度満足のいくブラックコーヒーが淹れられることが分かった。たまにテレビをつけるが、ナレーション以外のドイツ語はほとんど聞き取れず、先が思いやられる。

BILLAで買ったもの

コーヒー

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 次の日が検査日ということで、実質的な隔離最終日という感覚で過ごす。昼になり、ドラッグストアDMとIKEAから立て続けに商品が届く。IKEAでは11品注文したにもかかわらず1つの机しか届かず、しかしIKEAの注文履歴を見ると全商品配達済みになっており焦ったが、IKEAのカスタマーセンターに連絡すると残りの商品は別個でこれから発送されることが分かった。

 ようやく本格的に論文の修正に着手する。注文していたHoTのSIMカードが届いたので、早速アクティヴェーションする。夜は、BILLAで注文していた冷凍のピザとチェバプチチを食べ空港で買っていたビールを飲み、隔離最終日を祝う。

夕食
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 オーストリア保健省の定義によれば、入国日が隔離0日目で、この日が隔離5日目である。5日目にPCR検査あるいは抗原検査で陰性結果が出れば、その時点で隔離を終えることができる。例外的に検査のための外出は認められており、我々は家から一番近いシェーンブルン宮殿そばの検査場Teststrasseに徒歩で向かった。歩行者向けの検査場はOrangerieの建物内に設けられており、事前予約のQRコードと身分証を提示したのち、検体を抜かれ、シャンデリアのぶら下がった広間に並べられた椅子に座って検査結果を待つ。検査時に結果判明時間が知らされるので、それまで20―30分間待ち、その時間が来たら出口にいる職員のところで結果を印刷してもらう。我々は二人とも無事陰性で、自由の身となった。

ドライブスルー検査場

 その後、この日は街の中心に出ることはせず、公園や市場などに寄りつつ家に帰った。野菜や肉などが予想より高かったこともありMERKURなどの現地スーパーでは今後の食事を思って絶望感に苛まれたが、最寄りのトルコ系スーパーは米、スパイスなどの品ぞろえがかなり魅力的であり、ここに頼れば自炊生活も続けられると感じた。バルカン、トルコ系食材が揃う市場Meiselmarktもかなり役に立ちそう。
 夕方、新たに受け取り場所に指定していた近くの文具屋でIKEAの残りの商品を回収。早速机などを組み立ててすべて部屋に並べた。