2014/11/28
2014/11/28
・読んだもの
von Hagen, Mark. „“Kriege machen Nationen”: Nationsbildung in der Ukraine im Ersten Weltkrieg,“ in Andreas Kappeler (Hg.), Die Ukraine : Prozesse der Nationsbildung. Köln/Weimar/Wien, 2011
Fedyshyn, Oleh. Germany’s Drive to the East and the Ukrainian Revolution 1917-1918. N.Y., 1971
2014/11/27
2014/11/27
・歴代在ウクライナ大使
今日ウクライナ語版Wikipediaを物色していたらНадзвичайні і Повноважні Посли країн Європи в Україніという項目が面白かったので少し書いておくことに。直訳すると「ヨーロッパ諸国の在ウクライナ臨時大使及び全権大使」ということになるが、二つの形容詞をこう愚直に訳していいのか分からない。検索してみるとНадзвичайні і Повноважні Послиひとまとまりの用法が結構見つかるので、これで一般的には大使を指すのかもしれない。
この項目の著者はウクライナ人民共和国及びヘトマン国家と現在のウクライナの連続性を推す立場にあるようで、ドイツのウクライナ占領政策ではお馴染みのMummやオーストリア=ハンガリーのJohann Forgáchに加え、法的あるいは事実上ウクライナを承認していたブルガリア、フィンランドなどの国々の使節、さらにはただ交渉のための使節を送っていただけの英国やフランスの外交官の名も挙げられている。フランスのJean Pélissierや英国のJohn Picton Baggeなどはそれぞれフランス語版、英語版Wikipediaに記事がなく本国では取るに足らない人物のようだが、ウクライナ語版にはしっかり個別の項目がある。この時代にウクライナが主権国家として国際社会デビューを果していたことを示したいのだろうか。
そして酷いと思ったのはドイツの初代大使として扱われているAdalbert von Magdeburgという人物。彼は10世紀の初代マグデブルク大司教であり、どうやら若いころキエフ・ルーシの大公妃オリガから神聖ローマ帝国のオットー1世が要請を受け、キリスト教布教のための使者として派遣されたらしい。こんなの年代記の世界で、おそらくルーシの年代記と西側の記録で齟齬もあるだろうに、「ウクライナ史」では彼のキエフでの布教活動はウクライナ世界が西欧と結びついていた証として記憶されているのだろうか(そもそも、「ドイツ」の初代大使と言うことは「ドイツ」の連続性においても大いに問題・・・)。
まあWikipediaに突っ込みをいれること自体が馬鹿らしいのだが、こうして書いてまとめると少なくともその間は頭が働くから良い。
2014/11/24
2014/11/24
・読んだもの
Julien, Elise. Der Erste Weltkrieg. Darmstadt, 2014
S.25-32
ドイツには「歴史論争」と題された学部生向けの教科書のようなシリーズがあり、フィッシャー論争の現在地を探るため「第一次世界大戦」の巻を少し読んでみた。
いざ読んでみると60年代の論争最盛期についての叙述は充実しているが、現在は簡単に言えば相対主義が支配的であり、フィッシャー論争が正しいか否かなどという問いが成立する時代ではないのかと感じた。「ドイツの戦争責任の重さ」「ドイツの拡大志向」というフィッシャーのテーゼの一部は「最低限の合意」とされているものの、歴史学上の合意は未来の論難に対して不死身というわけではない。その例がChristopher Clarkの著作『夢遊病者たち』であり、開戦期の指導者たちの「夢遊病者」的な行動様式と集合的な政治の機能不全を強調して相対主義的アプローチをとる一方、セルビア、ロシア、フランス(独墺は正しく振る舞った)という新たな戦争責任のヒエラルキーを提示している。Clarkの著作がドイツでかなり売れているのはこちらに来てから実感しており、著者の立場を大まかに知れたのは良かった。
著者のElise Julienはパリとベルリンで学び、第一次世界大戦で博士号取得、リールの研究所で教えている。彼女はペロンヌの大戦博物館の顧問、及び「1914-1918オンライン」の編集委員会のメンバーである、とのこと。
2014/11/21
2014/11/21
・読んだもの
①Bihl, Wolfdieter. „Einige Aspekte der österreichisch-ungarischen Ruthenenpolitik 1914-1918,“ in Jahrbücher für Geschichte Osteuropas 14, 1966
②Bihl, Wolfdieter. „Die Beziehungen zwischen Österreich-Ungarn und Russland: in Bezug auf die Galizische Frage 1908-1914,“ in Karlheinz Mack (Hg.), Galizien um die Jahrhundertwende: Politische, Soziale und Kulturelle Verbindungen mit Österreich. Wien/München, 1990
①は第一次世界大戦時のハプスブルク帝国のルテニア人政策を扱った論文。「ウクライナ人」への改名問題から新暦の導入、難民、捕虜兵など多くの領域についてそれぞれ軽く触れるという感じで統一的な「ルテニア人政策」像はあまり見えてこない。在米ウクライナ人組織の活動は初見であり、ハンガリーが既にかなり国民国家的価値観で帝国政府に反発していたことがわかったのは収穫。
②は第一次世界大戦直前の墺露関係を主題とした論文。ボスニア併合以後のバルカン危機がまず前面におしだされがちだが、ガリツィアも対立の焦点の一つだった。ガリツィアのポーランド人、ウクライナ人に加え帝国政府、ロシア帝国政府、ロシアのポーランド人など様々なアクターに着目し、①よりかなり厚みがある(まあ24年後だし)。特に墺露対立が先鋭化するほどポーランド、ウクライナのそれぞれのナショナリストは利益を引き出しやすくなるため、境界地域では対立が煽られることもあった。
このWolfdieter Bihl(1937-)という人はオーストリアの歴史家で、まあ「自国史」としてこのテーマに従事していたようだ。博士論文は「オーストリア=ハンガリーとブレスト・リトフスク講和」。教諭資格を得たのは「中欧列強のコーカサス政策1914-1918」。専門は中欧列強と東・南ヨーロッパ、オリエントとの関係であり、ウクライナ、オスマン帝国、第一次世界大戦の歴史が中心である。1977年にウィーン大学の教授となり、2002年に退職した。2010年に第一次世界大戦の通史を出版している。
2014/11/17
2014/11/17
・読んだもの
Kappeler, Andreas. Die Kosaken : Geschichte und Legenden. München, 2013
ドイツ語通読三冊目。僕のなかで未だ断片的だったコサックのイメージにようやく大まかな輪郭ができた。少なくとも、混乱を生む原因となっていたドニエプル・コサックとドン・コサックは今後しっかり読み分けられるだろう。
S.33 フメリニツキーは対ポーランド戦争を組織する際、意識的に「カトリック対正教徒」という構図を利用した(ブレスト合同でユニエイトが生れ、正教徒がカトリックに取り込まれることが危惧されていた時期だった)。そのため、フメリニツキーの蜂起はヨーロッパの宗派化の枠組みにおける宗教戦争としても理解し得る。
S.52 非コサック農民らからの反発も多く地方反乱の域を出なかったドン・コサックの蜂起に対し、ドニエプルの蜂起はなぜ下層の人びとも巻き込んだ全ウクライナ的反乱となったのか。第一に、中央専制国家ロシアの方が、緩やかな貴族共和国のポーランド・リトアニアより手ごわかった。第二に、ドニエプル・コサックの方がはるかに数が多かった。そして根本的に重要だったのは、ドニエプル・コサックがウクライナ貴族の一部や正教と同盟していたことである。とりわけ、カトリック・ポーランドに対するウクライナ人民の宗教同盟は彼らの成果の決定的な要素だった。ドン・コサックの蜂起にも確かにムスリムや旧儀式派が参加していたが、大多数は敵と同じロシア正教徒だった。
S.74 十月革命後、クバンでの人民共和国について。クバン・コサックにはウクライナ入植民が多く、ウクライナ人民共和国やヘトマン国家との合同を模索していた(このあたりは長尾久が書いていた気がするのでもう一度読む必要あり)。
19世紀に皇帝と祖国の忠実な守り手(ボリシェヴィキ曰く"Schergen"、「国家権力の手先」)となったコサックがロシア革命とその後の内戦、そして第二次世界大戦で果たした役割に関してはより深める必要あり。あと、ウクライナ・ナショナリズムとコサック神話の結合は緊密すぎるので分かりやすいが、ロシア・ナショナリズムにおけるドン・コサックの居場所についてはいまいちはっきりしてしない。コサックこそが「ロシア性」なのか、ロシアの多元性を代表する一要素なのか。
2014/11/14
2014/11/14
・読んだもの
Fedyshyn, Oleh. “The Germans and the Union for the Liberation of Ukraine, 1914-1917,” in Taras Hunczak (ed.), The Ukraine, 1917-1921 : A Study in Revolution. Cambridge, 1977
第一次世界大戦時に中欧列強の支援を得て活動していたウクライナ解放同盟(定訳はあるのか?)を主題とする論文。まずウィーンに拠点がおかれ、やがて1915年にベルリンが活動の中心となった。
ウクライナ・ナショナリズムに寄り添う立場ではこの組織の意義を過大視してしまいそうだが、本論ではこの組織が戦前の中欧列強の拡大志向になんら根を持っていないこと、また金銭的支援も比較的少なかったこと、そして中央ラーダの1917年から18年にかけての革命行動は解放同盟とは全く独立して生じたことが示されている。直截的には述べていないが、著者は「ドイツとオーストリアは長らくロシア帝国の解体のためウクライナのナショナリストを陰で支援しており、第一次世界大戦で敵国となって以後はそれが大々的に行われ、中央ラーダもドイツの手先として行動していた」というロシア寄りの史観に反論しているように見える。むしろロシアと帝国秩序を共有していたドイツとオーストリアが(ポーランド分割の共犯関係、等々)、ロシアが解体しその秩序が崩壊するのを望むはずがない、と帝国論的な視点もあって興味深かった。
2014/11/03
2014/11/3
・読んだもの
Hausmann, Guido. “Die Kultur der Niederlage : Der Erste Weltkrieg in der ukrainischen Erinnerung.” in Osteuropa 64/2-4, 2014
ドイツ語の東欧史専門誌が今年組んだ第一次世界大戦特集に寄稿された、ウクライナにおける大戦の記憶について扱った論文。その時代、Stepan Rudnyc'kyjという地理学者がドイツ語圏における地域概念としてのウクライナの普及にかなり大きな役割を果たしたらしい。さらにウィーンで活動していたガリツィア・ウクライナ人たちの組織"Bund zur Befreiung der Ukraine"(ウクライナ解放同盟)の存在やルーデンドルフのクリミア半島植民地化構想など、ドイツ語論文ならではの知識が得られ有益だった。
著者のHausmannはLMUにいるらしいが、今学期はどうも授業が見つからなかった。来学期のゼミのテーマによってはぜひ指導を受けたい人物。
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