2015/01/23
2015/1/23
Ther, Philipp. “Imperial instead of National History: Positioning Modern German History on the Map of European Empires,” in Alexei Miller and Alfred J. Rieber (ed.), Imperial Rule. Budapest/N.Y., 2004
ドイツ人国民国家の歴史として語られがちな近代ドイツ史に「帝国」モデルを持ち込む意義を論じたもの。論敵であったニッパーダイとヴェーラーがドイツ人中心的な歴史叙述において共通していた点、ドイツ「特有の道」論争がイギリス・フランス型国民国家の「近代性」を自明のものとして前提にしている点、(ポスト)植民地研究がドイツ帝国をイギリス・フランス型の海洋帝国と同様に扱い、「国内植民地」ポーランドの存在をほとんど顧慮していない点などを指摘し、ドイツ帝国のロシア・ハブスブルク的大陸帝国としての特徴に注意を向けることで、従来の歴史学が陥りがちだったドイツ人中心主義を超克し、さらに「近代性」概念の再考を迫ることをも可能にすると述べる。
ポーランド・ナショナリズムは19世紀初頭にはドイツより「近代的」であり、その後のドイツ・ナショナリズムの高まりに刺激を与えたというのは興味深い。ただ、著者は後のポーランド人同化政策とロシア領ポーランドでの「ロシア化」政策を同種のものとして扱っているが、ドイツ・ナショナリズムがポーランド人を文化レベルの低い民族と見なし、自らを文明の担い手として位置付けたのに対し、ロシア帝国の「ロシア化」政策は文明の進んだポーランド人への恐怖が動機をなしていたのではないか。
あと、海外植民地と「国内植民地」ポーランドの違いで現地人を同化可能と見なすか否かというのが指摘されているが、人種主義を帝国論にどう位置づけるか(あるいは位置づけられないのか)は少し考えたいテーマ。
2015/01/21
2015/1/21
・第一次世界大戦前のウクライナ
Mykhailo Kotsiubynsky (1864-1913)
ヴィンニツァ生まれのウクライナ語作家。20世紀前半の典型的なウクライナの生活を描いた。代表作は二部から成る『ファタ・モルガナ』(1904, 1910)。心臓病を患い、1913年に死去した。ソヴィエト時代にもリアリスト的な彼の作風は評価され、いくつかの作品が映画化された。
Mykola Lysenko (1842-1912)
ポルタヴァのコサックの家系に生まれた作曲家。若いころからウクライナ民族音楽に関心があり、西欧で音楽を学んだ後、ロシア帝国で多くの作品を発表した。作品はいずれもウクライナが主題となっており、ロシア語への翻訳を自ら禁じていた。
Hayim Nahman Bialik (1873-1934)
ヴォルイニに生まれ、オデッサで活動したヘブライ語作家。当時のユダヤ人の中でシオニズムの立場をとった代表的な人物であり、現在はイスラエルの国民詩人と見なされている。ボリシェヴィキがオデッサの支配を確立させるとドイツへ移住。死後、亡骸はイスラエルへと運ばれ、テルアヴィヴに埋葬された。
Nathan Milstein (1904-1992)
オデッサ生まれの世界的なユダヤ人ヴァイオリニスト。ペテルブルクやキエフで音楽を学んだのち1929年にアメリカでデビューし、以後ニューヨークに定住した。バッハのソロ曲とロマン主義時代の作品の演奏が有名で、また80代中盤まで活躍したというキャリアの長さでも知られている。
Martin Buber (1878-1965)
ウィーン生まれ、リヴィウ育ちのユダヤ人哲学者。ハシディズムの伝統を再生させたことでも知られる。フランクフルト大学の教授となったが、ナチスが政権を掌握するとイスラエルに移住した。主著は『我と汝』(1923)。
2015/01/20
2015/1/20
・第一次世界大戦前のウクライナ
今読んでいるKappeler, Andreas. Kleine Geschichte der Ukraine. München, 2014の第九章が大戦前のウクライナの社会史、文化史的側面を扱っているのだが、知らない人物が多く出てきたので調べることにした。なお、著者のKappelerは本書の中で「ウクライナ」という語を今日のウクライナ主権国家の領域として用いることを冒頭で表明している。一度断っておけばウクライナ・ナショナルヒストリーに傾いた歴史観の持ち主だと見なされるのを恐れ細かい用語法に気をとられるようなことはなくなるだろうし、何より分かりやすい叙述がなされているので、読者としてありがたい。
Dmytro Bahalii (1857-1932)
ロシア帝国、ハルキウ大学の歴史家。スロボダ・ウクライナの公的領域にも積極的に参与し、1914-17年にはハルキフ市委員会を率いた。1918年、ウクライナ科学アカデミーの創立メンバー。専門はスロボダ・ウクライナ、左岸ウクライナ、南ウクライナの歴史である。革命後もソ連にとどまって研究を続け、ハルキフで死去した。
Alexander Afanassjewitsch Potebnja (1835-1891)
ロシア帝国、ハルキウ大学の哲学者、言語学者。代表作は『思考と言語』(1862)。また、ホメロスのオデュッセイアをウクライナ語に翻訳した。サンクトペテルブルク科学アカデミーのメンバー。
Mikhail Ivanovich Tugan-Baranovsky (1865-1919)
ハルキウ生まれの経済学者。ペテルブルク大学で教えるほか、ピョートル・ストルーヴェの自由解放同盟に参加、ポルタヴァのゼムストヴォでも活動していた。1917年にウクライナ・ラーダ総書記局のメンバーとなるも、第三次ウニヴェルサルに反対して辞任。
Maksim Kovalevsky (1851-1916)
ロシア社会学の祖。ハルキウ大学で学び、やがて世界的な社会学者となった。一次革命後ロシアに帰国し、ドゥーマにも選出された。戦時中には来たる講和交渉への参加が見込まれていたが、1916年に死去した。
Stepan Smal-Stockyj (1859-1938)
ブコヴィナ、チェルノニウツィの言語学者。政治にも参加し、オーストリア議会議員でもあった。1918年にプラハへ去り、西ウクライナ人民共和国の公使となった。1921年よりプラハのウクライナ自由大学で言語学と文学を教えた。
Marko Vovchok (1833-1907)
ウクライナの女性作家。タラス・シェフチェンコやパンテレイモン・クリシらと交流があり、夫もキリル=メトディオス団の一員である。ウクライナのフォークロア文化の興隆に大きく寄与した。
Panas Myrny (1849-1920)
ポルタヴァ生まれのウクライナ語作家。社会心理学的な手法で、農奴解放後のウクライナ農村の変化を描いた『破滅した力』(1880)が代表作である。
Olha Kobylianska (1863-1942)
ブコヴィナ生まれのウクライナ語女性作家。1891年からチェルニウツィで執筆し、1896年にウクライナ文学初のフェミニスト小説を著した。同じく女性であるレーシャ・ウクラインカと一時恋愛関係にあった。一次大戦後ルーマニア領となったチェルニウツィで死去。
疲れたので今日はここまで。Wikipediaで日本語記事が出ているものもあり、まだまだ弱い分野だと痛感する。
2015/01/08
2015/1/8
・ウクライナのクリスマス
正教国のウクライナは今クリスマス休暇の最中である。今日のウクライナ語の授業でクリスマスについて扱われ、依然内戦状態にあるウクライナでのクリスマスに少し関心を持ったので、ドイツ語のニュースサイトを漁ってみた。
1. 社説:ウクライナにクリスマス休暇はない
http://www.dw.de/kommentar-keine-festtagspause-f%C3%BCr-die-ukraine/a-18180279
これは特にクリスマスが主題というわけではないが、休暇返上でベルリンにやってきたヤツェニューク首相とメルケル首相の会談から、ウクライナの困難な状況をまとめたもの。会談ではウクライナがドイツに援助を求め、ドイツが同盟国としてそれに応じることとなるだろうが、ウクライナ国内での改革とロシアとの合意なしに解決はありえない、とのこと。
2. カーチャ、9歳:「時々わたしはモデルを演じる」
http://www.zeit.de/2014/53/wunschzettel-ukraine
6月、家族ととものルハンスクからキエフへと移住した少女の物語。彼女は新しく入学した学校で友達ができず、ときに「移民」として差別を受けていた。東部からの難民は彼らが当初より分離主義者に反対していたと主張しても、「裏切り者」のレッテルを貼られることがあるという。物資の欠乏した厳しい状況で迎えたクリスマスに、カーチャは戦争が終わり、皆が再び微笑むことを願い、それをもみの木に飾る小さな紙に記した。
表題は、カーチャがある日ルハンスク時代の美少女コンテストで優勝したときにとったポーズを再現したというエピソードから。
3. ウクライナ:「初めての戦争中のクリスマス」
http://de.radiovaticana.va/news/2015/01/06/ukraine_%E2%80%9Eerstmals_weihnachten_mit_krieg%E2%80%9C/1117122
ラジオ・バティカンの記事。ユニエイト教会のキエフ大司教がクリスマスに際して発したスピーチが主題となっている。大司教は「ウクライナでクリスマスをこのように迎えるのは第二次世界大戦以来初めてのことだ。全てのキリスト教教会(ウクライナ国内で正教3つ、カトリック2つが存在)は互いに助けあわなくてはならない。我々は国際的な対話での解決を強く求め、支持している。対話は弱き者に寄り添わねばならず、またそれが教会の役割でもある」と述べた。
典礼上カトリックに属するユニエイトがクリスマスをどちらの暦で祝っているのか気になったので調べてみると、正教と同様ユリウス暦、すなわち1月の今の時期がクリスマスとされているようだ。
4. 戦争中の平和の祝祭
http://www.tagesschau.de/ausland/orthodoxe-weihnacht-101.html
東ウクライナでのクリスマスを紹介する映像記事。ドネツクでの子どもむけのイベント(武装は禁止にもかかわらず、兵士は気にせず)や、教会でのクリスマス礼拝(ウクライナ語)の様子が映される。平和を願う普通の人びとの姿。
2015/01/06
2015/1/6
・クリスマスマーケット巡り
29. München, Sendlinger Tor
Marienplatzの南西にあるゼンドリング門の前の小さな広場のクリスマスマーケット。同名の駅はミュンヘン市内交通の要衝であり、規模の割に訪れる人々は多そう。大通りを挟んだ向こう側にあるトラムの駅からは期間限定でクリスマス仕様のトラムが運行しており、そちらも親子連れでにぎわっていた。
30. München, Theresienwiese
世界的に有名なオクトーバーフェストの会場であるTheresienwieseは、冬になると一大クリスマスイベントTollwoodの会場として再び人々を集め始める。クリスマスマーケットでお馴染みの屋台も出店するが、電飾がきらめく広大な敷地にテントの立ち並ぶ姿はもはやテーマパークである。サーカスを思わせるテントの中身はフードコートや露店街となっており、普段見られないエスニック志向の商品が目立った。
31. Salzburg
多くの町のクリスマスマーケットは12月23日あるいは24日の午前中を最後に終了を迎えるが、一部の観光地では集客の見込める年末年始まで引き続き市が開かれている。オーストリアのザルツブルグもその一つで、軒並み休業中の市街地の商店街とは打って変わった盛り上がりを見せていた。ドイツの外の市を訪ねるのは初めてだったが、目についた特徴は通路がやや広かったこととWifiが飛んでいたことくらいか。食べ物はウィーン名物カイザーシュマーレンを売るなどのオーストリア意識が見られた。
32. Praha
旧市庁舎、ティーン教会、ヤン・フス像などの錚々たる役者のそろったプラハの旧市街広場に、この季節はクリスマスマーケットが更なる見所として加わる。ティーン教会と巨大クリスマスツリーが並んだ姿は圧巻。露店では伝統的にこの地域でクリスマスに食されるTrdelníkというパンや蜂蜜酒Medovinaを楽しめる。Medovinaはもともと宗教儀式で用いられた飲み物で、今も寒い冬にはスパイスを加え暖かくして飲まれているようだ(http://www.radio.cz/de/rubrik/tagesecho/medovina-ein-getraenk-fuer-goetter-und-menschen)。オリジナルのマグカップを作らず紙コップでグリューワインを出しているのが唯一の難点か。
33. Český Krumlov
世界で最も美しい町と称されるČeský Krumlovも、小さい町ながら観光客向けの市が年越しまで開かれていた。雪の積もった広場でのクリスマスマーケットはなかなか美しかったが、氷点下を大きく下回る寒さゆえか人出はそこまで多くなかった。
34. Wien
ハプスブルク家の夏の居所であったシェーンブルン宮殿を訪ねたのは年の明けた1月1日のことだったが、宮殿のクリスマスマーケットは朝からしっかり開かれていた。元日にもかかわらず宮殿には大量の観光客が来ていたので、休日返上も惜しくないのだろう。マーケットに特別な個性はなく、ウィーンの中心地を会場としたものの方が規模は大きそうだ(そちらは既に解体されていたが)。
以上で僕が訪れたクリスマスマーケットの紹介は終了となる。34か所を訪問、一日一ヶ所のペースということで大いに満足。観光地だけでなく、小さな町の地元のお祭りとしてのクリスマスマーケットを多く見られたのもよかった。
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