2015/03/23

2015/3/23


・旅行メモ

3.14
ほとんど寝れない覚悟をして夜行バスに乗ったが、何度か目を覚ましたものの予想外の快眠。自分でも驚きながら長時間停車したワルシャワのバスターミナルで寝起きのコーヒーを味わった。
このバスは目的地ベルリンまで連れて行ってくれるのだが、ポズナニに寄りたかったのでそこで下車。旧市街への道では雑然とした印象だったが、市庁舎と広場はかなり大きく活気があった。時間があればドイツ帝国時代の公共施設などを巡りたかったが、次に乗るバスが別のターミナルから出ることもあり、すぐに駅方面に戻った。
ポズナニからベルリンへ再びバスに乗り、ドイツへ帰還。ドイツの大都市の何とも言えない街並が懐かしい。シャルロッテンブルク駅で友人と合流し、久々に泊まるまともな宿に荷物を置き、大都会成分を求めて早速中心部へ。ポツダム広場からウンター・デン・リンデンを経てハッケッシャーマルクトまで歩いたが、正直人気は少なく拍子抜けしてしまった。ただ、ハッケッシャーマルクト周辺の飲食店はにぎわっており、さらにベルリンらしい落書きやポスターだらけの薄暗い界隈も垣間見れた。

3.15
まずはベタな観光をしようということで、東駅近くのイーストサイドギャラリーへ。残された壁に様々なアーティストが作品を描き展示されている。やはり多くのものが壁の背負った歴史的背景をテーマにしていた。
次にベルリンの中心部の一つアレクサンダー広場へ。デーブリーンの小説のタイトルから何か文学的な光景を期待したが、広場自体は普通の広場で、さらに日曜日ということもあってか人出が少なくここでも拍子抜け。とりあえずテレビ塔、赤の市庁舎、マリエン教会、ニコライ地区、ジャンダルメンマルクトと定番の名所を歩いた。昼食はフリードリヒシュトラッセ駅近くの店でハンバーガーを食べたが、ここはかなりにぎわっていた。飲食店はどこも結構人が入っており、大都市であるはずなのに渋谷的な繁華街が見つからないのは、日曜日なうえ寒いから人が路上に出ていないだけという説が有力になる。
ここまでは東ベルリン地区だったが、西ベルリンの中心地ツォー駅周辺も訪問。カイザー・ヴィルヘルム教会をのぞき、随一の繁華街だというクーダムも歩くが、やはり人はそんなに多くない。このエリアは観光名所が多いわけでもないのですぐにすることがなくなり、名物のカリーヴルストだけ食べてフリードリヒシュトラッセに戻ってホステルのコモンルームで友人の出発までの時間をつぶした。

3.16
再びの一人旅だが、ここで打って変わっての快晴。気温もぐんと上がり、朝から町に出て博物館島やベルリン大聖堂周辺を歩く。10時を待ってドイツ歴史博物館を訪問。ベルリンで最も楽しみにしていたものの一つだったが、さすがドイツと言うべきかあまりに展示がまともであり、突っ込みどころがなくいささか退屈だった。実物や図面の展示も多いので、それらをなんとなく見て歩くのがいいかもしれない。
次はかなり凝った展示がされているというユダヤ博物館へ。多くの有名建築家が関わっているらしく、ハードの部分から「展示」が始まっているようだった。態度の悪い外国人修学旅行生が大量にいたのが残念だった。
この日はあまり体力が持たず夕方一度ホステルで休んだが、夜再びポツダム広場へ。夜まで暖かく、人出もかなり増えている。ソニーセンターなどを見てからベルリン中央駅を経由し宿に戻ってきた。

3.17
この日は午前中近郊の町ポツダムへ。最大の名所であるサンスーシ宮殿は駅から離れているが、暖かく終始活気があったおかげでニコライ教会、オランダ地区、ブランデンブルク門を経由して庭園に入り、新宮殿まで歩けてしまった。ベルリンのベッドタウンとしての役割もあるはずだが、独自の優雅な雰囲気を保った町という印象。
午後ベルリンに戻り、東ベルリンのプレンツラウアーベルクへ。この辺りはニューヨークのブルックリン的な背景を持つエリアで、そこまで好きではないが少なくともベルリンと聞いて思い浮かべる雰囲気は味わえた。
夜はまだ見ていないということで連邦議会議事堂へ向かう。内部見学者の列でにぎわっていたが、予約していない僕は遠めから眺めるのみ。夜景を見ながら中央駅まで歩いた。

2015/03/13

2015/3/13


・旅行メモ

3.12
この日はリガを出発しヴィリニュスに泊まることになっているが、行程の軸となるのは途中で寄る十字架の丘である。理由あってここの訪問はこの旅のメインイベントとも言える位置づけだった。
まず、十字架の丘への拠点の町、シャウレイへの切符を買いにバスターミナルへ。しかし乗るつもりだった朝のバスは既に満席ということで、昼の便を提示された。それでも15時にはシャウレイに着けるので、そのバスの切符を買った。空いた3時間は鉄道で近郊のユールマラへ行き、パルヌゥに続いて再び閑散とした砂浜を歩いてきた。前と同じく風が強く寒かったが、晴れていたので気分はよかった。
リガを出たバスは定刻通りシャウレイに到着。バスが満席なのは十字架の丘目当ての観光客が殺到しているからだと思っていたら、普通に地元の人が利用しているようだった。車がマルシュルートカなのも席がすぐ埋まる要因だろう。シャウレイのバスターミナルでは窓口で丘に向かう路線バスの時刻表をもらった。荷物を預け、15:40のバスにDumantaiまでの切符を買って乗り込む。
このバスこそ十字架の丘へ向かう観光客でいっぱいだろうと思っていたらまたもや外国人は僕一人で、ただの地方の路線バスである。停留所の案内などなく自分で降りる場所を見極めなくてはならないが、運転手に直接行き先を告げて切符を買っているし、外国人は僕一人で運転手も存在を認識してるだろうし、知らせてくれるだろうと楽観していた。シャウレイの市街地を抜けてしばらく経ち、数人が降りる停留所で運転手が僕の方を見て降りろと合図。僕は一応運転手にここでいいのかとジェスチャーで尋ねると、無言で今走ってきた道、シャウレイ方面を指さした。とりあえず下車する。
降りてもそれらしき気配がないので戸惑いながら周囲を見回していると、親切な人がロシア語で話しかけてくれた。地図とか持ってないのかと言うのでバスターミナルで貰った時刻用のDumantaiの文字を示すと、「反対だよ!反対!」と彼もシャウレイの方を指さした。案内などは全くないが、とりあえずそちらに歩き始めるしかないようだ。
歩き始めてすぐ、シャウレイまで18kmの標識が目に入る。事前の下調べではシャウレイから十字架の丘までは12kmということだった。ここでバスを降りて周囲に何もなかったときに抱いていた不安が現実であると分かった。運転手はDumantaiで何も知らせてくれずそのまま通過し、6kmも先の村で僕を降ろしたのだ。
選択肢はいくつかあったが、とりあえずDumantai方面へ歩き始めることにした。車道の脇に人が歩ける広さの砂利道はあったが、その後歩いた30分一人もすれちがわなかった。1kmおきに数十世帯規模の村が現れるほかはひたすら畑が広がっている。もしDumantaiまでの距離が6kmならば次のバスまでの時間でギリギリ歩き終わる計算になる。その前にバスはなく、十字架の丘に向かうことは既に諦めていた。何より先ずリトアニアのド田舎でいかに都会シャウレイへ安全に帰還するかを考えていた。
2kmほど歩くと停留所を発見。歩ける間隔で停留所はあることがわかり、とりあえず次の停留所までまだ歩き出す。そしてまた1kmほど歩くとやはり停留所を発見。そこでシャウレイ方面の時刻表を見ると、次のバスは17:21発となっている。バスターミナルで貰った手許の時刻表によれば、Dumantaiから乗る予定だったバスは17:27発である。すなわち、今いる場所からDumantaiまでは車で6分の距離である。30分早足で歩いて既に疲れ始めており、ここで歩くのは諦めて40分ほど先のバスを待つことにした。
幸いだったのが、停留所のベンチで休んでいたら時刻表に乗っていないバスが止まって乗せてくれたこと。こんなところで一人東洋人が乗ってきて運転手も驚いたに違いない。時間的にはこのバスでDumantaiに向い再度十字架の丘に挑戦することもできたのだが、都会に帰りたくて仕方がなかった僕は迷わずシャウレイへの切符を購入。バスに乗って数分、外を注視していると「←十字架の丘」との小さい標識が目に入った。しかし丘自体は全く見えず、どうやらバスを降りてからしばらく歩かねばならなかったらしい。それにこんなに案内がちっぽけだとは思っていなかった。
やがて無事シャウレイに到着し、まず文明の象徴ショッピングモールでしばし足と心を休める。シャウレイの町を観光する時間もあったが、大人しくショッピングモール内のハンバーガーショップに籠っていた。なんといっても十字架の丘に行けずじまいだったというのは悔やんでも悔やみきれない。朝のバスの切符を昨日買っておけばよかったとか、下調べが足りなかったとか色々反省しつつも、最終的には素知らぬ顔でDumantaiを通過した運転手を恨むということで落ち着いた。文明国からの観光客を路頭に迷わせてほくそ笑むのが彼にとっては日々の労働のせめてもの慰めなのかもしれない。
ヴィリニュスに着いたのは22時過ぎ。旧市街は静かで人気も少なかったが、地図を頼りに宿に辿りつけた。久しぶりに賑やかな宿だったが、田舎で心細かったこの日はそれにも嫌な気分にはならなかった。

3.13
傷心から一夜明け、平常運行でヴィリニュスの町を歩く。旧市街の面積は東ヨーロッパ一らしい。教会などの名所を回って昼過ぎには満足した。港町であるタリン、リガとは雰囲気も違う。また、住宅街を少し覗いてリトアニアがバルト三国で一番貧しいというのも分かった気がした。
夕方は近郊のトラカイへ。ここは湖上の島に建てられた城で有名で、せっかくなので入場料を払って中にも入った。湖畔から見ると城が湖に浮かんでいるようで、なかなか珍しい光景。
夜ヴィリニュスに戻り、夜行バスでポズナニへ。今回のバスはLuxではないSimpleExpressで、無料のコーヒーはないらしい。

2015/03/11

2015/3/11


・旅行メモ

3.7
朝遅めに起床し、まずウクライナ国立歴史博物館へ。巨大な建物に四フロアに渡って古代から現代まで詳しい展示がなされており、ウクライナ国民国家の「ウクライナ史」の解釈を知る上ではこれ以上ない博物館である。当然ながら、ウクライナ民族などという概念が生まれる前の話も、クリミアを含む現在のウクライナの領域に関わることなら「ウクライナ史」の構成要素とされている。ここにマイダンの展示スペースが既に設けられているのは予想通りであり、特に目くじらは立てず。
その後、書店街があるというペトリフスカへ。古本の露店が大量に並んでおり、見てみるとロシア語の本がほとんどのようだった。苦心してウクライナ語―英語辞典を見つけ出し購入。
夕方は土曜日で歩行者天国となっていたフレシチャーティクを歩き、チョコレートハウスなどの有名な建築物をいくつか眺め、最後にマイダンで再度慰霊碑や花束を見て回った。ミュンヘンも大きな町だが、キエフはもう一段階上という感じで、まだまだ過ごせそうだった。
夜キエフ駅へ向かい、ミンスク行の夜行列車に乗る。ウクライナ国内では全く停車しないらしく、出国手続きは発車前に車内で行われた。国境で起こされるのが短時間で済むのは良い。

3.8
無事トランジットビザでベラルーシに入国し、ミンスクに到着。しばらく気が付かなかったが、ミンスクはキエフより一時間早く、モスクワと同じ時差らしい。
町では重厚な社会主義建築に囲まれ、日曜日ということで閑散としたレーニン広場にまず驚く。レーニン像も現役である。ここから勝利広場あたりまでの大通りはスターリン様式建築目白押しで、他のヨーロッパの首都ではまず見られない街並みだった。一方で教会などのある旧市街は観光地化が進んでおり、また現代的な高層ビルも立ち並び、統一感のないなかなかカオスな風景も見ることができた。
店を間違えて昼食に2000円とられたのち、ウスホート駅近くの教会と国立図書館を見に行った。ロシア風の木造教会を初めて見れたのはよかった。日曜日だからかもしれないが、市内中心部だけでなくこのあたりにもカメラを持った人々の姿があり、ミンスクが意外にも観光地と見なされていることがわかった。
夜は二日連続の夜行でリガへ。三等寝台続きは辛いので、一等の個室をとった。ミンスクだけを訪れるとウクライナよりだいぶ豊かな印象だが、カーメネツなどと同等の田舎にも行かないと判断はできない。

3.9
定刻通りリガに到着。タリン行のバスへの乗り換えが30分しかなかったので遅れられたら困る。
バスはバルト諸国のバス界を支配するLuxExpressで、車内Wifiやコンセントなどがついた西ヨーロッパ仕様であることはもちろん、無料でコーヒーや紅茶が飲めるサービスもあった。快適な椅子にもたれ綺麗な窓から外を眺めながらきちんと整備された道路を走っていると、ヨーロッパに戻ってきた安心感でつい気が緩む。
宿に着いてから数時間、タリン市内観光。立派な市庁舎や教会、入り組んだ旧市街、高台からのバルト海の眺めなど観光資源はそろっている。エストニア語の通りの名前がいちいちかわいかった。

3.10
タリンを早々に去り、鉄道でパルヌゥへ。バス路線が充実したバルトで鉄道に乗ったのはただ鉄道に乗りたかっただけだからなのだが、非常に現代的な車両であまり列車旅の情緒はなかった。ただ、本当になにもないところを走るというのは鉄道だけの醍醐味。
パルヌゥはバルト風なのか北欧風なのか知らないがとりあえずカラフルな木造建築の多い町で、初めて見る街並だったので歩いているだけで楽しめた。夏はにぎわっているであろうビーチにも一応行ってみたが、商店はシャッターを下ろし、誰もいない砂浜で風だけが吹き荒れていた。
パルヌゥからリガまでは再びLuxExpressを利用。リガもタリンと同じ旧ハンザ都市で旧市街がメインの町だが、とりあえずタリンよりは大きそうな印象だった。既に夕方だったので少し町を歩いた後、ペリメニを食べて宿に戻った。

3.11
この日は一日リガ観光。
旧市街を一通り散策し、正教会の聖堂を訪れたあと、ラトヴィア歴史博物館へ。ここはウクライナのものと比べると小規模な展示だったが、ラトヴィア史の観点はなんとなくうかがい知れた。50年弱のソ連時代は占領の歴史として自国史からは排除するというのがラトヴィア史的な歴史認識らしい(ナチの占領と併せて50年の「占領の歴史」を展示する「占領博物館」も別で存在している)。ボリシェヴィキの主力だったレット人狙撃兵についての言及も少なかった。戦間期のウルマニス時代の解釈が良くわからなかったのが残念。
その後は中央市場や倉庫街を見に行ったが、昼過ぎにはすることがなくなってしまった。半日は他の町に行けばよかったと思いつつ、今からでは間に合わない。旧市街のカフェでコーヒーを飲み、夕方には宿に戻った。

2015/03/06

2015/3/6


・旅行メモ

3.4
朝、まず最大の名所であるチェルニーフツィ大学へ向かう。ここ戦間期のルーマニア統治下までブコヴィナ・ダルマチア府主教の邸宅として使われており、その名で世界遺産にも登録されている。行ってみるとひっきりなしに大学生が往来するのみで観光客は皆無だったが、敷地内には立派な教会も残っており、そこでは多くの地元信者たちが祈っていた。ブコヴィナとダルマチア(現クロアチア)の統一主教区というのでオーストリア=ハンガリーの広大さが分かるというもの。
その後は劇場などのある中心部を歩き、リヴィウ発のチョコレートショップのカフェで一休みし、バスターミナルへ向かった。目的地のカームヤネツ=ポヂーリスキイへにはマルシュルートカで2時間半程の道程で、夕方前には到着。しかしこの日も観光は翌日に回し、珍しく泊まった普通のホテルの個室でのんびり過ごした。夜はロンドンのパブを意識しているらしいガラガラのレストランでステーキを食べた。

3.5
カームヤネツはスモトリチ川を境に旧市街と新市街が分かれており、ホテルは新市街にあったのでまず両者を結ぶ橋へと向かう。橋を渡ると旧市街だが、いくつかの教会を除いては見所はない。ロンプラにはチェスキー=クルムロフ的と書いてあったが、地形だけの話のようだ。旧市街を抜けた先にある中世の城はかなり立派で、塔に上れたり城壁の中の通路を歩けたりと内部の見学も楽しめた。
一通り見て回ってホテルで荷物を回収し、バスターミナル。バス移動が多くいい加減うんざりだが、今回のフメリニツキーまでのマルシュルートカが最後となる。フメリニツキーは列車に乗り換えるための経由地で、切符を買って駅前の唯一の食堂でパスタとサラダとボルシシのランチセットを食べたあとはひたすら電車を待った。
フメリニツキーからキエフへの列車はインターシティを名乗っており、乗車してみると車内は綺麗で確かにその名に恥じない。隣のおじさんに面倒な絡みをされた以外は電車の快適さを思い出させてくれるいい時間となった。キエフに着いたのは夜9時頃で、すぐ宿へと向かった。

3.6
キエフでは二泊するので、この日は一日市内観光。移動がないだけで気分がいい。朝洗濯を済ませてからゆっくり宿を出る。
まず訪れたのは第二次世界大戦で10万人以上のユダヤ人が虐殺されたバービン・ヤールの谷。概説書にもたびたび登場するガス室以前のナチスの残虐行為の代表例だが、行ってみると巨大な碑がある外には博物館はおろか解説の看板すらなかった。思っていたより小さな谷は公園の一部になっており、停留所の名に「バービン・ヤール」の文字を見つけることができたのみだった。
このバービン・ヤールの忘却が、ユダヤ人が姿を消しドイツと友好関係にあるなかその記憶を語り継ぐことにウクライナ・ナショナリズム的な意義が見いだせない現状に由来するなら、一方大飢饉記念館の展示はロシアに対峙する現在のウクライナにとって力を入れるに値するようだった。荘厳な鎮魂歌が流れる展示スペースでは、1932-33年の「ホロドモル」に加え20年代や40年代の飢饉についても語ることで、一貫してウクライナ民族を絶滅させようと図っていたというロシアの残虐さが強調されていた。さらには展示とは関係ない現在の東部地域での戦争の写真まで飾られていたのには呆れてしまった。ウクライナはホロドモルをホロコースト級のジェノサイドだと認定することを世界に訴えているが、その前に記憶と歴史の扱い方にもう少し気を遣った方がいいと思う。
その後は前回も訪れたペチェールスカ・ラーヴラへ。ウスペンスキー大聖堂のイコノスタシスは圧巻。敷地内にある書籍印刷博物館も、かつての教会写本とかの羅列かと思いきや19世紀や20世紀のナショナリズム運動と深くかかわった重要な書籍や雑誌も展示されており、なかなか面白かった。
夜はキエフで流行中のスシ・バーMURAKAMI(村神)で寿司を食べたが、残念ながら100円回転寿司以下の味。味噌汁は美味しかった。日本料理店というよりまさにバーという雰囲気で、箸と醤油が置かれた客席でワインやコーヒーだけ頼んでいる客がいるのはなんだか奇妙に見えた。

2015/03/03

2015/3/3


・旅行メモ

3.2
この日はリヴィウを一日観光。観光案内所の地図を頼りに旧市街を一通り歩き、前回は存在を知らなかった墓地も訪れた。多様な宗教が入り組んだ歴史を反映してであろう、教会の多さには改めて驚かされる。墓地ではイヴァン・フランコなどの有名人の墓石よりも、奥の開けた場所に位置する無数の戦死者たちの墓石群が印象に残っている。第二次世界大戦で対ソ連パルチザン活動を行ったUPA(ウクライナ蜂起軍)の集団墓地の隣には、第一次世界大戦後のポーランド・ウクライナ戦争で命を落としたポーランド兵士たちが埋まっている。これは戦間期にポーランドが作ったものに違いないが、当時はやがてかつてのナショナルな敵の隣で眠ることになるとは思わなかっただろうな。
昼過ぎから雨になったので、カフェで一息つく。リヴィウでカフェ文化が栄えているのはオーストリア時代の名残りということだ。

3.3
この日は当初イヴァノ=フランキフスクに寄ってブコヴィナのチェルニーフツィに向かう予定だったのだが、調べたら想像以上に時間がかかると知り、ただの移動日になってしまった。いい天気だったので少し残念。
バスには一応時刻表はあるようだが、バスターミナルのない小さな町の利用者に配慮してか、どこでも乗り降りできることになっている。そういうわけで走っては止まりを繰り返し、終点のチェルニーフツィまでは9時間もかかってしまった。リヴィウからチェルニーフツィまで通しで乗っていた人はいなかった気がする。どこでも降りられるのだから、地元の人にとってバスに貼られた行き先表示はそのバスが向かってくれる方角を示す程度のものでしかないのだろう。
チェルニーフツィの中心部はブコヴィナの首都であった往時を偲ばせるヨーロッパ風の街並みだが、同時に傷んだファサードからは保存状況の劣悪ぶりが窺える。まあ金が足りないんだろう。

2015/03/01

2015/3/1


・旅行メモ

現在ウクライナを旅行している。まとめて旅行記を書くつもりはなく、今回はPCを持ってきているのでたまにここに書いていく。

2.26
午後の便でキエフ、ボルィスピリ空港に到着。到着ロビーはかなりの人だかりで、タクシーの客引きが秒単位で寄ってくる。ターミナルDを出てすぐ市内行きのバス停がある。地下鉄ハルキフスカ駅を経由して鉄道駅へ向かうルートで、僕は宿がハルキフスカから乗り換えなしで行ける場所だったのでそこで降りた。
宿は名所「金の門」のすぐ隣で、市内中心部。2014年オープンらしく、準備はしてたんだろうがよく踏み切ったなと思った。客層はウクライナ人ロシア人がほとんどだった。

2.27
キエフは二度目だが、前回より格段関心が増しているので一度行った場所も気にせず歩く。戦争や革命は日常を政治化すると言うが、ガードレールや標識、花壇などが国旗の色で塗られていたり窓に国旗を掲げる家があったりしたのを見て時折それを感じた。革命の舞台、マイダン独立広場には慰霊のロウソクや花束がたくさん置いてあるが、それ以外は市民生活の中心としての平時の役割を果たしている。観光の中心でもあり、前もお目にかかった着ぐるみ商法に加え、慰霊碑の前で白い鳩と一緒に撮影という平和のイメージを利用した悪徳商法も流行していた。さらに前回は共産主義ノスタルジーの土産物を並べていた露店街がウクライナ・ナショナリズム路線に方向転換していたり、ともかく皆逞しい。
この日はしばらく歩いたのち、ブルガーコフ博物館とチェルノブィリ博物館を訪問した。フリブニャの暴落で何もかも安い。
夜鉄道駅に移動し、ヴォルィニのコーヴェルに向かう夜行列車に乗った。

2.28
朝7時半にコーヴェルに到着。ここはポーランドのヘウムへと向かう経由地として寄っただけであり、夜行列車であまり眠れず疲れていたので駅のすぐ近くにあるバスターミナルで待機した。キエフからヘウムへ向かう夜行列車もあるのだが、国際列車のため僕のルートより3倍くらい高く、またヘウムに朝5時台に着いてしまうのでそれは選ばなかった。
ウクライナからポーランドへの国境は意外とスムーズに通過し、ヘウムの町はずれのバスターミナルで下された。そこへは市内バスすら通っておらず、露店の店員に地図上のなんとなくの場所を示してもらい、コンパスを頼りにとりあえず歩き、途中で道を聞いた人が運よくウクライナ人で鉄道駅までの行き方を説明してもらえた。
ヘウムはウクライナ人民共和国がブレスト=リトフスクの講和交渉でひたすら領有を主張していた地であり、それだけの理由で訪れたのだが、来てみればただのポーランドの田舎町だった。中心部のグダニスク広場の向かいにまあまあ立派な正教会の聖堂があったのが名残といえば名残りか。
夕方鉄道に乗りルブリンに宿泊。丘の上に旧市街が広がる「ヨーロッパの美しい町」だった。ここはポーランドとリトアニアの合同が結ばれた地で、リテフスキ広場にはその記念碑がある。

3.1
最大の名所であるルブリン城を見学し、バスに乗って再びウクライナへ戻る。国境越えもあったりで5時間くらいかけて目的地のリヴィウに到着した。バスターミナルではなく中心部のオペラの前で降ろしてもらい、自由広場の日曜日の活気に驚かされた。宿までの短い道で、リヴィウ旧市街はヨーロッパの有名観光地と比べても遜色ない街並みだと思った。前回の滞在ではそこまでの印象はなかったのだが。
この日は落ち着くため個室をとっていたので、夕食だけ近くのレストランで済まし夜は部屋でビールを飲んだ。