2016/11/16

Georg von Rauch, Russland: Staatliche Einheit und nationale Vielfalt, Munich, 1953.


Georg von Rauch, Russland: Staatliche Einheit und nationale Vielfalt, Munich, 1953.

 本書は国家中枢の中央集権的志向と諸民族の分権的志向との間の緊張関係を軸にした、ロシア史の通史である。ロシアの多民族性に着目しているという点で、これはAndreas Kappeler, Rußland als Vielvölkerreichの先駆であり、ロシアの連邦制的改革案について取り上げている点で、Dimitri von Mohrenschildt, Toward a United States of Russiaの先駆である。帝国論、ナショナリズム論の隆盛によりKappelerの研究ですら既に古くなった今では、類書の少ない後者の視点で読むことが有用だろう。

 本書の優れた点は、何にもまして、キエフ・ルーシからソヴィエト連邦に至るロシア史上の全ての国家体制とその改革案に現れた連邦主義的原理を網羅的に取り上げようという企図にある。近代の帝国改革案はしばしば古来の国制を理想化とともに援用することで正当化されたから、正当化の根拠とされた国制の実情とその改革案をその場で比較対照できるのは、本書の通史的特徴の長所だと言える。また、アメリカ建国以後の連邦構想のみを扱ったvon Mohrenschildtに対し、著者はアメリカ建国以前に模索されたロシアの複合国家への改編にも視線を向けることで、複合国家と連邦国家との共通性を提示している。ただし、共通性にもかかわらず存在するであろう両者の原理的な相違について考察が十分なされているわけではなく、複合国家的改編と連邦国家的改編の構想は並列的に扱われている。
 
 ロシア史上の連邦主義的国家構想の網羅的考察という以上のような企図にもかかわらず、若干の漏れを指摘することはできる。例えば、本書で主に取り上げられているのは中央及び諸民族による国家構想であり、ロシア人の地域主義者(シベリアのポターニンなど)によるそれは重視されていない。著者は改編後の国家の地域単位の措定が、歴史的特権によるべきか、民族によるべきかの区別は行っているが、それ以外に、19世紀にはそれが経済的一体性によるべきだという議論が登場しており、その議論が例えばシベリア地域主義者の自治の主張の根拠とされたのだった。また、当時の研究水準でやむを得ない点であろうが、中央アジアやカフカースについての記述は薄い。他方、バルト・ドイツ人の回想録などにより、ラトヴィア人の運動についてはとりわけ詳しく論じられている。

 筆者の専門であるウクライナについては、ペレヤスラフ条約をロシア国制史上の画期とする記述と、1917年キエフでの諸民族大会の連邦制決議を民族の法的主体としての承認としてやはり国制史上の画期とする箇所に頷いた。オーストリア=マルクス主義の影響がブンドとラトヴィア・ナショナリストに対して以外具体的に論じられていないのは物足りなかった。

2016/06/12

ドイツの町と紋章54 ベルリン


Wappen des Landes Berlin

ベルリンはドイツ連邦共和国の首都で、人口は350万人。ベルリンだけで単独の州を形成している。

紋章には有名な「ベルリンの熊」が描かれている。なぜベルリンの紋章にこの熊が現れたのか、その起源ははっきりしない。第一の説は、ブランデンブルク辺境伯領を築いたアルブレヒト1世、の添え名が「熊」であることに由来する、というものだ。他に、ベルリンの音と近い熊(ベール)が取り入れられたという説がある。熊は1280年の印章に初めて現れ、しばらくブランデンブルクやプロイセンの鷲とともに描かれてきたが、20世紀になり、熊が単独で用いられるようになった。

なお、ハンブルクと同様、公式の紋章とは別に、市民が自由に使える紋章も存在している。

2016/05/31

読んだもの(5/2016)


引き続き連邦制。阿部、早坂の論文はどちらもウクライナ連邦主義の研究には有用だろう。
論文の手直しに向け再び一次大戦関連も読んだ。何よりロシア語のモノグラフ(バフトゥーリナ)を初めて通読したのが今月の成果。2014年にキエフで出た論文集は正直そんなに高いレベルではないが、レエントとヤニシンの研究史はウクライナでの研究動向を知るには重要か。


Langewiesche, Dieter, Die Monarchie im Jahrhundert Europas: Selbstbehauptung durch Wandel im 19. Jahrhundert, Heidelberg, 2013.

Бахтурина А. Ю., Политика Российской Империи в Восточной Галиции в годы Первой мировой войны, М., 2000.

Colley, Linda, Acts of Union and Disunion, London, 2014.

Himka, John-Paul, "The National and the Social in the Ukrainian Revolution of 1917-1920," in Archiv für Sozialgeschichte 34, 1994, S.95-110.

Biondich, Mark, "Eastern Borderlands and Prospective Shatter Zones: Identity and Conflict in East Central and Southeastern Europe on the Eve of the First World War," in Böhler, Jochen/ Borodziej, Wlodzimierz/ Puttkamer, Joachim von (eds.), Legacies of Violence: Eastern Europe's First World War, 2014, pp.25-50.

Heathorn, Stephen, "Let us remember that we, too, are English': Construction of Citizenship and National Identity in English Elementary School Reading Book," in Victorian Studies 38, 1995, pp.395-427.

Брейар, С.,  "Украина, Россия и кадеты," in In memoriam: Исторический сборник памяти Ф.Ф.Перченка, М./СПб., 1995, с.350-361.

Реєнт О. П./ Янишин Б. М., "Велика війна 1914-1918 рр. у сучасній українській історіографії," in Украінський історичний журнал, 2014, №3, с.4-21.

Реєнт О. П./ Янишин Б. М., "Перша світова війна в українській історіографії ," in Реєнт, О. (Упоряд.), Велика війна 1914-1918 рр. і Україна, К., 2014,

Солдатенко, В. Ф., "«Українська тема» в політиці держав австро-німецького блоку й Антанти," in Реєнт, О. (Упоряд.), Велика війна 1914-1918 рр. і Україна, К., 2014, с.80-109.

Реєнт О. П., "Перша світова війна й політичні сили українства," in  Реєнт, О. (Упоряд.), Велика війна 1914-1918 рр. і Україна, К., 2014, c. 302-309.

佐藤勝則編『比較連邦制史研究』多賀出版、2010年。

柴宜弘、中井和夫、林忠行『連邦解体の比較研究: ソ連・ユーゴ・チェコ』多賀出版、1998年。

池田嘉郎編『第一次世界大戦と帝国の遺産』山川出版社、2014年。

ブルンナー、オットー(石井紫郎他訳)『ヨーロッパ―その歴史と精神』岩波書店、1974年。

上条勇『文化的民族自治の理論―マルクス主義と多民族共生への模索―』金沢大学人間社会研究域経済学経営学系、2015年。

阿部三樹夫「コストマーロフのウクライナ主義と連邦主義」『ロシア史研究』41、1985年、81-104頁。

早坂真理「ロシア・ジャコバン派とミハイロ・ドラホマノフの論争 ―国際主義と民族主義の狭間―」『茨城大学教養部紀要』26、1994、53-77頁。

2016/05/01

読んだもの(4/2016)


連邦制、とくにドイツとナロードニキ。それに付随して、マルクス主義における民族問題と共同体論。あとはひたすら『スラヴ研究』。
Корольовのものは初めて読んだウクライナ語論文だが、かなり雑だった。Langewiesche, von Mohrenschildtはどちらも良書。


Langewiesche, Dieter, Reich, Nation, Föderation: Deutschland und Europa, München, 2008.

Von Mohrenschildt, Dimitri, Toward a United States of Russia: Plans and Projects of Federal Reconstruction of Russia in the Nineteenth Century, East Brunswick/London/Toronto, 1981.

Freeze, Gregory L., "The Soslovie (Estate) Paradigm and Russian Social History," in The American Historical Review 91(1), 1986, pp.11-36.

Dixon, Simon, "Russia's Soslovie (Estate) Paradigm Revisited," in The Slavonic and East European Review 93(4), 2015, pp.732-740.

Stakhiv, Matviy, "Drahomanov's Impact on Ukrainian Politics," in The Annals of the Ukrainian Academy of Arts and Sciences in the U.S., Vol. II, Spring, 1952, No. 1 (3), pp.47-62.

Хрипаченко, Т. И., "«Автономия» и «Федерация» в дебатах либералов и украинских националистов по «Украинскому вопросу»," in Вестник Омского университета, 2011, № 1, c.123-131.

Кудряшев, Вячеслав Николаевич, "М. П. Драгоманов и русские социалисты: дискуссия о федерализме," in Вестник Томского государственного университета 336, 2010, с.82-85.

Корольов, Геннадій, "Ідея федералізму як парадигма історичної перспективи доби Української революції 1917–1921 рр.," in Український історичний журнал 494, 2010, с.103-117.

和田春樹『マルクス・エンゲルスと革命ロシア』勁草書房、1975年。

和田春樹『農民革命の世界 : エセーニンとマフノ』東京大学出版会、1978年。

肥前栄一『ドイツとロシア : 比較社会経済史の一領域』未来社、1986年。

アンダーソン, ジョージ『連邦制入門』関西学院大学出版会、2010年。

イム・ホーフ, U.(森田安一監訳)『スイスの歴史』刀水書房、1997年。

コリー, リンダ(川北稔監訳)『イギリス国民の誕生』名古屋大学出版会、2000年。

外川継男「ゲルツェンにおける「スラヴ連邦」の思想をめぐって」『東欧研究会会報』2、1966年、16-22頁。

青木節也「「民族革命」の運命―ウクライナにおける民族統一戦線の成立と解体 1917-1920―」菊地昌典編『ロシア革命論 歴史の復権』田畑書店、1977年、260-301頁。

矢田俊隆「プラハに開かれた最初のスラヴ民族会議がヨーロッパ諸民族にあてた声明 (訳及び解説)」『スラヴ研究』3、1959年、93-100頁。

萩原直「ニコライ・バルチェスクにおける「ネーション」と「農奴解放」の問題」『スラヴ研究』6、1962年、43-64頁。

鳥山成人「ポーランド=リトワ連合小史(ミェルニクの連合まで)」『スラヴ研究』10、1966年、1-26頁。

外川継男「檄文の時代 : 人民主義の発生をめぐる若干の資料と解説」『スラヴ研究』16、1972年、161-207頁。

伊東孝之「東欧の民族問題とマルクス主義の民族自決権概念 : ローザ・ルクセンブルク」『スラヴ研究』18、1973年、53-96頁。

鳥山成人「エカテリナ2世の地方改革―その動機と背景に関する問題と諸見解―」『スラヴ研究』20、1975年、25-48頁。

早坂真理「ヴァレリアン・カリンカの保守主義思想 : 農民解放とホテル・ランベール(1852-1861)」『スラヴ研究』22、1978年、191-216頁。

原暉之「シベリア・極東ロシアにおける十月革命」『スラヴ研究』24、1979年、75-126頁。

西山克典「ロシア革命と農民―共同体における"スチヒーヤ"の問題によせて」『スラヴ研究』29、1982年、11-40頁。

林忠行「パリ平和会議の期間におけるチェコスロヴァキアと「ロシア問題」」『スラヴ研究』30、1982年、71-94頁。

稲掛久雄「「人民の権利」党をめぐって―その形成から「崩壊」までー」『スラヴ研究』32、1985年、106-126頁。

遠藤泰弘「ヴァイマル憲法制定の審議過程におけるフーゴー・プロイス ―直接公選大統領制をめぐって―」権左武志編『ドイツ連邦主義の崩壊と再建 ― ヴァイマル共和国から戦後ドイツへ ―』岩波書店、2015年、2-25頁。

飯田芳弘「ヴァイマル共和国における民主的単一国家論」権左武志編『ドイツ連邦主義の崩壊と再建 ― ヴァイマル共和国から戦後ドイツへ ―』岩波書店、2015年、26-63頁。

シェーンベルガー, クリストフ(遠藤泰弘訳)「ドイツ連邦国家の発展 ―1870年から1933年まで―」権左武志編『ドイツ連邦主義の崩壊と再建 ― ヴァイマル共和国から戦後ドイツへ ―』岩波書店、2015年、231-248頁。

藤波伸嘉「ババンザーデ・イスマイル・ハックのオスマン国制論―主権、国法学、カリフ制―」『史学雑誌』124(8)、2015年、1-38頁。

西村木綿「民族の「自決」とは何か:ユダヤ人「ブンド」の問いをめぐって」『社会思想史研究』39、2015年、131-149頁。

2016/02/03

ドイツの町と紋章53 グライナウ


Wappen der Gemeinde Grainau

グライナウはガルミッシュの隣の小さな町で、人口は3400人。ツークシュピッツェに向かう鉄道はこの町を通り、2600mまで登ってゆく。
僕もツークシュピッツェに滑りにいくときに立ち寄った。ツークシュピッツェがどの自治体に属しているのかはよくわからない(何せ展望台にオーストリアとの国境があるくらいだし)。

紋章は、左に赤い口の熊の頭部が、右にアヤメの意匠が描かれている。熊の頭は、かつて「熊のふるさと」と呼ばれたバイエルン・アルペンの森で仕留められた最後の熊を想起させるものである。最後の狩猟は19世紀前半にフライジンク司教領の猟師長によりなされ、熊の頭はガルミッシュ林務官邸の記念像となった。アヤメの紋章はフォン・ハンマースバッハ家に由来する。

ドイツの町と紋章52 ガルミッシュ=パルテンキルヒェン


Wappen des Marktes Garmisch-Partenkirchen

ガルミッシュ=パルテンキルヒェンはバイエルン南部のマルクトで、人口は26000人。1935年、翌年の冬季オリンピック開催のため、ナチの要請でガルミッシュとパルテンキルヒェンが合併して誕生した。
スキーリゾートとなっており、僕もガルミッシュに滑りに行った。市内に宿泊するとバスや近郊電車に無料で乗れたりする。

紋章は左に鷲が、右に赤と白の帯が描かれている。これは合併前の両自治体とは関係がなく、当地を領有したエッシェンローエ伯の紋章である。紋章の制定はガルミッシュ=パルテンキルヒェンを中心とするヴェルデンフェルス伯領がエッシェンローエ伯により統治されていたという誤った認識に基づいてなされた。実際には、ヴェルデンフェルス伯領の創設はもっと最近の出来事であり、エッシェンローエ伯とは関係がない。これにより、ガルミッシュ=パルテンキルヒェンの紋章は近隣の自治体エッシェンローエとほとんど同じものになったが、以上の経緯はおそらく冬季オリンピック開催に合わせて急いで紋章が用意されたことに起因している。

下図はエッシェンローエの紋章。

Wappen der Gemeinde Eschenlohe

2016/02/01

ドイツの町と紋章51 ムルナウ・アム・シュタッフェルゼー


Wappen des Marktes Murnau am Staffelsee

ムルナウはミュンヘンの南70kmに位置するマルクトで、人口は12000人。町からはバイエルン・アルプスを望むことができる。
ガルミッシュにスキーに行く途中に寄った。雪が深く、寒々としていたことを覚えている。

紋章には舌と爪が赤い、左後ろを向いた緑のリンドヴルム(龍)が描かれている。いつ龍が紋章に現れたのかは知られていないが、町の最古の印章(1374年)に既に登場している。龍の由来も不明だが、16世紀以来色も変わらず同じ意匠が用いられ続けている。


龍のいる市役所。

P2090008

2016/01/29

ドイツの町と紋章50 トラウンシュタイン


Wappen der Stadt Traunstein

トラウンシュタインはバイエルン州の都市で、人口は19000人。
ミュンヘンとザルツブルクを結ぶ路線上に位置し、ザルツブルク観光の前に立ち寄った。12月25日だったのでクリスマスマーケットは既に閉まり、町は閑散としていた。

紋章は三つの丘と二つのアヤメから成っている。これは数百年前から同じだが、中世には三つの門の上に二つの矛槍が描かれた異なる紋章が用いられていた。これは、かつて町が要塞として機能していたことを示している。

2016/01/27

ドイツの町と紋章49 バート・テルツ


Wappen der Stadt Bad Tölz

バート・テルツはミュンヘンの南50kmに位置する保養地で、人口は1万8千人。ミュンヘンとは私鉄BOBで結ばれている。
ここのクリスマスマーケットは坂道の歩行街に沿って店が並ぶ珍しい形だった。

紋章には、赤い舌を出した黄色のライオンが描かれている。半身のライオンはヴィッテルスバッハ家との関係を示しており、1500年以来全ての紋章に登場している。最初にそれが見られたのは1374年の印章で、おそらく1331年に皇帝となったルートヴィヒによって町に授けられた特権に伴うものだった。

[読書メモ]F. ハルトゥング(成瀬治・坂井栄八郎訳)『ドイツ国制史――15世紀から現代まで』岩波書店、1980年。


F. ハルトゥング(成瀬治・坂井栄八郎訳)『ドイツ国制史――15世紀から現代まで』岩波書店、1980年。

 ドイツ国制史の古典で、ひとえに勉強のため。領邦君主と領邦等族の二元主義などの近世ドイツ史の重要問題を学び、近代史に関しても、ヴェストファーレン講和以後もフランスに接した西南諸領邦を中心に、神聖ローマ帝国の改革が模索されていたこと、ドイツ連邦の機能不全はその弱さではなく、むしろ実力に見合わぬ中央権力の強さにあったこと(すなわち、強大な中央権力は個々の領邦の反発を受けたし、さらに連邦はプロイセンとオーストリアという二大国によって自国のために利用された)などが分かり面白かった。

 ハルトゥングは諸領邦の分立主義と帝国のあいだの緊張を重視するが、それはナポレオンによって帝国が分解されれば問題が解決されるような単純なものではなかった。ヴェストファーレン講和以後、主権を獲得した小領邦は、自らが帝国なしには存在も危ぶまれるほどに弱小であることに気づき、家産領の増進に専念していたハプスブルク家の皇帝に対抗し、再び帝国権力を強めることを試みた。結局それは失敗に終わるが、ウィーン会議以後即座にドイツの統一的権力樹立の試み(ドイツ連邦)が開始されたのであり、それは1871年のドイツ帝国の誕生まで連続していた。そう考えると、ドイツ統一は1848年革命に象徴されるような「統一と自由」を求める自由主義的ナショナリズムの成果というよりは、ヴェストファーレン講和以来常に求められていた弱小な諸領邦の保護役としての帝国が、諸邦分立主義に対抗し得るプロイセンの強大な国内的・国際的実力と、ナショナリズムの高まりを巧妙に回収したビスマルクによって実現された、ということなのかもしれない。要するに、ドイツとイタリアの統一をロマン主義的な観点のみで同一視することはできない、ということだ。

 ドイツ帝国の国制は、「君主制の個別諸邦を破壊することなしにそれらを統一体にまとめあげるという、ドイツの歴史的発展によって与えられていた特別な課題を巧みに解決」(382頁)したのであり、「これは他の連邦国家、たとえばアメリカ合衆国やスイスとのいかなる比較も不可能にするものである」(384頁)、という。僕にとっての問題は、ドイツ帝国的連邦制がのちに現れる連邦国家のモデルとなることはあったのかという点だが、上述の特殊性はそのまま神聖ローマ帝国という「怪物」の特殊性に由来するのだから、なかなか見つからないだろう。

ドイツの町と紋章48 ゲルメリンク


Wappen der Stadt Germering

ゲルメリンクはミュンヘン近郊の都市で、人口は38000人。Sバーンで結ばれたミュンヘンのベッドタウンとなっている。
ここのクリスマスマーケットで初めて聖ニコラウスを目撃した。

紋章の左右の部分はそれぞれ合併前の二都市、ゲルメリンクとウンテルプファッフェンホーフェンの紋章からとられている。すなわち、ゲルメリンクの部分には聖マルティン教会が、ウンテルプファッフェンホーフェンの部分には赤いライオンが描かれている。これは、この地に大所領を有していたクリンゲンスペルク家の紋章から取られた。下部の三つ山(Dreiberg)は、町にあった城塞パルスベルクを表している。

2016/01/26

ドイツの町と紋章47 ドレスデン


Wappen der Stadt Dresden

ドレスデンはザクセン州の州都で、人口は50万人を超える。かつてはザクセン選帝侯国、ザクセン王国の首都として栄え、旧市街には壮麗な建築物が立ち並んでいる。その多くは第二次世界大戦中の空襲の被害を受けたが、やがて再建された。
ドレスデンの「シュトリーツェルマルクト」は1434年に始まったドイツで最も古い、また今もなお最もよく知られたクリスマスマーケットである。

紋章の左部分にはマイセンのライオン、右部分には黒いランツベルクの帯が描かれている。ライプツィヒの紋章との相違は、ただ縦帯のティンクチャー(色)にのみ存する。


ドイツの町と紋章46 ライプツィヒ


Wappen der Stadt Leipzig

ライプツィヒはザクセンの大都市で、州都のドレスデンを超える州内最大の人口を有している。バッハやメンデルスゾーンの活躍した音楽都市として知られ、1989年のデモでライプツィヒはドイツ統一運動の震源地となった。
クリスマスマーケットの時期に滞在。ライプツィヒ中央駅は町の規模に比して明らかに大きい。

紋章の左部分には赤い舌と爪を持った「マイセンのライオン」が、右部分には「ランツベルクの縦帯」が描かれている。ライオンはマイセン辺境伯としての、縦帯はランツベルク辺境伯としてのヴェッティン家の意匠であり、ライプツィヒがザクセン選帝侯国の一部であったことを示している。今日の紋章は1468年の印章まで遡ることができる。
同じくヴェッティン家の所領に属した周辺都市も、似たような紋章を有している。下左図はケムニッツの、下右図はデーリッチュの紋章で、二つの意匠の配置が異なるだけである。

Wappen der Stadt Chemnitz Wappen der Stadt Delitzsch

市庁舎の中央におそらく古い紋章。


PC130016

2016/01/25

[読書メモ] マーク・マゾワー(中田瑞穂・網谷龍介訳)『暗黒の大陸:ヨーロッパの20世紀』未来社、2015年


マーク・マゾワー(中田瑞穂・網谷龍介訳)『暗黒の大陸:ヨーロッパの20世紀』未来社、2015年。

 ヨーロッパの20世紀は、二つの戦争を経て、自由と協調、民主主義の勝利に至る華々しい道筋として描かれがちである。そこでは民主主義こそが常に真のヨーロッパ的な規範であり、ファシズムや共産主義は忌むべき逸脱であった。1989年に東欧の共産主義政権が相次いで倒れた時、自由なヨーロッパの勝利は決定づけられたのだ。しかし、マゾワーによる20世紀ヨーロッパ史は、それとはまったく異なる視座を提示する。彼によれば、「冷戦で民主主義が勝利したことで、民主主義はヨーロッパの土壌に深く根づいていると考えたいかもしれないが、歴史はそうではないことを物語っている」(23頁)。なぜなら、「暗部」と見なされてきたファシズムや共産主義も、既存のヨーロッパ的価値観のなかから生まれてきたものか、あるいはある時代にヨーロッパ全体で共有されていた思想を極端に推し進めたものに過ぎないからだ。また、周辺と見なされがちな東欧や南欧の歴史的経験に目を向ければ、事態はよりはっきりする。「ヨーロッパを自由の源と同一視する知識人の伝統は何世紀も前にさかのぼる。しかし、自由民主主義が戦間期に失敗した事実を直視し、共産主義とファシズムもまたヨーロッパ大陸の政治的遺産の一部であると認めるのならば、この世紀にヨーロッパをかたちづくってきたものは、思想や感情の緩やかな収斂ではなく、敵対的な新秩序と新秩序の間の相次ぐ暴力的な衝突だったことは否定しがたい」(493-494頁)。本書は、既存のヨーロッパ観との対比を強調するならば、20世紀ヨーロッパにおける反民主主義、反自由主義の歴史であると言えるかもしれない。

 このようなシニカルな歴史観を可能としたのは、おそらく著者マゾワーがギリシャ出身であることと無関係ではない。19世紀前半に独立を果たしたギリシャだったが、第一次世界大戦直後にトルコとの間で悪名高き住民交換を経験し、戦後初期に東西で揺れたのち、権威主義体制を経験した。議会主義が確立されヨーロッパ共同体への加入が許されたのちも、同様の経緯をたどったスペイン、ポルトガルとともに社会経済問題に苦悩している。ギリシャからの視座は、西ヨーロッパの理想主義的なヨーロッパ観を相対化するとともに、東欧の「後進性」をより冷静に評価することを可能にする。例えば、戦間期のヨーロッパ全体における議会主義への疑念と権威主義の台頭についての考察は、ピウスツキやホルティへの視線によって、より深いものとなっている。
 本書エピローグのEU主義者への冷笑と国民国家間の協調の評価はきわめてプラグマティックであり、1989年のイデオロギーと政治への幻滅を経て、実態のますます不可解な「ヨーロッパ」への参入を急ぐ旧共産圏の国々への警鐘ともなるだろう。

ドイツの町と紋章45 ニュルンベルク


Wappen der Stadt Nürnberg Großes Stadtwappen

ニュルンベルクは人口50万人を超えるバイエルン第二の都市。人口350万人のニュルンベルク都市圏の中核を形成している。
ドレスデンと並ぶ大規模なクリスマスマーケットが開催されることでも知られ、僕が行ったときには日本人もたくさん来ていた。

左が小紋章で、左半分に爪と赤い舌のついた鷲が、右半分には赤と白の斜めの帯が描かれている。斜めの帯は1260年には確認され、神聖ローマ帝国の鷲は1350年に加えられた。もっとも右部分の帯の数や色は、何度か変化している。1936年から現在の紋章が用いられている。
右は大紋章で、金色の「処女鷲」(Jungfrauensadler、ギリシャ神話の生物ハルピュイア)が、葉でできた王冠をかぶっている。これが描かれた印章は1220年から用いられ、帝国自由都市であることを表している。現在の形は1936年、小紋章と同時に定められた。

2016/01/24

ドイツの町と紋章44 インゴルシュタット


Wappen der Stadt Ingolstadt


インゴルシュタットはオーバーバイエルンでミュンヘンに次ぐ第二の都市で、バイエルン全体でも五番目の人口を有している。アウディの本拠地として有名。

紋章は、白地につめのついた青いヒョウが描かれたものである。かつて町の印章には守護聖人の聖マウリティウスが描かれていたが、やがて紋章学でヒョウと呼ばれる寓話上の生物が登場し、それが単独の意匠となった。ヒョウの紋章の起源には諸説あり、シュパンハイム家のものに由来するというものが有力で、ヴィッテルスバッハ家の神聖ローマ皇帝ルートヴィヒ4世により授けられたという伝説もある。1340年以来、現在と同じ紋章が用いられている。