2015/04/25

ドイツの町と紋章4 ドゥーレン


ケルンからアーヘンに行く途中で一時間ほど寄ったのがドゥーレン。記録はここ。
人口は9万人弱とバイエルン基準ではかなりの大都市だが、特に見どころはなかった。さすがノルドライン=ヴェストファーレン。

紋章は以下の通り。

Wappen der Stadt Düren

上部には赤い爪の鷲が描かれ、帝国自由都市としての起源を示している。下部では赤い舌のライオンが歩いているが、これは市がかつてユーリヒ公によって支配されていたことに由来する。
ちなみに、ユーリヒ公の紋章は以下の通りである。

Wappen

写真は、ドゥーレン駅にあった鉄道開通記念のファサード。ドゥーレン郡に鉄道が敷かれたことを記念するもので、ドゥーレン市をはじめとした同郡の町の紋章が描かれている。
多くの町の紋章にユーリヒ公由来と思われるライオンが見て取れる。


P8100009

2015/04/23

ドイツの町と紋章3 トロイスドルフ


レヴァークーゼンに行った日の午後訪問したのがトロイスドルフ。当時の記録はここ。
ほとんど何もしていないのだが、後から調べると世界でも珍しい絵本博物館なるものがあったらしい。知ってても行かなかっただろうけど。

紋章は以下のようで、素人目にはかなり珍しく映る。
この紋章は20世紀後半の自治体改革ののちに定められたもので、TがTroisdorfの頭文字を、四つの円は合併前の自治体を表している。分子を思わせるT字の形状は、市の化学工業に由来する。

Wappen der Stadt Troisdorf

写真はトロイスドルフ駅。郊外だなあ。

P8020034

ドイツの町と紋章2 レヴァークーゼン


レヴァークーゼンにはケルンに来て三日目くらい、おそらくまだホテル暮らしをしていた頃に訪れた。ブログをしっかり更新していた時期なので、ここにまとめてある。

紋章は以下の通り。ライオンの表情はともかく、真ん中の黒い帯が印象的。

Wappen der Stadt Leverkusen

Wikipediaを要約。

  • レヴァークーゼン市の紋章には、銀色の背景に青の王冠、舌、爪を持つ尾が二つの赤いベルギッシュ・ライオンが描かれており、黒い鋸状の横帯に覆われている。1976年にケルンにて授与された。
  • ライオンはかつてこの地にあったベルク公国の紋章獣で、合併前の各市の紋章から受け継がれたものである。鋸状の横帯は1883年のオプラーデン市の紋章からとられたもので、元は13世紀のGerhardとGisoの兄弟に由来する。
  • 以前は1923年にプロイセンからヴィースドルフ市に授与され、1930年にレヴァークーゼン市によって引き継がれた別の紋章が用いられていた(左図)。そこにはライオンとともに小舟が描かれており、長い伝統のあるライン川の水運を表している。
  • 1970年代から紋章の代わりにロゴマークが用いられることも多くなった。これは、緑色の正方形に白い縦帯が走っているものである(右図)。


DEU Wiesdorf COA.svg 

写真は街の誇り、バイヤー・レヴァークーゼンの公式ショップ。

P8020023

2015/04/22

ドイツの町と紋章1 ケルン


留学も終盤ということで、訪問した都市をゆっくり振り返りたいと思う。書くことがないこともあるだろうし、ついでにその町の紋章についても調べる。

最初はもちろんケルンで、語学学校に通っていた二か月を過ごした町。今思えばほとんど中心部と部屋を借りていたローデンキルヒェン付近にしかおらず、少し勿体なかった。大聖堂、Domに通い詰めた一方、他の史跡はほとんど無視していた。ケルシュの細いグラスとNeumarktそばのPommesの店が懐かしい。いつも賑やかで、醜くも愛すべき町だった。

紋章は以下の通り。左が大紋章で、右が市旗に紋章を重ねたもの。

Wappen der Stadt Köln  

以下Wikipediaを要約すると、

  • 剣と笏を手にした双頭の鷲が描かれており、これは1475年以来帝国自由都市として神聖ローマ帝国に属していたことに由来する。
  • ケルンはリューベックとともにハンザ同盟の共同設立都市でもあり、盾は赤と白のハンザ・カラーである。
  • 三つの王冠は12世紀以来ケルン市の紋章であり、東方の三博士に由来する。1164年にケルンの大司教がミラノから運んできた三博士の聖遺物が大聖堂の祭壇に保存されているという。
  • 11の黒い「炎」は16世紀にケルン市の紋章に現れ、聖ウルシュラ信仰に由来する。ウルシュラは聖地巡礼の旅の帰路、フン族によってケルンで殺害されたブルターニュの王妃をモデルとした伝説の人物である。11人、あるいは11000人の伝説の若い女性たちが、雫の形で紋章に表されている。
  • ケルン市の旗は赤と白で、紋章を重ねて掲げられることが多い。

盾の部分はしょっちゅう見たけど、大紋章がこんなんだとは知らなかったな。

写真はケルンの紋章を模したロゴマークのケルシュ、früh。

P8080024

2015/4/22


・読んだもの

①Remer, Claus. Die Ukraine im Blickfeld deutscher Interessen: Ende des 19.Jahrhunderts bis 1917/18. Frankfurt a.M., 1997
②Hausmann, Guido. „Das Territorium der Ukraine: Stepan Rudnyc’kyjs Beitrag zur Geschichte räumlich-territorialen Denkens über die Ukraine,“ in Andreas Kappeler (Hg.), Die Ukraine: Prozesse der Nationsbildung. Köln/Weimar/Wien, 2011

①は三週間ほどかけてようやく読み終えたモノグラフ。基本的にフィッシャー派のドイツ東方政策研究のケーススタディだが、同時代のパンフレットをかなり多く使っており、ひとまずリスト化した。これらを別の形で読み替えられれば面白そう。
②はガリツィア生まれの地理学者、Stepan Rudnyc'kyjについての論文。彼は地理学者の立場からウクライナの一体性やロシア、ポーランドとウクライナとの差異を主張しており、一次大戦時では同盟国が支援するウクライナ解放同盟から著書を出版している。戦後はプラハを経て20年代にソ連のハルキフに向かうが、ロシアやソヴィエトの地理学界とは対立し、スターリン時代に粛清された。地理学とナショナリズムの関係を読み取っても面白いし、ガリツィアの知識人ナショナリストの一例とも見れる。

2015/04/13

2015/4/13


・読んだもの

Borowsky, Peter. „Paul Rohrbach und die Ukraine. Ein Beitrag zum Kontinuität Problem,“ in  Imanuel Geiss und Bernd Jürgen Wendt (Hg.), Deutschland in der Weltpolitik des 19. und 20. Jahrhunderts. Düsseldorf, 1974

ドイツ言論界の重要人物であったパウル・ローバッハのウクライナ論についての論文。19世紀末から戦後の冷戦期に渡る長い文筆生活において、ローバッハは一貫して東ヨーロッパにおけるウクライナ問題の重要性とウクライナ国民国家がドイツにもたらしうる潜在的利益を主張し続けた。保守派のドイツ・ナショナリストであったローバッハだが、第一次世界大戦では現地のナショナリズムを無視しひたすらドイツの影響圏への編入をかかげる全ドイツ派や、地主や君主主義者と近しいスコロパツキイをウクライナ国の首領にすえたOHLとは対立した。ワイマール下でもウクライナ問題を主題とした雑誌を刊行し、ナチ政権下でも文筆活動を許された。ローバッハ自身は倫理的な理由で初期よりナチ党に批判的であったが、東方政策についての主張は重なる部分も多かった。戦後は第二次世界大戦でのナチス軍のウクライナでの蛮行を批判し、引き続きソ連切り崩しのためのウクライナ・ナショナリズムの重要性を強調した。

ローバッハの周辺の人物としてアクセル・シュミット、ヨハネス・ハラー、オットー・ヘッチュ(主張は逆だが)などがいるが、このへんの一次大戦でロシア問題や東方政策について語っていた人々をいずれ整理しなければならない。ハラーとヘッチュについては日本語の論文がある。

前川陽祐「第一次世界大戦期ドイツにおけるオットー・ヘッチュとヨハネス・ハラーによるロシアをめぐる論争 : 政治議論としての歴史論争」『早稲田大学大学院文学研究科紀要』54-4、2009
前川陽祐「ヴィルヘルム期ドイツにおけるオットー・ヘッチュの東方政策論の形成過程1900-1914 ―ロシア論・ポーランド論を中心に―」『立正西洋史』26、2009

2015/04/02

2015/4/2


・旅行メモ

3.18
ベルリン最終日であり、事前にチェックしていた場所を点で巡る。北駅そばのベルリンの壁記録センター、南部のテロルのトポグラフィーには多くの研修旅行中の学生がみられた。テロルのトポグラフィーはナチスによる様々な集団に対するテロル(日本語ではテロと区別されて訳されると思うが、独語では同じTerrorなのでそのあたりの解説もされていた)についての博物館で、日常的な抑圧にも目配りがされており強制収容所にあるような展示より広がりがあった。
最後にもう一度クーダムを散策し、バスターミナルへ。このバスでチューリンゲンの州都エアフルトへと向かう。
深夜に到着したホテルでの事件は思い出したくないのでもう書かない。

3.19
旅行最終日。近距離でならんだチューリンゲンの三つの町、エアフルト、ワイマール、イェナを西から順にめぐる。
州都であるエアフルトは最も華やかな町で、広場や市庁舎、大聖堂がそれぞれ立派。晴天のおかげで中心部の歩行街もにぎわっていた。大聖堂広場の屋台でチューリンゲンソーセージを試した。
ワイマールは古典主義の都として世界遺産に登録されているらしいが、町自体は静か。ゲーテの家、シラーの家、バウハウス博物館などの名所は素通りしたが、唯一少しはずれにある墓地だけゆっくり見学した。墓地の中になぜかロシア正教会があり、小さいながら派手な内装も見学できた。
イェナではミュンヘン行ICEの待ち時間があったため最も長く滞在したが、三都市では最も退屈だった。東ドイツ時代に建てられた高層ビルイェナタワーが周囲の街並から浮きまくっており、どこから撮ってもカオスな写真になった。
バス移動が多かったこの旅だが、最後は特急列車ICEに乗り静かにビールを飲むという快適な時間を過ごす。途中列車がニュルンベルクで1時間くらい動かなくなり、ミュンヘンに着いたころには2時で地下鉄の終電を逃し終夜バスで帰るというトラブルもあったが、無事3週間の旅を終えて自室に帰り着いた。


・マイダン広場
革命の象徴となったマイダンとそこに集う人々についての短い動画。革命の展示や花束など前の旅行で見たものも映っている。着ぐるみ野郎共も。