2015/06/20
[論文メモ] Himka, John-Paul. “Hope in the Tsar: Displaced Naïve Monarchism among the Ukrainian Peasants of the Habsburg Empire,” in Russian History 7-1, 1980
Himka, John-Paul. “Hope in the Tsar: Displaced Naïve Monarchism among the Ukrainian Peasants of the Habsburg Empire,” in Russian History 7-1, 1980
ガリツィアのルテニア人農民における「救世主ツァーリ像」についての研究。19世紀の帝国では普通であった農民の「ナイーヴな君主崇拝」が、ハプスブルク帝国のルテニア農民においては時に対象を変え、ロシア帝国のツァーリ崇拝の形をとった。このような「転移した君主崇拝」は、ルテニア農民の本来の「善良なる」ハプスブルク皇帝への忠誠と、ポーランド人地主の苛烈な地主支配を皇帝が放置しているという現状との葛藤から生じたものである。このような理想の皇帝像と現実との矛盾は必ずしもツァーリ崇拝には結びつかず、「皇帝は気付いておらず、ガリツィアの役人が皇帝の目を盗んで悪行を働いている」とする見解や、ハプスブルク家の別の親族、とりわけルドルフ皇太子に未来の救世主を見出す立場へと至ることもあった。著者は理想と現実の葛藤を克服する第三の可能性であるツァーリ崇拝が、ポーランド蜂起に対するロシア帝国の苛烈な処置、1882年の対ルソフィル裁判、ハプスブルク帝国の国際的地位の低下などの時代背景に伴って流行したことを明らかにした。しかし、90年代に農民が共通の利害を持つ集団として政治化されると、19世紀的な「ナイーヴな君主崇拝」じたいが後景に退き、農民政党を自任したラディカル党の成長とともにツァーリ崇拝は減退していった。
著者によれば、農民のツァーリ崇拝は決してルテニア人の大ロシア人とのナショナルな同一性を内包するようなものではなかった。最大の原因は苛烈な地主支配という社会的なものであり、ルテニア人と同様に苦しんでいたポーランド人農民も、ときにツァーリへの希望を抱いていた。しかし、ツァーリによる救いへの願いが表現される際、キエフ・ルーシまで遡る共通の歴史や、言語や宗教の親近性が補強として援用された。
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