2014/10/27
2014/10/27
・読んだもの
Pelenski, Jaroslav. “Hetoman Pavlo Skoropadsky and Germany (1917-18) as Reflected in His Memories,” in Hans-Joachim Torke and John-Paul Himka (ed.), German-Ukrainian Relations in Historical Perspective. Edmonton/Tronto, 1994
これは少しスコロパツキイに寄り過ぎか。彼をリアリストとして描きたいようだが、あくまでも帝政期のリアリストであり、ウィルソンとレーニンの時代のリアリストではないだろう。
2014/10/26
2014/10/26
・読んだもの
Himka, John-Paul. “Sheptyts’kyi and the Ukrainian
National Movement before 1914,” in Paul Robert Magocsi (ed.), Morality and Reality : the Life and Times of
Andrei Sheptyts’kyi. Edmonton, 1989
シェプティツィーとウクライナ民族運動、そして宗教とナショナリズムの間の緊張関係について。
2014/10/25
2014/10/25
・Holzkirchen
Holzkirchen ist ein Markt im oberbayerischen Landkreis Miesbach. Die Gemeinde liegt ca. 30 km südlich der Landeshauptstadt München und jeweils ca. 20 km nördlich des Tegernsees sowie der Kurstadt Bad Tölz. Holzkirchen ist die bevölkerungsreichste und wirtschaftlich stärkste Kommune des Landkreises.
ホルツキルヒェンはオーバーバイエルン、Miesbach郡のマルクトである。その自治体は州の首都ミュンヘンの約30km南、またTegernsee及び保養都市バッド・テルツの約20km北に位置している。ホルツキルヒェンは郡のなかで最も人口が多く、経済的に強力な自治体である。
今日はSバーンの終点であるHolzkirchenを訪問した。郡で最も人口が多いといっても1万5千人ほどであり、全然大したことはない。しかしアルプスに向かう私鉄BOBとローゼンハイムに向かうこれも私鉄のMeridianが乗り入れており、駅の規模は大きい印象だった。
駅から町の中心Marktplatzまでは徒歩10分ほど。教会と市場、市役所という何の変哲もない広場だが、それなりの美しさは保障されているのがさすがバイエルンというところ。土曜日だったからかある程度の人波も見られた。
帰りは違う道を通り、HEP=Holzkirchen Einkaufparadiseという小さなショッピングセンターを素通りして駅に戻った。次は私鉄Meridianを用いて別の町へ向かうつもりだったのだが、電車は30分後。先週の気温ならば待つのだが、ここ数日オーバーバイエルンの最高気温は10度前後を推移しており、今日もかなりの寒さ。そして時刻表を見れば15分ほどでミュンヘン中央駅行の列車がやってくるという。Holzkirchenを見て次の町にも大した期待を抱いていなかったこともあり、すぐにそれに乗ってミュンヘンに帰ることに決めた。
バイエルンの町には必ずある柱 |
2014/10/22
2014/10/22
・読んだもの
Bihl, Wolfdieter. “Sheptyts’kyi and the Austrian
Government,” in Paul Robert Magocsi (ed.), Morality
and Reality : the Life and Times of Andrei Sheptyts’kyi. Edmonton, 1989
Borowsky, Peter. “Germany’s Ukrainian Policy during World
War I and the Revolution of 1918-19,” in Hans-Joachim Torke and John-Paul Himka
(ed.), German-Ukrainian Relations in
Historical Perspective. Edmonton/Tronto, 1994
アンドレイ・シェプティツキイ(Андрей Шептицький)
2014/10/21
2014/10/21
・ウクライナ語
ミュンヘンでの授業も三週目に入り、ようやく出席する授業が確定した。一コマだった予定のウクライナ語が二コマに増え、それに歴史学科の二コマを加えた四コマである。結果的にウクライナ語が半数を占めることになってしまった。
そのウクライナ語は今日が僕にとっては初回であり、恰幅の良いウクライナ人女性の厳しい授業で会話力もまずまず鍛えられそうだ(それにしても東スラヴ語はこんな教師しかいないのか?)。今日は既にロシア語を学んでいたことが有利にも働くが混乱をももたらすという一般的なイメージを実際に体験した。
2014/10/19
2014/10/19
・アンデクス修道院
Das Kloster Andechs ist heute ein Priorat der Benediktiner in Andechs in Bayern im Bistum Augsburg. Es ist seit 1850 Wirtschaftsgut der Abtei St. Bonifaz in München.毎週末一日は外出に使おうということで、今日はミュンヘン南部のHeerschingという町にまず向かった。Ammerseeという湖に面した綺麗な町だったが、そこで有名な修道院まで歩いて5kmの散歩コースがあると書かれた看板を見つけ、気持ちの良い天気だったので歩いてみることにした。
Das Kloster entstand am Ort der Burg Andechs, dem Stammsitz der Grafen von Andechs, die in direkter Linie 1248 ausstarben. 1455 wurde hier ein Benediktinerkloster durch Herzog Albrecht III. von Bayern-München gegründet, um einen 1388 hier aufgefundenen bedeutenden Reliquienschatz aufzunehmen. Die 1423 bis 1427 erbaute und ab 1751 von Johann Baptist Zimmermann im Rokokostil umgestaltete Klosterkirche Andechs war zunächst als Wallfahrtskirche errichtet worden. Der „Heilige Berg“ Andechs ist nach Altötting der zweitgrößte Wallfahrtsort Bayerns.
Die Klosterschänke ist dank ihrer Küche und ihres Bieres (Andechser) aus der Klosterbrauerei ein Magnet für Touristen und Einheimische.
アンデクス修道院は今日バイエルン州アンデクス、アウグスブルク司教区に属すベネディクト会の修道分院である。1850年以来ミュンヘンの聖ボニファス大修道院の所有物(Wirtschaftsgutって専門用語なのかな・・・)である。
その修道院は1248年に直系の途絶えたアンデクス伯爵の館であったアンデクス城の地に建てられた。1388年にここで発見された聖遺物を収容するため、1455年、ここにベネディクト修道院がバイエルン-ミュンヘンのアルブレヒト三世公によって設立された。1423年から1427年の間に建設され、1751年にバプティストのZimmermannによってロココ様式で改修されたアンデクス修道院付属教会は、まず巡礼教会として築かれていた。「聖山」アンデクスはAltöttingに次ぎ、バイエルンで二番目に大きい巡礼地である。
修道院付属の居酒屋は、その料理と修道院醸造所で作られたビール(Andechser)により、旅行者と地元民にとっての魅力となっている。
Andechsは自治体も違う隣町であり、森の中をハイキング気分で歩いて1時間弱の道程である。修道院が唯一といってよい見どころで、かなり多くの人が集まっていた。せっかくなのでビールも飲みたかったのだが、修道院周辺の店はどこも満席状態で、仕方なく少し離れた駐車場の隅にあるミニゴルフ場の隅にある売店で瓶のAndechserを買った。
日曜日であり交通の便は良くないが、ちょうどよいタイミングでTutzingというSバーン駅に向かうバスが来たのでそれに乗車。TutzingはStarnbergerseeというAmmerseeより有名であろう湖に面した町である。そこも少し散策し、暑かったのでアイスを食べ、ストライキにより本数の減ったDBのローカル線でミュンヘンに戻った。
Ammersee |
Kloster Andechs |
2014/10/18
2014/10/18
・読んでいるもの
Kerstin S. Jobst, Geschichte der Ukraine. Stuttgart, 2010
レクラム文庫のウクライナの通史。だんだんかなりの好著だと分かってきたので一段落ずつメモをとりながらじっくり読んでいる。
①ガリツィアのRussophilenはウクライナのナショナル・ヒストリーからは裏切り者としての烙印を押されているが、その実ウクライナの民族運動の土台をつくったのは彼らだった。19世紀の前半、彼らはルテニア人に「ロシア的な起源」を広めることで、とくに宗教におけるポーランド人との違いを教えた。確かに、ガリツィアのルテニア人農民が理解できる参照軸は日常接する宗教しかないだろうな。そしてルソフィル→アンチ・ローマカトリック→ウクライノフィルと展開してゆく。
②1895/96年のパンフレットで初めてウクライナの独立を唱えた(らしい)バシンスキーという人物について。彼は社会主義者でありマルクス主義の解釈のもとウクライナの独立を唱えた、当然の帰結としてウクライナ国家も世界国家に溶解してゆく運命だった。また、彼はガリツィア・ルテニア人の起源をキエフ・ルーシではなく1848年革命時のガリツィア総督シュタディオン伯が強欲なポーランド人に対抗させるために産み出したものだとした(この皮肉は当時広く流布していたらしい)。彼の教義は影響力をもたなかったが、のちのナショナル・ヒストリーでは独立を最初に唱えた人物という部分だけが取り出され、民族主義の輝かしい先駆者とされた。
・読んだもの
Potul’nyts’kyi, Volodymyr. “Galician Identity in Ukrainian Historical and Political Thought,” in Christopher Hann and Paul Robert Magocsi (ed.), Galicia : A Multicultured Land. Toronto/Baffalo/London, 2005
ちょっと図式的にすぎる気もしたが。とりあえずウクライナ主義におけるガリツィアの位置づけが東ウクライナ出身かガリツィア内部からの視線か、あるいはどんな政治的立場化かによっていかに異なっていたかを示すもの。
2014/10/17
2014/10/17
・ビザ取得
今日はミュンヘン市の役所Kreisverwaltungsreferatにある外国人局Ausländerbehördeでビザの申請を行った。学生ビザ専用の待合室があるのだが、10月だとそのせいでかえってそのエリアだけ人が集中することになっている。開館後30分くらいで行ったのだが2時間半待たされた。
申請から受理までは20日くらいかかるという話だったのに、手数料を払った窓口ですぐに滞在許可のプリントされたパスポートが返却されたのには驚いた。ドイツ大使館のホームページにはそれぞれの書類にコピーが2部必要だと書かれているが原本だけで十分であり、写真も一枚だけでよかった。他の市では勝手が違うから念のため多めに書いているのかもしれないが、とりあえず僕は若干のコピー代を無駄にした。
・最近読んだもの
Magocsi, Paul Robert. “Galicia : A European Land,” in Christopher Hann and Paul Robert Magocsi (ed.), Galicia : A Multicultured Land. Toronto/Baffalo/London, 2005
Hrytsak, Yaloslav. “Historical Memory and Regional identity among Galicians Ukrainians,” in Christopher Hann and Paul Robert Magocsi (ed.), Galicia : A Multicultured Land. Toronto/Baffalo/London, 2005
Volker Berghahn, Der Erste Weltkrieg. Muenchen, 2003
これをやらないとブログ書いてる意味がなかった。光吉淑江がHrytsakについて何を書いていたか読み返さねば。
2014/10/15
2014/10/15
・ドイツ語書籍通読
今日、最近読み進めていたVolker Berghahn, Der Erste Weltkrieg. Muenchen, 2003を読了。ドイツ語の書籍を通読したのは初めてだが、LMUの図書館で借りた本なので、一週間かそこらで読めたことになる。まあ100頁ちょいのポケットブックだが。基本的には年代を追いつつも、「上から」の動きと同じだけの重点が「下から」の動きにも置かれており、女性や労働者などの被支配集団にも目配りが効いている。ただ紙幅の限界かドイツ中心だからなのか分からないが、民族問題への言及が少ないようには感じた。あとドイツ国内の諸侯の動きとかも知りたかった。
あと、今日はしばらく読んでいた日本語書籍の『狂王ルートヴィヒ』も読み終えた。ルートヴィヒ2世の評伝で、まあミュンヘンで学ぶ者としての通過儀礼。
2014/10/14
2014/10/14
・語学学校
今日から今学期の間大学の授業と並行して通う語学学校の授業が始まった。週に二時間×2が二か月ということでそこまでの負担にはならないし、日常会話ではなく学問で用いるドイツ語が学べるということで受講することにした。
今回は会話コースではないので人数も30人弱と多め、LMUと提携している学校ということもあってかメンバーもヨーロッパ人がほとんどで、メキシコ人の機械技師が多数派だったケルンの語学学校と比べるとかなりの違いがあった。日本人も僕の他にあと二人いた。
11月からは受講生のプレゼンテーションとディスカッションが主になるようで、来学期からゼミにも出たいと思っている僕にはありがたいプログラム。まあがんばる。
2014/10/13
2014/10/13
・ENDLICH DEUTSCH!
ここ数日WDRというケルンのテレビ局が制作しているENDLICH DEUTSCH!というドキュメンタリー仕立てのドラマを見ていた。ケルンでドイツ語を学ぶ様々な国から来た人々を主役とした物語で、ネットに公開されているうちでは最終話となる第四話で彼らが試験に合格しドイツ市民権を手にすることとなり、タイトルのDEUTSCHはドイツ語ではなくドイツ人を指しているのだと分かった(ENDLICHは「ついに」くらいの意味)。
出演者の話すドイツ語がまあまあ聞き取りやすいのと時折映るケルンの風景へのノスタルジーとで見ていたのだが、出身国に応じて振り当てられた国民性、あるいは個性もめちゃくちゃでありながら愛すべきという感じで描かれており(ギリシア人は家にヤギを飼い、ロシア人は大人しいがウォッカを飲みまくり挙句の果てにアルコール中毒で死に、セルビア人は裸体主義者で戦争の話題に触れられると激昂、日本人は一言も話さないが優秀)、こうやって移民受入れ国家の土壌は培われていくんだろうとか思っていた。一人登場する人種主義者の男が出演者とは正反対に憎むべき人間として描かれているのも抜かりない。
http://www.ardmediathek.de/tv/ENDLICH-DEUTSCH/Sendung?documentId=23651140&bcastId=23651140
2014/10/12
2014/10/12
・ダッハウ強制収容所
Das Konzentrationslager Dachau, in der Folge KZ Dachau genannt, bestand vom 22. März 1933 bis zur Befreiung durch Truppen der US Army am 29. April 1945. Das NS-Regime errichtete es wenige Wochen nach seiner Machtübernahme; das KZ Dachau war während der Diktatur des Nationalsozialismus eines der bekanntesten Konzentrationslager (KZ).今日は現在おそらくアウシュヴィッツに次いで名が知られているであろうナチの収容所、ダッハウ強制収容所を訪れた。ダッハウは旧市街や宮殿もあるバイエルンの普通の町であるが、やはりその名を聞いて頭に浮かぶのはまずこの収容所であろう。
ダッハウ強制収容所―のちにKZダッハウと名付けられる―は1933年3月22日からアメリカ軍による1945年4月29日の解放まで存在していた。ナチ体制が権力掌握後数週間でそれを設置した:KZダッハウはナチズム独裁のあいだ、最も知られた強制収容所(KZ)であった。
ダッハウはミュンヘンの郊外、Sバーンで15分ほどの距離にあり、収容所は駅からバスで10分ほどの場所に位置している。日曜ということもあってか、駅から収容所までのバスは「まるで強制収容所」という不謹慎な形容が思い浮かんでしまうのほどの混みようであった。
入口の門にはアウシュヴィッツと同じくArbeit macht freiの一文。門をくぐれば収容所特有の薄ら寒くなる広大さに出迎えられる。
多くのバラックが残されていたアウシュヴィッツ・ビルケナウとは異なり、ダッハウのバラックはほとんどが解体され、一部が博物館や展示用に残されている。博物館の展示はかなり充実しており、12年間での収容所の役割の変遷が詳しく綴られている。 とくに囚人の内訳の変換の展示が興味深かった。悪名高い人体実験の記述は読んでいて気持ち悪くなる。
ここはアウシュヴィッツのような絶滅収容所ではなかったらしいが、収容所の隅にはシャワー室を偽装したガス室が設置されていた。そのそばには囚人の多くが信仰していたのであろうユダヤ教、カトリック、プロテスタント、正教の四つの礼拝堂が彼らの安らかな眠りのため、並んでいた。
アウシュビッツほどの直截的な衝撃はなかったが、これがナチ体制の多くの収容所のモデルであったと思うと、やはり彼らの行いは全く非人間的であったと感じざるを得ない。
「労働は自由をもたらす」 |
収容所 |
偽装シャワー室 |
2014/10/11
・特になし
四連休の二日目、今日は髪を切る予定だったが取りやめ、読書を中心に日本での休日と変わらぬ一日を過ごした。逆にこういう日があると「留学」が始まったんだなと実感する。非日常感のあったケルンの日々とは違う。
最近はVolker Berghahnの第一次世界大戦についてのペーパーバックを読んでいるのだが、調べていたら今夏邦訳が出ていたことを知った(しかし原著9Euroが3000円超・・・)。ついでに第一次世界大戦で検索をかけたら、木村靖二が新書を書いていたり(留学前だったのに気付かなかったらしい)、マイケル・ハワードの翻訳が出ていたりと一応ブームは持続している模様。
2014/10/10
2014/10/10
・バイエルン州立図書館
僕が通っているミュンヘン大学のメインの建物Hauptgebäudeの向かいにバイエルン州立図書館がある。今日は授業がない四連休の初日であり、一日過ごすつもりでそこに行ってみた。ドイツ国内でもかなりの所蔵数を誇る図書館のようで、Worldcatで日本にない本を検索するとここには置いてあると出ることも多々あり、留学前から訪れるのを楽しみにしていた。
中に入ると早速備え付けのPCを立ちあげ、予めリストに入れておいた本をざっと眺める。この図書館は大学図書館と提携しており、先日入手した大学図書館のアカウントでそのままこの図書館のOpacシステムにもログインできるのだ。
開架式の図書館ではないため読みたい本をOpac上で注文する必要があり、ここで試しに気になる数冊を注文すると受取りは10月16日から可能になると言われた。開架でないのは予想していたが、まさか受取りに一週間弱もかかるとは思っていなかった。
雑誌コーナーは開架になっており、ロシア・東欧史関連の専門誌の充実ぶりを確認して満足。そのあとは持参した本を読み、結局昼過ぎにはすることもなくなって帰宅した。今後は欲しい本は早めに家で注文しておくべきだと学んだ。
2014/10/09
・授業初週終了
火曜日から木曜日までにしか授業を取らない僕は今日でミュンヘンでの授業日程の初週が終了したこととなる。とはいっても五つとるうちだったひとつは老人に怯えて既に切ったし、二つは来週が初日なので火曜日と今日それぞれ一つずつの授業に出席したのみである。来週からは語学学校の授業も始まるし、今週はウォーミングアップ程度と見なすべきだろう。
今日の授業は「ロシアとアジア」が主題であったが、教授の専門は日露戦争ということだった。教授の口からいずれ日本人の名や日本の地名が飛び出すかと思うとそれはそれで面白そうだが、僕としてはタタールやトルキスタンの征服の部分に興味がある。それにしても、パワーポイント授業なのでなんとかなりそうだが、聞き取れない・・・。
2014/10/08
2014/10/8
・授業後に机を叩く学生たち
昨日の記事で触れたが、ドイツの学生たちは授業終了の際片手で机をドンドンと叩くことで拍手に似た表現をする。気になって少し調べてみたが、日本語ではその事実は紹介されているものの起源に関する解説は見つからなかった。
そこでドイツ語で検索してみると2002年と古いがちょうどこの伝統を扱った記事があったので今日訳してみた。
なぜ学生たちはトントンと叩いて喝采を示すのか?
学生が授業のあとに喝采を打ち鳴らすとき、彼らはそれによって古き慣習に従っているのだ。ドイツ学生史協会のFriedhelm Golueckeは長らくこの領域で研究しており、我々にここで喝采表明の歴史への簡単な見通しを与えてくれる。
宗教改革の時代、学生寮(Bursen―教師と学生の住宅、教育組合だ)への強制が廃止されると、学生たちは自発的に同郷組合、今日まで広まってきた結合で組織した。それは19世紀の終わりまで、実際は学生の代表であった。それは学生たちの振舞いの規範を定めた―学生組合に属していない者にもである:いわゆるFinke、Kamel、Wilde、Obskurantに対してだ。(訳注:これらは順にアトリ、ラクダ、野蛮人、反啓蒙主義者の意であり、どれも学生組合に属していない学生を軽蔑的に指すとき用いられるようだ)
学生たちの相互関係にとって最も重要な規則は、コメントにおいて定められた。表彰の正式な儀式や、不快感に至るまでである:Vivat!(ラテン語、万歳!)あるいはPereat!(ラテン語、くたばっちまえ!)。学生寮で修道院に似た生活が支配的であったことを顧慮するならば、学生寮の解散でも簡単には放棄されなかった非常に古い伝統が一緒に付いてくることもあった。他方で、新たな影響も効果を持つようになった。例えば、啓蒙的なフリーメーソンと、彼らの集会所での慣習を通じて、である。
教育の範疇での学生による喝采と不快感の表明は、簡単には固定されなかったようだ。それは時間的にも、場所的にも相違している。起源は、たいていはっきりとは見つからない。時に、このような学生の表明は二義的でもある。18世紀後半から19世紀半ばにおけるアカデミックな教師の「口笛の野次」、それは今日一般的に、大学の外においても慣例となっているが、大学では新入生―「キツネ」たちの全く軽蔑的ではない挨拶をも意味することがあった。
似ているのが、新入生による講義の際の「太鼓叩き」であり、1800年ごろ、棒で床を突いていたのである。それは歓迎の挨拶だったが、しかしまた教授にとっては不快感の印ともなりえた。18世紀の終わりごろ、この場合こぶしが机に打ち付けられるようにもなった。
しかし同時に不快の印として既に「床を足でこする」と「シューシュー音を立てる」ことが知られていたので、机を叩くのは教師たちにとって喝采の表明へと変わっていったようだ。後に棒を講義に持っていくことはなくなったので、この場合足を踏み鳴らすことも慣例となった。
http://www.spektrum.de/frage/warum-bekunden-studenten-durch-klopfen-ihren-beifall/589114
2014/10/07
2014/10/7
・授業初日
今日は二つの授業に出る予定だったが、四限(たぶん)の「景観史」はだだっ広い教室に老人が10人ほどまばらに座っているのみという授業開始時刻の光景に怖気づき帰ってきてしまった。
二限の「19世紀の暴力」は、現代からの視点を前面に押しだした授業で、若干のinteraktiv志向もあり形式は好きではないが、内容には関心があるので今後も出席するつもり。こちらは200人くらいの学生と老人が集った人気授業だった。肝心の聴き取りは、教師の自己紹介や事務的な話はほとんど聞き取れず、授業内容に入るとなんとか筋は理解できるという感じだった。パワーポイント授業なので、ちゃんと文字の読める位置に座ればまったくついていけないということにはならないと思う。そして、授業終了と同時に学生が一斉に机を叩きだしたのは驚いた。調べてみたら想像通り拍手と同義のようだ。
4時間ほど空き時間があり学期中に通う語学学校の手続きを済ませ、さらに余った時間で歴史学科の図書館を訪れた。歴史学科だけで五階分、素晴らしい。今日は寝たかっただけなのだが寝てる人が見当たらなかったので机に突っ伏す勇気は出ず、HimkaのReligion and Nationality in Western Ukraineを席に運んで数ページ読んだのち座ったまま寝た。
2014/10/06
2014/10/6
・ミュンヘン入り
一ヶ月ぶりの更新。余りにも呆気なく更新が滞ったことに自らもいささか驚いている。
10月1日に寮に入り、学生証その他重要書類の受取り、各方面での住所変更、生活物資の買い出しなどにここ数日は追われていた。歴史学科で行われた留学生向けのオリエンテーションにも参加し、だいたいの学事進行も頭に入った。授業は今日から始まっているのだが、月曜日は休みにしたので初めての授業は明日である。とりあえず初週は五コマ出席し、後におそらく一つは削るだろうという計画だ。
取る予定の授業は「19世紀の秩序と暴力」「景観史」「ウクライナ語」「16世紀から19世紀のロシアとアジア」「ロシア革命」である。シラバス的なものを見るとどれも概説のようだが、それでも日本で行われている特殊講義に比べればかなり詳しいテーマを扱っている。
それに加えて、大学と提携している語学学校が「学問のドイツ語」みたいな授業を週二回、夜に開講しているのでそれも受けるつもりだ。
明日からは本職の方の勉強を本格的に再開する予定なので、そのことについてだけでもブログを続けていきたいが・・・。
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