2015/06/26

[論文メモ] Sereda, Ostap. “Shaping Ukrainian and All-Russian Discourses: Public Encounters of Ukrainian Activists from the Russian Empire and Austrian Galicia (1860-70s),” in Andrzej Novak (ed.), Rosja i Europa Wschrodia: “imperiologia” stosowana. Kraków, 2006


Sereda, Ostap. “Shaping Ukrainian and All-Russian Discourses: Public Encounters of Ukrainian Activists from the Russian Empire and Austrian Galicia (1860-70s),” in Andrzej Novak (ed.), Rosja i Europa Wschrodia: “imperiologia” stosowana. Kraków, 2006

パンテレイモン・クリシとミハイロ・ドラホマノフという二人のロシア領ウクライナ出身の活動家とガリツィア・ルテニア人の思想的交流について。ロシア帝国におけるウクライナ主義運動の代表的理論家とされていた二人は、ガリツィアのウクライナ主義者から見ると汎スラヴ主義的な議論を展開し、混乱と失望を呼んでいた。クリシとドラホマノフは大ロシア人に対するウクライナ人の独自性を強調しつつも、ウクライナ人と大ロシア人はともに全ロシア人というメタ・ネイションの構成要素であると考えた。一方、ガリツィアのウクライナ主義者にとってそのような議論は政治的ライヴァルであるルソフィル的な考え方で、そのまま受け入れるわけにはいかなかった。

著者はクリシ、ドラホマノフの全ロシア論を追うとともに、同じ「ウクライナ主義者」であるはずの勢力がハプスブルク帝国とロシア帝国においてなぜ異なる理論的発展を遂げたのかという問いを発している。著者によれば、ロシア帝国下ウクライナ人地域のエリートはキエフなどの大都市を通じて容易に帝国の高等文化であるロシア語の公共空間に参入できたため、自らを大ロシア人の一部としてみなす言説を内在化しやすかった。その上で、彼らはウクライナ人の文化的自治などのローカルな主張を発した。一方、ガリツィアのウクライナ人はハプスブルク帝国の公共空間から余りにも離れており、そこへの参入はまずウクライナ人をナショナリティとして認識されることが大前提であった。そこでエリートたちはローカルな民族問題での議論を通じ、「ウクライナ」の文化的、政治的正当化を目指した。

最後のロシア帝国とハプスブルク帝国の帝国公共空間の差異がネイションビルディングにおけるエリートの行動様式に作用したというのは非常に新鮮(正直完全に理解できているとは思えないが・・・)。とりあえず、ハプスブルク帝国でウクライナ・ナショナリズムがより「進んでいた」のはウクライナ語教育、ユニエイト支援、普通選挙による民衆の政治化、報道・表現の自由などの条件によるものだ、という従来の議論への興味深い修正になるとは思う。

クリシとドラホマノフについては中井和夫が論じていて、特に後者はかなりの力作。

中井和夫「パンテレイモン・クリシのウクライナ観」原暉之、山内昌之編『スラブの民族』弘文堂、1995
中井和夫「ドラホマノフ覚書 帝政ロシアとウクライナ」『ロシア史研究』38、1983

2015/06/24

[論文メモ] Himka, John-Paul. “The Construction of Nationality in Galician Rus’: Icarian Flights in Almost All Directions,” in Ronald Grigor Suny/ Michael D. Kennedy (ed.), Intellectuals and the Articulation of the Nation. Ann Arbor, 1999


Himka, John-Paul. “The Construction of Nationality in Galician Rus’: Icarian Flights in Almost All Directions,” in Ronald Grigor Suny/ Michael D. Kennedy (ed.), Intellectuals and the Articulation of the Nation. Ann Arbor, 1999

ガリツィア・ルテニア人のネイション・ビルディングについてゲルナー、アンダーソン、ホブズボームあたりの構築主義的ナショナリズム論との関連で論じた最も代表的なもの。19世紀初頭のルテニア人の民族的アイデンティティの可能性として「ウクライナ人」「ロシア人」「ポーランド人」「ルーシン人」「ルテニア人(ポーランド共和国時代の概念で、現在のウクライナ人とベラルーシ人を含む)」が挙げられ、それぞれ政治、文化、宗教、社会の四つの側面から詳細に検討されている。その結論は、「ウクライナ人」アイデンティティの勝利は決して原初的に決定づけられてはおらず、ルテニア人にとっては全ての試みが副題にあるような「イカロスの飛翔」であったというものだ。著者は政治的側面がウクライナ人アイデンティティの形成に有利に働いたと見ており、ネイションの構築の最大の決定要素は畢竟政治であると述べている。

憶測も含まれた論争的なもので、非常に刺激的だった。ネイション形成の主体として基本的にインテリしか想定していないところが一連の近代論からのナショナリズム研究の一つっぽく見えるが、著者は1848年における農民についてモノグラフを書いているし、ルテニア人のネイション・ビルディングには近代論モデルが適合するということのようにも思える。

2015/06/20

[論文メモ] Himka, John-Paul. “Hope in the Tsar: Displaced Naïve Monarchism among the Ukrainian Peasants of the Habsburg Empire,” in Russian History 7-1, 1980


Himka, John-Paul. “Hope in the Tsar: Displaced Naïve Monarchism among the Ukrainian Peasants of the Habsburg Empire,” in Russian History 7-1, 1980

ガリツィアのルテニア人農民における「救世主ツァーリ像」についての研究。19世紀の帝国では普通であった農民の「ナイーヴな君主崇拝」が、ハプスブルク帝国のルテニア農民においては時に対象を変え、ロシア帝国のツァーリ崇拝の形をとった。このような「転移した君主崇拝」は、ルテニア農民の本来の「善良なる」ハプスブルク皇帝への忠誠と、ポーランド人地主の苛烈な地主支配を皇帝が放置しているという現状との葛藤から生じたものである。このような理想の皇帝像と現実との矛盾は必ずしもツァーリ崇拝には結びつかず、「皇帝は気付いておらず、ガリツィアの役人が皇帝の目を盗んで悪行を働いている」とする見解や、ハプスブルク家の別の親族、とりわけルドルフ皇太子に未来の救世主を見出す立場へと至ることもあった。著者は理想と現実の葛藤を克服する第三の可能性であるツァーリ崇拝が、ポーランド蜂起に対するロシア帝国の苛烈な処置、1882年の対ルソフィル裁判、ハプスブルク帝国の国際的地位の低下などの時代背景に伴って流行したことを明らかにした。しかし、90年代に農民が共通の利害を持つ集団として政治化されると、19世紀的な「ナイーヴな君主崇拝」じたいが後景に退き、農民政党を自任したラディカル党の成長とともにツァーリ崇拝は減退していった。

著者によれば、農民のツァーリ崇拝は決してルテニア人の大ロシア人とのナショナルな同一性を内包するようなものではなかった。最大の原因は苛烈な地主支配という社会的なものであり、ルテニア人と同様に苦しんでいたポーランド人農民も、ときにツァーリへの希望を抱いていた。しかし、ツァーリによる救いへの願いが表現される際、キエフ・ルーシまで遡る共通の歴史や、言語や宗教の親近性が補強として援用された。

[論文メモ] Sanborn, Joshua. “The Russian Empire,” in Robert Gerwarth/ Erez Manela (ed.), Empires at War 1911-1923. Oxford/N.Y., 2014


Sanborn, Joshua. “The Russian Empire,” in Robert Gerwarth/ Erez Manela (ed.), Empires at War
1911-1923. Oxford/N.Y., 2014

第一次世界大戦を帝国という視点から見た論文集のうち、ロシア帝国を扱う章。ロシア帝国の大陸帝国としての特徴とそれに伴う境界地域の重要性について述べられたあと、開戦直前から内戦後のソ連成立期までの歴史が通史的に描かれている。帝国がテーマであるゆえ実際の戦闘ではなく、既存の帝国統治が戦争の過程でいかに崩壊していったかが焦点となっている。著者によれば、開戦当初から政府が文民主導の秩序を保つことに失敗したため、戦争と混乱が長引くにつれ境界地域には権力の空白地帯が生じ、そこで現地の分離主義的なナショナリズム勢力は自らの政体の建設を試みていった。二月革命で帝国は崩壊し、ナショナリストの一層の伸長をもたらしたが、十月革命後の内戦はボリシェヴィキがかつての帝国国土のおおよそを征服するという形で終結した。土着のナショナリストに冷淡に振舞った白軍とは異なりボリシェヴィキは各ネイションに文面上は自決権を認め、「原理的には連邦制、実際にはボリシェヴィキ一党支配」の新たな帝国が誕生した。

特に新しい情報はないが、とりあえず久々にロシア史に触れたということで。Eric Lohr, Peter Holoquist, Peter Gatrellあたりには帰国したらちゃんと目を通そう。

[論文メモ] Rudnytsky, Ivan L.. „The Ukrainians in Galicia under Austrian Rule,” in Andrei S. Markovits and Frank E. Sysyn (ed.), Nationbuilding and the Politics of Nationalism: Essays on Austrian Galicia. Cambridge, 1982


Rudnytsky, Ivan L.. „The Ukrainians in Galicia under Austrian Rule,” in Andrei S. Markovits and Frank E. Sysyn (ed.), Nationbuilding and the Politics of Nationalism: Essays on Austrian Galicia. Cambridge, 1982

ディアスポラ史学によるガリツィア・ウクライナ人の歴史の基本文献。ポピュリストが民衆の支持を得て、第一次世界大戦前にルソフィルに対し最終的な勝利を収めたこと、その過程でガリツィアどドニプロ・ウクライナの一体性という概念がウクライナ・ナショナリズムの基盤となるまで成長していったことが強調されている。のちの研究者はこのポピュリスト史観の超克を目指し、ポピュリスムが基本的にはガリツィア内部での運動であったこと、ルソフィルがウクライナ・ネイションビルディングの障害としてのみみなされるべき勢力ではなかったことなどが論じられるようになった。

通史としては非常に便利であり、とりわけ多くのルテニア人諸勢力の指導者の名前が生没年とともに挙げられているのがありがたい。本論に登場する人物は最低限頭にいれておくべきと見なし、メモ代わりにまとめておく。

Markiian Shashkevych 1811-1843
詩人、文学者。ルテニア三人衆の一人としてルテニア文化復興運動を主導。

Iakiv Holovats'kyi 1814-1888
歴史学者、文学者。同上。

Ivan Vahylevych 1811-1860
詩人。同上。
Brock, P. ‘Ivan Vahylevych (1811–1866) and the Ukrainian National Identity,’ in Nationbuilding and the Politics of Nationalism: Essays on Austrian Galicia, ed A. Markovits and F. Sysyn (Cambridge, Mass 1982)

Hryhorii Iakhymovych 1792-1863
ユニエイト聖職者。1848年ルテニア最高委員会代表。1860年よりレンベルク府主教。ハプスブルクに忠実。

Bohdan Didyts'kyi 1827-1908
新聞発行者。アルト・ルテニア。

Stephan Kachala 1815-1888
政治家。60年代の初期ポピュリスト。

Iuliian Lavrivs'kyi 1821-1873
同上。

Ivan Borysykevych 1815-1882
同上。1848年プラハ・スラヴ会議に参加。

Danylo Taniachkevych 1842-1900
ユニエイト司祭、政治家。初期ポピュリスト。

Omelian Partyts'kyi 1840-1895
言語学者。同上。

Volodymyr Barvins'kyi 1850-1894
ポピュリスト。Dilo創刊、初期編集長。ポピュリストとアルト・ルテニアの仲介を模索した。

Oleksander Barvins'kyi 1848-1927
Volodymyrの兄。穏健派ポピュリスト、キリスト教社会運動指導者。

Omelian Ohnovs'kyi 1833-94
初期ポピュリスト。

Oleksander Ohonovs'kyi 1848-1891
同上。

Natal' Vakhnianyn 1841-1908
音楽家。同上。

Afol'f Dobrians'kyi 1817-1901
ザカルパッチャ・ルソフィル活動家。1882年対ルソフィル裁判被告。
In 1849 Dobriansky served as an Austrian civil commissioner with the Russian army, which helped the Austrians to suppress the Hungarian uprising. He presented to the Austrian emperor a project for the division of Hungary into national districts, entitled ‘A Memorandum by Hungarian Ruthenians’ and dated 19 October 1849. The project was approved, and Dobriansky was appointed vicegerent of the Ruthenian district in Hungary.
http://www.encyclopediaofukraine.com/display.asp?linkpath=pages%5CD%5CO%5CDobrianskyAdolf.htm

Ivan Naumovych 1826-1891
ルソフィル指導者。ユニエイト信者の正教への改宗を主導。1882年対ルソフィル裁判被告。

Iosyf Sembratovych 1821-1900
ユニエイト教会リヴィウ府主教。ルソフィルに協力的で、1882年Naumovych裁判に際し解任。

Ostap Terlets'kyi 1850-1902
ラディカル党初期指導者。

Ievhen Olesnyts'kyi 1860-1917
国民民主党指導者。

Lev Bachyns'kyi 1872-1930
ラディカル党指導者。オーストリア議会議員。

Ivan Makukh 1872-1946
ラディカル党指導者。シーチ射撃連隊組織。

Volodymyr Dudykevych 1861-1922
後期ルソフィル指導者。

2015/06/19

[論文メモ] Zayarnyuk, Andriy. “Mapping Identities: The Popular Base of Galician Russophilism in the 1890s,” in Austrian History Yearbook 41, 2010


Zayarnyuk, Andriy. “Mapping Identities: The Popular Base of Galician Russophilism in the 1890s,” in Austrian History Yearbook 41, 2010

1892-93年のガリツィアでルソフィルが行った正書法改定への反対キャンペーンについて。90年代初頭にガリツィアはポーランド保守派とルテニア・ポピュリストの妥協による「新時代」に入り、その象徴が発音に即した正書法の導入であった。しかし、ポピュリストと対立するルソフィルは正書法改定を「ルーシの伝統に反し、ルテニア人のポーランド化をもたらすもの」として批判、民衆に対して従来の正書法の維持を求める請願書への署名を呼び掛けた。これはルソフィル勢力による初めての大衆動員であったが、多くの署名にもかかわらず最終的に正書法は変更された。

著者はナショナリズム論における構築主義の流行の弊害として、近年のルテニア人ナショナリズムについての研究が諸勢力の大衆動員やその効果についての分析を欠いていることを指摘する。そこで本論ではルソフィルの初めての大衆動員であった請願書キャンペーンについて詳細に分析され、伝統維持のアピールによりそれなりに大衆の支持を得られたものの、請願書への署名数や支持層の割合に地域的偏差があったことが示されている。著者によれば、この偏差は1848年革命時のガリツィア分割のための請願書においてもみられ、それはやがてガリツィア全域に民衆支持層のネットワークをつくり出すポピュリスト勢力に政治的敗北を喫する要因の一つとなった。

ネイション・ビルディングにおける言語問題の重要性の一例としても読めるし、ガリツィア北部一帯がルソフィルの支持基盤だったというのは新たな発見であろうが、一点、ポピュリストをウクライナ・ナショナリストと同一視しているのがやや気になった。どうしてもポピュリスト勝利決定論の臭いがするというか・・・。

2015/06/16

[論文メモ] Wendland, Anna Velonika. „Die Rückkehr der Russophilen in die ukrainische Geschichte: Neue Aspekte der ukrainischen Nationsbildung in Galizien, 1848-1914,“ in Jahrbücher für Geschichte Osteuropa 49, 2001


Wendland, Anna Velonika. „Die Rückkehr der Russophilen in die ukrainische Geschichte: Neue Aspekte der ukrainischen Nationsbildung in Galizien, 1848-1914,“ in Jahrbücher für Geschichte Osteuropa 49, 2001


ハプスブルク時代のガリツィアに存在したルソフィル勢力をウクライナ史のなかに置き直す試み。ルソフィルはルテニア文化運動に起源を持ちユニエイト聖職者と緊密な関係にあったにもかかわらず、20世紀に入ってポピュリスト勢力に主導権を奪われて以降、ロシアと結んだ裏切り者として批判されてきた。ポピュリストの立場を引き継いだウクライナ民族史観では、ルソフィルがかつてルテニア主義の構築に果たした役割は横領され、ルソフィルはロシア帝国によって持ち込まれた反ウクライナ運動だと定義された。そのような趨勢に対し、本論はガリツィアでのルソフィルの活動を再考し、ルソフィルがロシアからの輸入品ではなく純ガリツィア的な保守運動であり、さらに彼らの理論と実践がポピュリストのウクライナ・ナショナリズム運動に多大な影響を及ぼしたことを明らかにしている。その際著者はルソフィルの再定義のみならず、単線的なウクライナ・ナショナリズム史やガリツィア=ウクライナのピエモンテ論の超克というより大きな課題をも提示した。

一時はガリツィア=ウクライナのピエモンテで片付けかけていたが、最近ガリツィアについて読むにつれかなり考えを改めた。ユニエイト聖職者は基本的に保守派で、ポピュリストからはルテニア人に欠けている貴族の立場にあたる存在として敵視されていたということ、さらにルソフィルやアルト・ルテニア主義者は1910年頃まで民衆からも人気のある勢力だったということが分かってきた。さらに本論ではルソフィルへの関与をめぐり、単なる汎スラヴ主義者と多民族帝国間の秩序の維持を重んじるロシア帝国政府の立場がしっかり区別されていたが、これはロシア・ナショナリズム論でも重要な視点だろう。
本論を前提として、第一次世界大戦の時代に反ロシアがウクライナ・ナショナリズムの主要路線となり、ルソフィルがウクライナ・ナショナリズムにおける立場を失ってゆく様を調べていければ面白そう。

2015/06/10

ドイツの町と紋章37 マメンドルフ


マメンドルフはミュンヘンとアウグスブルクの中間に位置する町で、人口は4662人。
休日にこの町だけを訪れたが、ミュンヘン周辺都市紀行のなかで一番無意味な一日だったと思う。冬のように寒く、何もない駅周辺を歩いてすぐミュンヘンに戻った。

紋章は以下の通り。

Wappen der Gemeinde Mammendorf

赤と白の帯はシトー修道会のシンボルであり、マメンドルフが歴史的にフュルステンフェルド修道院の統治下にあったことを示している。ライオンはかつて町の一部を統治していたロツベック家に、羊毛刈用のはさみはハルデンベルク家に由来する。この紋章は1980年に制定された。


そうそう、霧も濃かった。


PB230002

2015/06/04

ドイツの町と紋章36 シュタルンベルク


シュタルンベルクはオーバーバイエルンの都市で、同名の湖に面している。ミュンヘンからは約25kmの距離で、遠足や保養の目的地となっている。
シュタルンベルク湖周辺では最大の都市で、湖岸にはちゃんと遊歩道が整備されている。専ら湖周辺にいたけど、町の中心部も栄えているのだろうか。

紋章は以下の通り。

Wappen der Stadt Starnberg

三つの山(Berg)の上にムクドリ(Star)が羽を開いており、町の名称Starnbergにかけた図柄となっている。1912年の市制施行時に、バイエルンの摂政王子(Prinzregent)ルイトポルトによって現在の紋章が定められた。


駅。コリント式っぽい柱列が気になる・・・。


PB010064

2015/06/01

ドイツの町と紋章35 ベルク


ベルクはシュタルンベルク湖東岸の町。狂人だとして廃位されたバイエルン王ルートヴィヒ二世はこの町のベルク城に滞在し、医師との散歩中に失踪、湖で遺体が発見された。
電車も通っていない町だが、ルートヴィヒ二世の伝記を読んだ後であり、遺体発見場所の十字架と記念礼拝堂を訪ねた。

紋章は以下の通り。

Wappen der Gemeinde Berg

白い波と魚は町が湖に面していることを示し、上部の王冠はルートヴィヒ二世を記念したものである。彼は1866年の謎の死の前も、ベルク城を夏の離宮として頻繁に利用していた。基調となっている青と白はヴィッテルスバッハ家の色である。


記念礼拝堂、今見るとちょっと興味深い様式。


PB010051