2015/04/30

ドイツの町と紋章13 ハンブルク


ハンブルクはエルベ川沿いのドイツ第二の都市で、中世にハンザ都市として栄えて以来、ヨーロッパを代表する港町である。意外と内陸に立地しているが、川幅が広いため海港にしか見えない。日本と比べるとやはり内陸国的な印象が強いドイツであるが、ハンブルクはその中で異質であり、陽と陰を併せ持った港町特有の魅力的な雰囲気を湛えている。
ハンブルクでは一泊したので主要な見所はだいたい回った。倉庫街、朝の魚市場、歓楽街レーパーバーンなどはドイツ国内各所を訪問した今なお新鮮であるが、一方港町出身の人間として親近感も抱かせる。市庁舎も立派で、偶然一般開放日にあたっていて内部を見学できた。中心街の間を縫って運河が走っているのも優雅で良い。地元民が集うおしゃれエリアのようなものもいくつかあるんだと思う。

紋章は以下の通り。右は大紋章である。

Landeswappen der Freien und Hansestadt Hamburg Großes Staatswappen

紋章のデザインは、12世紀あるいは13世紀の市の印章に由来する。中央の塔は司教の所在を示しており、すなわち19世紀に取り壊されたマリエン大聖堂を描いたものである。周囲の城の形状は幾度か変化しており、門が開いたデザインが用いられている時期もあった。1835年以来現在の紋章が使われている。大紋章のデザインは16世紀に遡り、ライオン、兜、兜飾りが盾を支えている。

以上の紋章は市が公に用いるものだが、ハンブルクへの愛着を示したいという一般市民の要望により、紋章をやや簡略化した「自由使用紋章」も定められた。

Frei verwendbares Wappenzeichen

写真は、市庁舎内部の内壁あるいは扉のデザイン。当時はもちろんこんな記事を書くつもりもなかったのだが、よく撮ってたな・・・。
この市庁舎は1886-97年に建てられたもので、それゆえ紋章は既に現在と同じデザインである。


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ドイツの町と紋章12 ボン


ボンはケルンの南に位置する大都市で、人口は31万人。1949年から90年まで西ドイツの首都であり、現在も首都機能の一部を残している。ローマ時代に建てられたドイツで最も古い都市の一つであり、1597年から1794年まではケルン選帝侯領の首都であった。
ボンにはオイスキルヒェン、ケーニヒスヴィンターと同じ日曜日に訪問し、当然ここが主要目的地だった。市街地の少し南にHaus der Geschichte(歴史の家)という国営の歴史博物館があり、そこで見知ったドイツ人によるドイツ史の基本的な語りの構造は、のちに様々な博物館を見学する上での基礎として役立った。中心部も散策したが、ボンほどの大都市でも日曜日は閑散としていることがわかった。

紋章は以下の通り。

Wappen der Stadt Bonn

上部にはケルン選帝侯領の黒十字が、下部にはこちらを向いた金色のライオンが描かれている。ライオンの由来は雄豚を襲うライオンの石像であり、その起源は中世まで遡る。現在は石像の頭部が失われており、紋章に描かれている表情は推測によるものだという。石像は中世から選帝侯領時代の終わりまで中央広場にあり、現在は市立博物館で保存されている。

現在の紋章は1971年に新たに制定されたもので、その前の200年間は以下の紋章が用いられていた。



そして、写真の旧市庁舎の装飾には旧紋章が使われている。


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2015/04/28

ドイツの町と紋章11 ケーニヒスヴィンター


ケーニヒスヴィンターはライン川沿い、ボンの対岸に位置する都市である。ボンからのUバーンで気軽に訪問できる。ドラッフェンブルク城を擁するドラッフェンヘルス山、およびそこからのライン川の眺望で知られている。
僕はケーブルカー代と馬車代を惜しんで徒歩で城まで登ったが、結構きつかった。中心部では何かのお祭りをやっていてケルシュを1ユーロで飲めた。帰りは船で対岸のバード・ゴーデスベルクに渡った。

紋章は以下の通り。

Wappen der Stadt Königswinter

塔の上に盾があり、左にブルク公国の赤ライオン、右にはケルン選帝侯領の黒十字が描かれている。この紋章は、1972年に制定された。

写真はドラッフェンブルク城。ここでも金を惜しみ、この距離まで。


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2015/04/27

ドイツの町と紋章10 オイスキルヒェン


オイスキルヒェンはケルンの南西の町。日曜日の朝に行ったらほとんど誰もいなかった。
1302年に都市権を得た歴史ある町で、現在もかつての城壁や塔が一部残されているということだ。

紋章は以下の通り。

Wappen der Stadt Euskirchen

城門の両脇に盾が描かれ、紋章のなかに紋章があるような構造である。
左の赤いライオンはリンブルク公、右の黒いライオンは既に登場したユーリヒ公の紋章獣である。

写真は旧市庁舎。左右の紋章はなんだろうか。


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2015/04/26

ドイツの町と紋章9 ゾーリンゲン


ゾーリンゲンはケルンとヴッパータールの間に位置する町で、刃物の街として有名である。博物館などもあるのだろうが、中心部をなんとなく歩いたのみである。

紋章は以下の通り。

Wappen der Stadt Solingen

この紋章は1935年に紋章学者Wolfgang Pagenstecherによってデザインされ、制定されたものである。
錨は町の守護聖人であるクレメンス1世を、上部の五つの門はゾーリンゲンが人口10万人超の大都市であることを示している(誤解されがちだが、合併以前に市を構成していた五都市を表しているというわけではない)。
Wikipediaには書かれていなかったが、交差する剣は当然町の刃物産業の伝統を象徴しているのだろう。

ゾーリンゲンにようこそ。


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ドイツの町と紋章8 ヴッパータール


ヴッパータールは現存する世界最古のモノレールが走っていることで有名な町。現在も市民の足として活躍しており、僕も中央駅から一駅分乗った。ヴッパー川の上でぶら下がり轟音をたてて走る車両は迫力があるが、乗ってみると意外と静かで快適だった。
他に見どころはなさそうだが、それでも人口30万人超というから驚き。NRW。

紋章は以下の通り。

Wappen der Stadt Wuppertal

ここでもお馴染みのベルギッシュ・ライオンが用いられている。
ライオンが前足でつかんでいるのは「ローマのラウレンティウス」という聖人を象徴する格子であり、脚の下の糸の塊は町の主要産業である製糸業を表している。実は格子と糸は1929年に生れたヴッパータール市をかつて構成していた二つの町の紋章にそれぞれ用いられていた。すなわち、以下左図が旧エルバーフェルト市、右図が旧バルメン市の紋章であったという。

DEU Elberfeld COA.svg DEU Barmen COA.svg

写真はやはり空中鉄道。


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ドイツの町と紋章7 デュッセルドルフ


デュッセルドルフはノルドライン=ヴェストファーレン州の州都であり、ドイツで最も重要な五つの経済都市の一つである。多くの日系企業がヨーロッパの拠点を置いている。同じ州の最大都市ケルンと多くの面でライヴァル関係にあることでも知られる。
ここは二時間ほど歩いただけなのだが、目当てだった日本人が経営するラーメン屋の麺が異常に柔らかかったのが一番の印象。

紋章は以下の通り。

Wappen der Stadt Düsseldorf

かつての紋章にはライン川との関わりを示す錨のみが描かれていたが、16世紀から錨を前足で握る赤いライオンが加わった。このライオンはレヴァークーゼンのものと同様、ベルク公国のベルギッシュ・ライオンである。
度重なる変容ののち、1938年に紋章学者Otto Huppが今日の形に定めた。

写真はラーメン屋。


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2015/04/25

ドイツの町と紋章6 ブリュール


ブリュールはケルンの南に接する都市で、当時住んでいた部屋のホストに車で連れて行ってもらった。世界遺産に登録されているアグスストゥスブルク城やファルケンルストの前まで行って「中は独りでじっくり見にこい」と言われすぐに引きかえすだけのドライブだった。結局そのあとは訪れずじまいで、まともな写真もない。
他にもマックス・エルンストの博物館やファンタジーランドとかいう遊園地もある。

紋章は以下の通り。これは変わり種か。

Wappen der Stadt Brühl

この紋章は1319年の参審裁判官(Schoeffe)の印章に由来しており、ケルン司教座の十字架模様の盾の向こうに聖使徒ペトロが描かれている。右手に二つの鍵、左手に福音書を握り、七人の参審裁判官に囲まれている。

ドイツの町と紋章5 アーヘン


語学学校の一週目を終えてまず訪れたのがアーヘン。あれから色々な教会を訪れたが、アーヘン大聖堂の美しさと複雑さはかなり独特だった。記録はここ

紋章は以下の通り。右は大紋章である。

Wappen der Stadt Aachen 

黄色の背景に、赤い爪、赤い舌の黒い鷲が描かれている。かつての帝国自由都市として、今日もなお黄色の背景と黒い鷲の組み合わせという伝統を保っている。現在の紋章は1980年に市議会で制定されたものである。

写真は意外と小さいカール大帝像。


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ドイツの町と紋章4 ドゥーレン


ケルンからアーヘンに行く途中で一時間ほど寄ったのがドゥーレン。記録はここ
人口は9万人弱とバイエルン基準ではかなりの大都市だが、特に見どころはなかった。さすがノルドライン=ヴェストファーレン。

紋章は以下の通り。

Wappen der Stadt Düren

上部には赤い爪の鷲が描かれ、帝国自由都市としての起源を示している。下部では赤い舌のライオンが歩いているが、これは市がかつてユーリヒ公によって支配されていたことに由来する。
ちなみに、ユーリヒ公の紋章は以下の通りである。

Wappen

写真は、ドゥーレン駅にあった鉄道開通記念のファサード。ドゥーレン郡に鉄道が敷かれたことを記念するもので、ドゥーレン市をはじめとした同郡の町の紋章が描かれている。
多くの町の紋章にユーリヒ公由来と思われるライオンが見て取れる。


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2015/04/23

ドイツの町と紋章3 トロイスドルフ


レヴァークーゼンに行った日の午後訪問したのがトロイスドルフ。当時の記録はここ
ほとんど何もしていないのだが、後から調べると世界でも珍しい絵本博物館なるものがあったらしい。知ってても行かなかっただろうけど。

紋章は以下のようで、素人目にはかなり珍しく映る。
この紋章は20世紀後半の自治体改革ののちに定められたもので、TがTroisdorfの頭文字を、四つの円は合併前の自治体を表している。分子を思わせるT字の形状は、市の化学工業に由来する。

Wappen der Stadt Troisdorf

写真はトロイスドルフ駅。郊外だなあ。

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ドイツの町と紋章2 レヴァークーゼン


レヴァークーゼンにはケルンに来て三日目くらい、おそらくまだホテル暮らしをしていた頃に訪れた。ブログをしっかり更新していた時期なので、ここにまとめてある。

紋章は以下の通り。ライオンの表情はともかく、真ん中の黒い帯が印象的。

Wappen der Stadt Leverkusen

Wikipediaを要約。

  • レヴァークーゼン市の紋章には、銀色の背景に青の王冠、舌、爪を持つ尾が二つの赤いベルギッシュ・ライオンが描かれており、黒い鋸状の横帯に覆われている。1976年にケルンにて授与された。
  • ライオンはかつてこの地にあったベルク公国の紋章獣で、合併前の各市の紋章から受け継がれたものである。鋸状の横帯は1883年のオプラーデン市の紋章からとられたもので、元は13世紀のGerhardとGisoの兄弟に由来する。
  • 以前は1923年にプロイセンからヴィースドルフ市に授与され、1930年にレヴァークーゼン市によって引き継がれた別の紋章が用いられていた(左図)。そこにはライオンとともに小舟が描かれており、長い伝統のあるライン川の水運を表している。
  • 1970年代から紋章の代わりにロゴマークが用いられることも多くなった。これは、緑色の正方形に白い縦帯が走っているものである(右図)。


DEU Wiesdorf COA.svg 

写真は街の誇り、バイヤー・レヴァークーゼンの公式ショップ。

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2015/04/22

ドイツの町と紋章1 ケルン


留学も終盤ということで、訪問した都市をゆっくり振り返りたいと思う。書くことがないこともあるだろうし、ついでにその町の紋章についても調べる。

最初はもちろんケルンで、語学学校に通っていた二か月を過ごした町。今思えばほとんど中心部と部屋を借りていたローデンキルヒェン付近にしかおらず、少し勿体なかった。大聖堂、Domに通い詰めた一方、他の史跡はほとんど無視していた。ケルシュの細いグラスとNeumarktそばのPommesの店が懐かしい。いつも賑やかで、醜くも愛すべき町だった。

紋章は以下の通り。左が大紋章で、右が市旗に紋章を重ねたもの。

Wappen der Stadt Köln  

以下Wikipediaを要約すると、

  • 剣と笏を手にした双頭の鷲が描かれており、これは1475年以来帝国自由都市として神聖ローマ帝国に属していたことに由来する。
  • ケルンはリューベックとともにハンザ同盟の共同設立都市でもあり、盾は赤と白のハンザ・カラーである。
  • 三つの王冠は12世紀以来ケルン市の紋章であり、東方の三博士に由来する。1164年にケルンの大司教がミラノから運んできた三博士の聖遺物が大聖堂の祭壇に保存されているという。
  • 11の黒い「炎」は16世紀にケルン市の紋章に現れ、聖ウルシュラ信仰に由来する。ウルシュラは聖地巡礼の旅の帰路、フン族によってケルンで殺害されたブルターニュの王妃をモデルとした伝説の人物である。11人、あるいは11000人の伝説の若い女性たちが、雫の形で紋章に表されている。
  • ケルン市の旗は赤と白で、紋章を重ねて掲げられることが多い。

盾の部分はしょっちゅう見たけど、大紋章がこんなんだとは知らなかったな。

写真はケルンの紋章を模したロゴマークのケルシュ、früh。

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2015/4/22


・読んだもの

①Remer, Claus. Die Ukraine im Blickfeld deutscher Interessen: Ende des 19.Jahrhunderts bis 1917/18. Frankfurt a.M., 1997
②Hausmann, Guido. „Das Territorium der Ukraine: Stepan Rudnyc’kyjs Beitrag zur Geschichte räumlich-territorialen Denkens über die Ukraine,“ in Andreas Kappeler (Hg.), Die Ukraine: Prozesse der Nationsbildung. Köln/Weimar/Wien, 2011

①は三週間ほどかけてようやく読み終えたモノグラフ。基本的にフィッシャー派のドイツ東方政策研究のケーススタディだが、同時代のパンフレットをかなり多く使っており、ひとまずリスト化した。これらを別の形で読み替えられれば面白そう。
②はガリツィア生まれの地理学者、Stepan Rudnyc'kyjについての論文。彼は地理学者の立場からウクライナの一体性やロシア、ポーランドとウクライナとの差異を主張しており、一次大戦時では同盟国が支援するウクライナ解放同盟から著書を出版している。戦後はプラハを経て20年代にソ連のハルキフに向かうが、ロシアやソヴィエトの地理学界とは対立し、スターリン時代に粛清された。地理学とナショナリズムの関係を読み取っても面白いし、ガリツィアの知識人ナショナリストの一例とも見れる。

2015/04/13

2015/4/13


・読んだもの

Borowsky, Peter. „Paul Rohrbach und die Ukraine. Ein Beitrag zum Kontinuität Problem,“ in  Imanuel Geiss und Bernd Jürgen Wendt (Hg.), Deutschland in der Weltpolitik des 19. und 20. Jahrhunderts. Düsseldorf, 1974

ドイツ言論界の重要人物であったパウル・ローバッハのウクライナ論についての論文。19世紀末から戦後の冷戦期に渡る長い文筆生活において、ローバッハは一貫して東ヨーロッパにおけるウクライナ問題の重要性とウクライナ国民国家がドイツにもたらしうる潜在的利益を主張し続けた。保守派のドイツ・ナショナリストであったローバッハだが、第一次世界大戦では現地のナショナリズムを無視しひたすらドイツの影響圏への編入をかかげる全ドイツ派や、地主や君主主義者と近しいスコロパツキイをウクライナ国の首領にすえたOHLとは対立した。ワイマール下でもウクライナ問題を主題とした雑誌を刊行し、ナチ政権下でも文筆活動を許された。ローバッハ自身は倫理的な理由で初期よりナチ党に批判的であったが、東方政策についての主張は重なる部分も多かった。戦後は第二次世界大戦でのナチス軍のウクライナでの蛮行を批判し、引き続きソ連切り崩しのためのウクライナ・ナショナリズムの重要性を強調した。

ローバッハの周辺の人物としてアクセル・シュミット、ヨハネス・ハラー、オットー・ヘッチュ(主張は逆だが)などがいるが、このへんの一次大戦でロシア問題や東方政策について語っていた人々をいずれ整理しなければならない。ハラーとヘッチュについては日本語の論文がある。

前川陽祐「第一次世界大戦期ドイツにおけるオットー・ヘッチュとヨハネス・ハラーによるロシアをめぐる論争 : 政治議論としての歴史論争」『早稲田大学大学院文学研究科紀要』54-4、2009
前川陽祐「ヴィルヘルム期ドイツにおけるオットー・ヘッチュの東方政策論の形成過程1900-1914 ―ロシア論・ポーランド論を中心に―」『立正西洋史』26、2009

2015/04/02

2015/4/2


・旅行メモ

3.18
ベルリン最終日であり、事前にチェックしていた場所を点で巡る。北駅そばのベルリンの壁記録センター、南部のテロルのトポグラフィーには多くの研修旅行中の学生がみられた。テロルのトポグラフィーはナチスによる様々な集団に対するテロル(日本語ではテロと区別されて訳されると思うが、独語では同じTerrorなのでそのあたりの解説もされていた)についての博物館で、日常的な抑圧にも目配りがされており強制収容所にあるような展示より広がりがあった。
最後にもう一度クーダムを散策し、バスターミナルへ。このバスでチューリンゲンの州都エアフルトへと向かう。
深夜に到着したホテルでの事件は思い出したくないのでもう書かない。

3.19
旅行最終日。近距離でならんだチューリンゲンの三つの町、エアフルト、ワイマール、イェナを西から順にめぐる。
州都であるエアフルトは最も華やかな町で、広場や市庁舎、大聖堂がそれぞれ立派。晴天のおかげで中心部の歩行街もにぎわっていた。大聖堂広場の屋台でチューリンゲンソーセージを試した。
ワイマールは古典主義の都として世界遺産に登録されているらしいが、町自体は静か。ゲーテの家、シラーの家、バウハウス博物館などの名所は素通りしたが、唯一少しはずれにある墓地だけゆっくり見学した。墓地の中になぜかロシア正教会があり、小さいながら派手な内装も見学できた。
イェナではミュンヘン行ICEの待ち時間があったため最も長く滞在したが、三都市では最も退屈だった。東ドイツ時代に建てられた高層ビルイェナタワーが周囲の街並から浮きまくっており、どこから撮ってもカオスな写真になった。
バス移動が多かったこの旅だが、最後は特急列車ICEに乗り静かにビールを飲むという快適な時間を過ごす。途中列車がニュルンベルクで1時間くらい動かなくなり、ミュンヘンに着いたころには2時で地下鉄の終電を逃し終夜バスで帰るというトラブルもあったが、無事3週間の旅を終えて自室に帰り着いた。


・マイダン広場
革命の象徴となったマイダンとそこに集う人々についての短い動画。革命の展示や花束など前の旅行で見たものも映っている。着ぐるみ野郎共も。