2015/09/04

[論文メモ] von Hagen, Mark. “Revisiting the Histories of Ukraine,” in Georgiy Kasianov/ Philipp Ther (ed.), A Laboratory of Transnational History: Ukraine and Recent Ukrainian Historiography. Budapest/N.Y., 2009 等三論文


von Hagen, Mark. “Revisiting the Histories of Ukraine,” in Georgiy Kasianov/ Philipp Ther (ed.), A Laboratory of Transnational History: Ukraine and Recent Ukrainian Historiography. Budapest/N.Y., 2009

Ther, Philipp. „Die Nationsbildung in multinationalen Imperien als Herausforderung der Nationalismusforschung,“ in Andreas Kappeler (Hg.), Die Ukraine: Prozesse der Nationsbildung. Köln/Weimar/Wien, 2011

Wendland, Annna Velonika. „Ukraine Transnational: Transnationalität, Kulturtransfer, Verflechtungsgeschichte,“ in Andreas Kappeler (Hg.), Die Ukraine: Prozesse der Nationsbildung. Köln/Weimar/Wien, 2011


いずれも、「ウクライナ史」へのアプローチに関する、最新の研究動向を踏まえての問題提起。

von Hagenはかつての挑発的なvon Hagen, Mark. “Does Ukraine Have a History?” in Slavic Review 54-3, 1995を振り返りながら、現在注目すべき視点をいくつか挙げている。境界領域、地域などはスラ研のおかげもあって馴染みがあるが、都市という視点はあまりとられていないように感じる(リヴィウは例外)。ともかく、多様性こそにウクライナ史の特徴があるという論点は、1995年から変わっていない。

Therは帝国という場への視点が今までのナショナリズム論に欠けていたと指摘し、ネイションと帝国政府の相互作用や、「ネイション化する帝国(ドイツやロシア)」とその臣民であるネイションのナショナリズムとの緊張関係などに着目すべきと述べる。また、ナショナリズム内部の潮流においても、帝国や王朝原理に迎合的なものが存在する場合がある。いずれの視点も、ウクライナ史によくあてはまっており、今後の可能性を感じさせる。

Wendlandはトランスナショナルヒストリー、文化交換、絡み合いの歴史の視点をウクライナ史に導入した。ウクライナ・ネイションビルディングは、フロフ論のような内在的な語りでは捉えられないトランスナショナルな運動だった。ドニプロとガリツィアの知的交流、ポーランド人からの民族理論の吸収、ディアスポラから、反ユダヤ主義、ホロドモル、ナチとの協力などの負の側面まで、ウクライナ史は文化交換と絡み合いに満ちている。さらに、相互作用の特に濃密だった都市や境界地域
、そしてそこでの同化と異化についても、研究が期待される。最後に著者は、既にウクライナのトランスナショナルな面を鋭く指摘し、自らが文化交換の主体として活動してきたミハイロ・ドラホマノフに注目する意義を、改めて述べている。

第一次世界大戦におけるウクライナ・ナショナリズムについて、ドイツ・オーストリアとウクライナ人インテリの間の文化交換を通して語ることは可能かもしれない。

[論文メモ] Magocsi, Paul Robert. “Old Ruthenianism and Russophilism: A New Conceptual Framework for Analyzing National Ideologies in Late-Nineteenth-Century Eastern Galicia,” in Paul Robert Magocsi, The Roots of Ukrainian Nationalism: Galicia as Ukraine’s Piedmont. Tronto/London/Buffalo, 2002


Magocsi, Paul Robert. “Old Ruthenianism and Russophilism: A New Conceptual Framework for Analyzing National Ideologies in Late-Nineteenth-Century Eastern Galicia,” in Paul Robert Magocsi, The Roots of Ukrainian Nationalism: Galicia as Ukraine’s Piedmont. Tronto/London/Buffalo, 2002 (first appeared in Paul Debreczeny (ed.), American Contributions to the Ninth International Congress of Slavists, Kiev 1983, Vol. II. Colombus, 1983, pp. 305-324)

ガリツィアのウクライナ・ナショナリズム研究の古典の一つ。おそらく、最初にポピュリスト史観を批判し、侮蔑的に扱われていた「ルソフィル」に光を当てた論文である。
著者はまずルソフィルとウクライノフィルの二分法を批判し、ルソフィルのなかにも時代によって異なる潮流が存在し、「老年ルテニア人」と「ルソフィル」に区別されるべきだと述べる。「老年ルテニア人」とは1848年に主役となったインテリ勢力で、ルーシの一体性、反ポーランド、ハプスブルク帝国への忠誠、ユニエイト教会との緊密性などに特徴がある。一方、著者の定義する「ルソフィル」は1890年代に登場した新たな潮流で、ロシア人との一体性、ロシア語の使用、オーストリア批判、共通の敵ウクライノフィルに対抗してのポーランド人との協力、などが特徴である。

おそらく、後の議論に影響を与えた論点は次の二つである。まず、ウクライノフィル、老年ルテニア人、ルソフィルの三勢力は19世紀前半に登場した老年ルテニア人から枝分かれしたものであり、元々共通の根を持っていたという説。これは、ウクライノフィルとルソフィルの時間超越的な二分法を退けるもので、ルソフィルをウクライナ・ナショナリズム内の保守勢力として再定義したWendlandの議論などに影響を与えたと思われる。第二点は、「ルソフィル」は「老年ルテニア人」からの枝分かれであって変身ではなく、「ルソフィル」登場後も第一次世界大戦期まで「老年ルテニア人」は存在しつづけたという説。これについては批判的応答が多い感覚があるが(Himkaがそうだった気がする)、もう一度註などで触れている諸論文を整理しなくてはいけない。

2015/08/30

[論文メモ] Jobst, Kerstin S. „Marxismus und Nationalismus: Julijan Bačyns'kyj und die Rezeption seiner „Ukraïna irredenta“ (1895/96) als Konzept der ukrainischen Unabhängigkeit?,“ in Jahbücher für geschichte Osteuropas 45, 1997


Jobst, Kerstin S. „Marxismus und Nationalismus: Julijan Bačyns'kyj und die Rezeption seiner „Ukraïna irredenta“ (1895/96) als Konzept der ukrainischen Unabhängigkeit?,“ in Jahbücher für geschichte Osteuropas 45, 1997

ウクライナ民族史観において独立ウクライナを提唱した最初の書物として称揚される„Ukraïna irredenta“だが、その肩書きが果たして正当なものなのか、著者であるバチンスキーの経歴を詳しく辿ることによって検討している。バチンスキーはラディカル党においてHimkaの言う「青年」ラディカルとして独立ウクライナを唱え、のちに社会民主党党員となり西ウクライナ人民共和国に参加した。20年代のソ連領ウクライナでのコレニザーツィヤに感銘を受けるとソ連に移住した。このような亡命ウクライナ人知識人での親ソ的傾向は珍しくなかったが、実際にソ連に移住した者の多くはやがてスターリン時代の粛清の被害者となった。バチンスキーも収容所で生涯を閉じた。

今までバチンスキーを扱った歴史家の多くは、彼を単純にウクライナ・ナショナリストとして描くことを躊躇させるソ連移住のエピソードについて、無視するか全く気付かずにいた。さらに、問題の書物„Ukraïna irredenta“を詳しく読めば、バチンスキーはマルクス主義の立場からウクライナ国家を想定しており、経済的な問題が解決されれば、やがて国家は不必要になると考えていたことが分かる。つまり、彼にとって独立ウクライナは発展段階の一部を構成する要素でしかなかった。また、同時代の知識人も、„Ukraïna irredenta“を独立ウクライナ提唱の書としては読まず、社会民主党の一派閥による政治的パンフレットとしか見なされなかった。確かにマルクス主義に熱中する一部の党員や学生には読まれたが、ナショナリズムを主導するような影響力はなかった。

本論において著者はバチンスキーを扱ったウクライナの通史のほとんどを批判しているが、2010年には自ら通史を著し、そこでしっかりバチンスキーの脱神話化を行っている。

Jobst, Kerstin S. Geschichte der Ukraine. Stuttgart, 2010

[論文メモ] Zayarnyuk, Andriy. “On the possibility of peasant intellectuals: the case of the Ukrainians in Habsburg Galicia,” in Social History 39-1, 2014


Zayarnyuk, Andriy. “On the possibility of peasant intellectuals: the case of the Ukrainians in Habsburg Galicia,” in Social History 39-1, 2014

ナショナリズム論の主流をなす近代主義、構築主義においては、インテリに非常に重要な役割が与えられている。とりわけ、ウクライナを含む東欧のネイションビルディングについて論じる歴史家は、常にインテリに注目し、彼らを目覚めつつあるネイションの先導者と見なしてきた。一方、当時は人口の大半を成していた農民は、農奴解放後の社会で「伝統的」存在として描かれ、「近代的」な都市の知識人と対置されている。そこで、そのような農民像の批判的検討を目指し、著者は「農民インテリは可能か?」という問いを提示し、ガリツィアにおける「啓蒙された」農民の活動を辿り、彼らが実際はグラムシの「有機的知識人」に相当するような存在であったことを示した。

重要なのは、著者の言う「農民インテリ」が単なる都市のインテリ層の地方における代弁者であったわけではなく、農民としての自意識を持ちながら知的活動に従事していたという点である。さらに、ナショナリズム論の伝統的な農民像への反駁としては、その活動がルテニア・ネイション全体の規模に及んでいたことが重要である。オーストリア=ハンガリーにおいてはあらゆる政治はネイションが舞台となり、農民インテリはそのネイションを(実践的には新聞や雑誌、読書会などを)、農民全体の利害形成の場として利用した。やがて、ネイション・レヴェルの農民インテリの交流は、農民政党を自認するラディカル党の誕生をもたらした。

[論文メモ] Himka, John-Paul. “Young Radicals and Independent Statehood: The Idea of a Ukrainian Nation-State, 1890-1895,” in Slavic Review 41-2, 1982


Himka, John-Paul. “Young Radicals and Independent Statehood: The Idea of a Ukrainian Nation-State, 1890-1895,” in Slavic Review 41-2, 1982

1890年代前半のルテニア・ラディカル党における世代間論争について。ドラホマノフの影響を受け、連邦制のなかでのウクライナを目指すFranko,Pavlykら「老年」ラディカルに対し、マルクス主義の影響を強く受けたBudzynovs'kyi, Bachyns'kyiら「青年」ラディカルは独立国家としてのウクライナを政治的目標とした。彼らは、ドラホマノフが唱えたアナーキズムを主調とする社会主義は時代遅れだと見なし、ウクライナ人の生き残りと発展のためには政治的独立、そして自立した社会機構が不可欠だと論じた。

青年ラディカルは初めて自治を超えて独立ウクライナを唱えたため、民族史観では純粋なウクライナ・ナショナリストとして描かれがちである。しかし、Himkaは独立国家案が旧来のドラホマノフ主義に対するマルクス主義からの反発として生じたものであることを示した。また、「民族発展の基盤として国家が必要」という主張は、ナショナリズムの段階的な発展(文化的覚醒→大衆動員→政治的要求)を想定する議論とは真逆の論理であり、ウクライナ以外のネイションとの比較の可能性も感じさせる。

2015/08/17

ドイツ留学答え合わせ


ドイツ観光局のホームページに「外国人観光客が選んだドイツの観光地ベスト100」というものが掲載されていたので、単純にそのうちいくつに訪問できたのか数えてみる。基準は緩めで、内部に入らなかった建物なども含めてしまう。
以下がそのランキングで、訪れたところは太字にした。


  1. ヨーロッパ・パーク(遊園地)
  2. ノイシュヴァンシュタイン城
  3. ケルン大聖堂
  4. ハイデルベルクの旧市街と城
  5. ブランデンブルク門(ベルリン)
  6. ローテンブルク・オプ・デア・タウバー旧市街
  7. ボーデン湖とマイナウ島
  8. ツークシュピッツェとパルテナッハ渓谷(ガルミッシュ=パルテンキルヒェン)
  9. ベルリンの壁  
  10. ロマンティック街道
  11. シュヴァルツヴァルト自然公園
  12. ケーニヒス湖
  13. カイザーブルク(ニュルンベルク)
  14. オクトーバーフェスト(ミュンヘン)
  15. モーゼル峡谷
  16. フラウエン教会(ドレスデン)
  17. ドイツ国会議事堂(ベルリン)
  18. ベルヒテスガーデン
  19. ザクセンのスイス
  20. リューゲン島
  21. ローレライとライン中流
  22. ドレスデン旧市街
  23. ハルツ国立公園
  24. ニュルンベルク・クリストキンドルマルクト
  25. レーゲンスブルク旧市街と聖ペテロ大聖堂
  26. フライブルク大聖堂
  27. サンスーシ宮殿(ポツダム)
  28. マウルブロン修道院
  29. キムゼー湖とヘーレンキムゼー島
  30. ハンブルク倉庫街とミニチュア・ワンダーランド
  31. エルツ城
  32. ダンケルン城休暇村
  33. バンベルク旧市街と大聖堂
  34. レジデンツ(ヴュルツブルク)
  35. リンダーホーフ城
  36. ホーエンツォレルン城
  37. 博物館島(ベルリン)
  38. アリアンツ・アレーナ
  39. ローマ建築遺跡群と聖母教会(トリーア)
  40. ハンザ都市リューベクとホルシュテン門
  41. ファンタジーランド(遊園地)
  42. ハンブルク港と魚市場
  43. ティティ湖
  44. ヴァルトブルク
  45. DDR博物館(ベルリン)
  46. アーヘン大聖堂
  47. マリエン広場(ミュンヘン)
  48. アレクサンダー広場のテレビ塔(ベルリン)
  49. ヴィルヘルムスヘーエ公園(カッセル)
  50. レゴランド
  51. リューデスハイムのつぐみ横丁、ロープウェイ、記念碑、ワイン畑
  52. ゼンパーオペラ(ドレスデン)
  53. ドイツの角、エーレンブライトシュタイン城塞(コブレンツ)
  54. ツヴィンガー宮殿(ドレスデン)
  55. クヴェードリンブルクの教会、城、旧市街
  56. ベルリン動物園
  57. ハーメルンのネズミ取りの家
  58. バーデン・バーデン浴場
  59. ヴィース巡礼教会
  60. 英国庭園(ミュンヘン)
  61. ウルム大聖堂
  62. バウハウスゆかりの地(ワイマール、デッサウ)
  63. ベルリン大聖堂
  64. ディンケルスビュールの後期中世の旧市街
  65. オリンピック公園とオリンピック・スタジアム(ミュンヘン)
  66. デュッセルドルフ旧市街
  67. ルートヴィヒスブルク城
  68. ホーエンシュヴァンガウ城
  69. シュパイヤーのカイザードム
  70. ホーフブロイハウス(ミュンヘン)
  71. ヴァッテン海
  72. ヴィクトゥアリエン市場(ミュンヘン)
  73. ハイデ・パーク
  74. アウグストゥスブルク城とファルケンルスト(ブリュール)
  75. ノイシュタット(ワイン街道)
  76. 新・旧ピナコテーク(ミュンヘン)
  77. ニュルブルクリング
  78. マリエンブルク要塞(ヴュルツブルク)
  79. 諸国民戦争記念碑(ライプツィヒ)
  80. オーバーアマガウ
  81. ドイツ博物館(ミュンヘン)
  82. 黄金の間(アウグスブルク)
  83. BMWワールド・BMW博物館(ミュンヘン)
  84. レーマー(フランクフルト・アム・マイン)
  85. ハノーファー新市庁舎
  86. フェルクリンガー・ヒュッテ
  87. ゲルリッツ旧市街
  88. メルヘン街道
  89. フラウエン教会(ミュンヘン)
  90. ホーエンシェーンハウゼン記念館(ベルリン)
  91. エアフルト大聖堂
  92. カヌーパーク・マルクレーベルク
  93. 自動車都市ヴォルフスブルク
  94. アウグスブルク大聖堂
  95. ニンフェンブルク宮殿とその庭園(ミュンヘン)
  96. フッゲライ(アウグスブルク)
  97. リヒテンシュタイン城
  98. ブレーメン市庁舎とローラント像
  99. ライヒスブルク(コッヘム)
  100. メルセデス・ベンツ博物館(シュトゥットガルト)
59/100ということで、一年間にしてはよく頑張ったと思う。
自然系の名所とか遊園地とか、残りは知らないところも多かった。

2015/07/25

ドイツの町と紋章43 プファッフェンホーフェン・アン・デア・イルム


プファッフェンホーフェンはオーバーバイエルンの都市で、ミュンヘン、アウグスブルク、インゴルシュタットを結んだ三角形の中心に位置する。
クリスマスマーケットの時期に訪れたが、確か朝早くてまだ店は閉まっていた。

紋章は以下の通り。

Wappen der Stadt Pfaffenhofen a.d. Ilm

黄色いジグザグ模様はかつてのヴィッテルスバッハ家の自由領に由来し、13世紀の印章で用いられていた。このジグザグは後にヴィッテルスバッハ家が所有する修道院などの紋章にも用いられ、やがてプファッフェンホーフェン地域を象徴するものとなった。ある時期は町の名前とかけた坊主(Pfaffe)の意匠も描かれていたが、1812年にバイエルン王マクシミリアン1世によって今日の紋章が定められた。

2015/07/13

ドイツの町と紋章42 グレーフェルフィング


プラネグのすぐ北の町。これも同日、クリスマスマーケットを訪問。

Wappen der Gemeinde Gräfelfing

中央の青帯は町を流れるヴルム川を表し、上部の赤い王冠は町と関係の深いベネディクト修道会の象徴である。下部の赤い七つの葉のブナ(Buche)は、Rottenbuch司教座聖堂参事会とかかっている(1206年、フライジンク司教のオットー2世が、この参事会本部をグレーフェルフィングに移した)。この紋章は1961年に制定された。

2015/07/12

ドイツの町と紋章41 プラネグ


ガウティングど同日、クリスマスマーケットのため訪問。

紋章は以下の通り。

Wappen der Gemeinde Planegg

中央の青い帯は町に流れるヴルム川を表し、下部の緑の草原(Plan)は町の名前(Planegg)とかかっている。赤いフクロウは当地を支配し、バイエルン公国の政治家一族として重要な役割を果たしたHoerwarth家のシンボルである。プラネグは1732年まで当家の所領であった。この紋章は1951年に制定された。

2015/07/09

ドイツの町と紋章40 ガウティング


ガウティングはミュンヘン南西部のベッドタウン。クリスマスマーケットだけのための訪問。

紋章は以下の通り。


Wappen der Gemeinde Gauting

水車の輪は町を流れるヴルム川に多くの水車が置かれていたことを表している。そして、カール大帝は742年に水車小屋で生まれたというガウティンクでの伝承から、輪の上に王冠が描かれた。ガウティンク周辺にカロリング家の所領があったという説もあるらしい。全体の色は、ヴィッテルスバッハ家の青と白が基調となっている。

2015/07/08

ドイツの町と紋章39 フライジンク


フライジンクはミュンヘン近郊最大の都市で、人口は4万5千人。S1はNeufahrnで空港行きとフライジンク行きに分離する。
フライジンクにはバイエルンで最初の部族大公領がおかれ、やがてフライジンク司教区の首都となった。バイエルンのミュンヘンの勃興とともに徐々に重要度を失ってゆくまで、バイエルンの聖俗の中心として栄えた。

紋章は以下の通り。

Wappen der Stadt Freising

上部にはバイエルンの菱形模様が、下部には初代フライジンク司教であるコルビニアンの象徴である熊が描かれている。かつてはフライジンクの黒ん坊と教会の塔の意匠も存在したが、18世紀末に熊が唯一のモチーフとなった。フライジンクが世俗化されバイエルン領に併合されると、菱形模様が加えられた。現在の紋章は1819年に定められたものである。


バロックのフライジンク大聖堂。


PB290034

2015/07/05

ドイツの町と紋章38 ファターシュテッテン


ファターシュテッテンはミュンヘンの東に位置する町で、人口2万2千人。都市でもマルクトでもない自治体としてはバイエルンで二番目に人口が多いらしい。
ここからはクリスマスマーケット目的の訪問が多いので、詳しくは当時の記事を参照。

紋章は以下の通り。



左上の緑のスイレン模様は12世紀にファターシュテッテンの教会が所属していたテーゲルン修道院を、右下の金の縦帯は古道を表している。この紋章は1969年に制定された。

2015/7/5


・発表について

先日歴史学科のゼミで発表を行った。留学生活はまだ一月残っているが、かなり入念に準備して臨んだので、この一年の集大成として位置付けていた。一応、ここでまとめておく。

ゼミは19世紀のガリツィアについてのゼミであり、僕は「ロシアから見たガリツィア(Galizien aus russischer Perspektive)」という題で発表した。他の学生はだいたいハプスブルク支配と関連する発表をしていたので、少し異なる視点を提供できたとは思う。ドイツ語に自信がなくほぼすべての文章を原稿にした結果、理論と実践の分析から結論を導き出すかなり論文的な構成になってしまったのは、今のドイツ語力の限界だろう。とはいえ、日頃ほとんど会話していないにもかかわらず、意外とすらすら喋れたのはよかった。

内容は、ガリツィアのウクライノフィルやポーランド人が喧伝した「ロシアの脅威」「狂信的汎スラヴ主義」「ルソフィルとの共闘」「ウクライナ人の抑圧」などのテーゼをロシアの側から検証するというもので、まずロシアのナショナリズムはウクライナ人に対して抑圧的というより統合的であったということを全ロシア人概念から示し、次に実際のガリツィア政策ではハプスブルクの王朝的正統性を重んじたツァーリとロシア政府が積極的な介入を嫌ったため、ルソフィルへの支援やプロパガンダ活動も限定的だったことを述べた。ネイション概念についてはAlexei Miller、ルソフィルとの関係についてはAnna Velonika Wendlandを主に参照した。

ほとんど発表準備を始める前はほぼ何も知らなかったテーマなので、自分としてもそれなりに有意義な発表だった。ただ、今回のような「ロシアの脅威」の反証が狙いとなるとどうしても「ガリツィアはロシア帝国の政策においてそれほど重要ではなかった」という結論に至ることになり、この視点をこれ以上深めるのは難しそう。純粋にロシア史の文脈からロシアにおけるガリツィア・イメージの変遷を検討するとかなら面白そうだが。

2015/06/26

[論文メモ] Sereda, Ostap. “Shaping Ukrainian and All-Russian Discourses: Public Encounters of Ukrainian Activists from the Russian Empire and Austrian Galicia (1860-70s),” in Andrzej Novak (ed.), Rosja i Europa Wschrodia: “imperiologia” stosowana. Kraków, 2006


Sereda, Ostap. “Shaping Ukrainian and All-Russian Discourses: Public Encounters of Ukrainian Activists from the Russian Empire and Austrian Galicia (1860-70s),” in Andrzej Novak (ed.), Rosja i Europa Wschrodia: “imperiologia” stosowana. Kraków, 2006

パンテレイモン・クリシとミハイロ・ドラホマノフという二人のロシア領ウクライナ出身の活動家とガリツィア・ルテニア人の思想的交流について。ロシア帝国におけるウクライナ主義運動の代表的理論家とされていた二人は、ガリツィアのウクライナ主義者から見ると汎スラヴ主義的な議論を展開し、混乱と失望を呼んでいた。クリシとドラホマノフは大ロシア人に対するウクライナ人の独自性を強調しつつも、ウクライナ人と大ロシア人はともに全ロシア人というメタ・ネイションの構成要素であると考えた。一方、ガリツィアのウクライナ主義者にとってそのような議論は政治的ライヴァルであるルソフィル的な考え方で、そのまま受け入れるわけにはいかなかった。

著者はクリシ、ドラホマノフの全ロシア論を追うとともに、同じ「ウクライナ主義者」であるはずの勢力がハプスブルク帝国とロシア帝国においてなぜ異なる理論的発展を遂げたのかという問いを発している。著者によれば、ロシア帝国下ウクライナ人地域のエリートはキエフなどの大都市を通じて容易に帝国の高等文化であるロシア語の公共空間に参入できたため、自らを大ロシア人の一部としてみなす言説を内在化しやすかった。その上で、彼らはウクライナ人の文化的自治などのローカルな主張を発した。一方、ガリツィアのウクライナ人はハプスブルク帝国の公共空間から余りにも離れており、そこへの参入はまずウクライナ人をナショナリティとして認識されることが大前提であった。そこでエリートたちはローカルな民族問題での議論を通じ、「ウクライナ」の文化的、政治的正当化を目指した。

最後のロシア帝国とハプスブルク帝国の帝国公共空間の差異がネイションビルディングにおけるエリートの行動様式に作用したというのは非常に新鮮(正直完全に理解できているとは思えないが・・・)。とりあえず、ハプスブルク帝国でウクライナ・ナショナリズムがより「進んでいた」のはウクライナ語教育、ユニエイト支援、普通選挙による民衆の政治化、報道・表現の自由などの条件によるものだ、という従来の議論への興味深い修正になるとは思う。

クリシとドラホマノフについては中井和夫が論じていて、特に後者はかなりの力作。

中井和夫「パンテレイモン・クリシのウクライナ観」原暉之、山内昌之編『スラブの民族』弘文堂、1995
中井和夫「ドラホマノフ覚書 帝政ロシアとウクライナ」『ロシア史研究』38、1983

2015/06/24

[論文メモ] Himka, John-Paul. “The Construction of Nationality in Galician Rus’: Icarian Flights in Almost All Directions,” in Ronald Grigor Suny/ Michael D. Kennedy (ed.), Intellectuals and the Articulation of the Nation. Ann Arbor, 1999


Himka, John-Paul. “The Construction of Nationality in Galician Rus’: Icarian Flights in Almost All Directions,” in Ronald Grigor Suny/ Michael D. Kennedy (ed.), Intellectuals and the Articulation of the Nation. Ann Arbor, 1999

ガリツィア・ルテニア人のネイション・ビルディングについてゲルナー、アンダーソン、ホブズボームあたりの構築主義的ナショナリズム論との関連で論じた最も代表的なもの。19世紀初頭のルテニア人の民族的アイデンティティの可能性として「ウクライナ人」「ロシア人」「ポーランド人」「ルーシン人」「ルテニア人(ポーランド共和国時代の概念で、現在のウクライナ人とベラルーシ人を含む)」が挙げられ、それぞれ政治、文化、宗教、社会の四つの側面から詳細に検討されている。その結論は、「ウクライナ人」アイデンティティの勝利は決して原初的に決定づけられてはおらず、ルテニア人にとっては全ての試みが副題にあるような「イカロスの飛翔」であったというものだ。著者は政治的側面がウクライナ人アイデンティティの形成に有利に働いたと見ており、ネイションの構築の最大の決定要素は畢竟政治であると述べている。

憶測も含まれた論争的なもので、非常に刺激的だった。ネイション形成の主体として基本的にインテリしか想定していないところが一連の近代論からのナショナリズム研究の一つっぽく見えるが、著者は1848年における農民についてモノグラフを書いているし、ルテニア人のネイション・ビルディングには近代論モデルが適合するということのようにも思える。

2015/06/20

[論文メモ] Himka, John-Paul. “Hope in the Tsar: Displaced Naïve Monarchism among the Ukrainian Peasants of the Habsburg Empire,” in Russian History 7-1, 1980


Himka, John-Paul. “Hope in the Tsar: Displaced Naïve Monarchism among the Ukrainian Peasants of the Habsburg Empire,” in Russian History 7-1, 1980

ガリツィアのルテニア人農民における「救世主ツァーリ像」についての研究。19世紀の帝国では普通であった農民の「ナイーヴな君主崇拝」が、ハプスブルク帝国のルテニア農民においては時に対象を変え、ロシア帝国のツァーリ崇拝の形をとった。このような「転移した君主崇拝」は、ルテニア農民の本来の「善良なる」ハプスブルク皇帝への忠誠と、ポーランド人地主の苛烈な地主支配を皇帝が放置しているという現状との葛藤から生じたものである。このような理想の皇帝像と現実との矛盾は必ずしもツァーリ崇拝には結びつかず、「皇帝は気付いておらず、ガリツィアの役人が皇帝の目を盗んで悪行を働いている」とする見解や、ハプスブルク家の別の親族、とりわけルドルフ皇太子に未来の救世主を見出す立場へと至ることもあった。著者は理想と現実の葛藤を克服する第三の可能性であるツァーリ崇拝が、ポーランド蜂起に対するロシア帝国の苛烈な処置、1882年の対ルソフィル裁判、ハプスブルク帝国の国際的地位の低下などの時代背景に伴って流行したことを明らかにした。しかし、90年代に農民が共通の利害を持つ集団として政治化されると、19世紀的な「ナイーヴな君主崇拝」じたいが後景に退き、農民政党を自任したラディカル党の成長とともにツァーリ崇拝は減退していった。

著者によれば、農民のツァーリ崇拝は決してルテニア人の大ロシア人とのナショナルな同一性を内包するようなものではなかった。最大の原因は苛烈な地主支配という社会的なものであり、ルテニア人と同様に苦しんでいたポーランド人農民も、ときにツァーリへの希望を抱いていた。しかし、ツァーリによる救いへの願いが表現される際、キエフ・ルーシまで遡る共通の歴史や、言語や宗教の親近性が補強として援用された。

[論文メモ] Sanborn, Joshua. “The Russian Empire,” in Robert Gerwarth/ Erez Manela (ed.), Empires at War 1911-1923. Oxford/N.Y., 2014


Sanborn, Joshua. “The Russian Empire,” in Robert Gerwarth/ Erez Manela (ed.), Empires at War
1911-1923. Oxford/N.Y., 2014

第一次世界大戦を帝国という視点から見た論文集のうち、ロシア帝国を扱う章。ロシア帝国の大陸帝国としての特徴とそれに伴う境界地域の重要性について述べられたあと、開戦直前から内戦後のソ連成立期までの歴史が通史的に描かれている。帝国がテーマであるゆえ実際の戦闘ではなく、既存の帝国統治が戦争の過程でいかに崩壊していったかが焦点となっている。著者によれば、開戦当初から政府が文民主導の秩序を保つことに失敗したため、戦争と混乱が長引くにつれ境界地域には権力の空白地帯が生じ、そこで現地の分離主義的なナショナリズム勢力は自らの政体の建設を試みていった。二月革命で帝国は崩壊し、ナショナリストの一層の伸長をもたらしたが、十月革命後の内戦はボリシェヴィキがかつての帝国国土のおおよそを征服するという形で終結した。土着のナショナリストに冷淡に振舞った白軍とは異なりボリシェヴィキは各ネイションに文面上は自決権を認め、「原理的には連邦制、実際にはボリシェヴィキ一党支配」の新たな帝国が誕生した。

特に新しい情報はないが、とりあえず久々にロシア史に触れたということで。Eric Lohr, Peter Holoquist, Peter Gatrellあたりには帰国したらちゃんと目を通そう。

[論文メモ] Rudnytsky, Ivan L.. „The Ukrainians in Galicia under Austrian Rule,” in Andrei S. Markovits and Frank E. Sysyn (ed.), Nationbuilding and the Politics of Nationalism: Essays on Austrian Galicia. Cambridge, 1982


Rudnytsky, Ivan L.. „The Ukrainians in Galicia under Austrian Rule,” in Andrei S. Markovits and Frank E. Sysyn (ed.), Nationbuilding and the Politics of Nationalism: Essays on Austrian Galicia. Cambridge, 1982

ディアスポラ史学によるガリツィア・ウクライナ人の歴史の基本文献。ポピュリストが民衆の支持を得て、第一次世界大戦前にルソフィルに対し最終的な勝利を収めたこと、その過程でガリツィアどドニプロ・ウクライナの一体性という概念がウクライナ・ナショナリズムの基盤となるまで成長していったことが強調されている。のちの研究者はこのポピュリスト史観の超克を目指し、ポピュリスムが基本的にはガリツィア内部での運動であったこと、ルソフィルがウクライナ・ネイションビルディングの障害としてのみみなされるべき勢力ではなかったことなどが論じられるようになった。

通史としては非常に便利であり、とりわけ多くのルテニア人諸勢力の指導者の名前が生没年とともに挙げられているのがありがたい。本論に登場する人物は最低限頭にいれておくべきと見なし、メモ代わりにまとめておく。

Markiian Shashkevych 1811-1843
詩人、文学者。ルテニア三人衆の一人としてルテニア文化復興運動を主導。

Iakiv Holovats'kyi 1814-1888
歴史学者、文学者。同上。

Ivan Vahylevych 1811-1860
詩人。同上。
Brock, P. ‘Ivan Vahylevych (1811–1866) and the Ukrainian National Identity,’ in Nationbuilding and the Politics of Nationalism: Essays on Austrian Galicia, ed A. Markovits and F. Sysyn (Cambridge, Mass 1982)

Hryhorii Iakhymovych 1792-1863
ユニエイト聖職者。1848年ルテニア最高委員会代表。1860年よりレンベルク府主教。ハプスブルクに忠実。

Bohdan Didyts'kyi 1827-1908
新聞発行者。アルト・ルテニア。

Stephan Kachala 1815-1888
政治家。60年代の初期ポピュリスト。

Iuliian Lavrivs'kyi 1821-1873
同上。

Ivan Borysykevych 1815-1882
同上。1848年プラハ・スラヴ会議に参加。

Danylo Taniachkevych 1842-1900
ユニエイト司祭、政治家。初期ポピュリスト。

Omelian Partyts'kyi 1840-1895
言語学者。同上。

Volodymyr Barvins'kyi 1850-1894
ポピュリスト。Dilo創刊、初期編集長。ポピュリストとアルト・ルテニアの仲介を模索した。

Oleksander Barvins'kyi 1848-1927
Volodymyrの兄。穏健派ポピュリスト、キリスト教社会運動指導者。

Omelian Ohnovs'kyi 1833-94
初期ポピュリスト。

Oleksander Ohonovs'kyi 1848-1891
同上。

Natal' Vakhnianyn 1841-1908
音楽家。同上。

Afol'f Dobrians'kyi 1817-1901
ザカルパッチャ・ルソフィル活動家。1882年対ルソフィル裁判被告。
In 1849 Dobriansky served as an Austrian civil commissioner with the Russian army, which helped the Austrians to suppress the Hungarian uprising. He presented to the Austrian emperor a project for the division of Hungary into national districts, entitled ‘A Memorandum by Hungarian Ruthenians’ and dated 19 October 1849. The project was approved, and Dobriansky was appointed vicegerent of the Ruthenian district in Hungary.
http://www.encyclopediaofukraine.com/display.asp?linkpath=pages%5CD%5CO%5CDobrianskyAdolf.htm

Ivan Naumovych 1826-1891
ルソフィル指導者。ユニエイト信者の正教への改宗を主導。1882年対ルソフィル裁判被告。

Iosyf Sembratovych 1821-1900
ユニエイト教会リヴィウ府主教。ルソフィルに協力的で、1882年Naumovych裁判に際し解任。

Ostap Terlets'kyi 1850-1902
ラディカル党初期指導者。

Ievhen Olesnyts'kyi 1860-1917
国民民主党指導者。

Lev Bachyns'kyi 1872-1930
ラディカル党指導者。オーストリア議会議員。

Ivan Makukh 1872-1946
ラディカル党指導者。シーチ射撃連隊組織。

Volodymyr Dudykevych 1861-1922
後期ルソフィル指導者。

2015/06/19

[論文メモ] Zayarnyuk, Andriy. “Mapping Identities: The Popular Base of Galician Russophilism in the 1890s,” in Austrian History Yearbook 41, 2010


Zayarnyuk, Andriy. “Mapping Identities: The Popular Base of Galician Russophilism in the 1890s,” in Austrian History Yearbook 41, 2010

1892-93年のガリツィアでルソフィルが行った正書法改定への反対キャンペーンについて。90年代初頭にガリツィアはポーランド保守派とルテニア・ポピュリストの妥協による「新時代」に入り、その象徴が発音に即した正書法の導入であった。しかし、ポピュリストと対立するルソフィルは正書法改定を「ルーシの伝統に反し、ルテニア人のポーランド化をもたらすもの」として批判、民衆に対して従来の正書法の維持を求める請願書への署名を呼び掛けた。これはルソフィル勢力による初めての大衆動員であったが、多くの署名にもかかわらず最終的に正書法は変更された。

著者はナショナリズム論における構築主義の流行の弊害として、近年のルテニア人ナショナリズムについての研究が諸勢力の大衆動員やその効果についての分析を欠いていることを指摘する。そこで本論ではルソフィルの初めての大衆動員であった請願書キャンペーンについて詳細に分析され、伝統維持のアピールによりそれなりに大衆の支持を得られたものの、請願書への署名数や支持層の割合に地域的偏差があったことが示されている。著者によれば、この偏差は1848年革命時のガリツィア分割のための請願書においてもみられ、それはやがてガリツィア全域に民衆支持層のネットワークをつくり出すポピュリスト勢力に政治的敗北を喫する要因の一つとなった。

ネイション・ビルディングにおける言語問題の重要性の一例としても読めるし、ガリツィア北部一帯がルソフィルの支持基盤だったというのは新たな発見であろうが、一点、ポピュリストをウクライナ・ナショナリストと同一視しているのがやや気になった。どうしてもポピュリスト勝利決定論の臭いがするというか・・・。

2015/06/16

[論文メモ] Wendland, Anna Velonika. „Die Rückkehr der Russophilen in die ukrainische Geschichte: Neue Aspekte der ukrainischen Nationsbildung in Galizien, 1848-1914,“ in Jahrbücher für Geschichte Osteuropa 49, 2001


Wendland, Anna Velonika. „Die Rückkehr der Russophilen in die ukrainische Geschichte: Neue Aspekte der ukrainischen Nationsbildung in Galizien, 1848-1914,“ in Jahrbücher für Geschichte Osteuropa 49, 2001


ハプスブルク時代のガリツィアに存在したルソフィル勢力をウクライナ史のなかに置き直す試み。ルソフィルはルテニア文化運動に起源を持ちユニエイト聖職者と緊密な関係にあったにもかかわらず、20世紀に入ってポピュリスト勢力に主導権を奪われて以降、ロシアと結んだ裏切り者として批判されてきた。ポピュリストの立場を引き継いだウクライナ民族史観では、ルソフィルがかつてルテニア主義の構築に果たした役割は横領され、ルソフィルはロシア帝国によって持ち込まれた反ウクライナ運動だと定義された。そのような趨勢に対し、本論はガリツィアでのルソフィルの活動を再考し、ルソフィルがロシアからの輸入品ではなく純ガリツィア的な保守運動であり、さらに彼らの理論と実践がポピュリストのウクライナ・ナショナリズム運動に多大な影響を及ぼしたことを明らかにしている。その際著者はルソフィルの再定義のみならず、単線的なウクライナ・ナショナリズム史やガリツィア=ウクライナのピエモンテ論の超克というより大きな課題をも提示した。

一時はガリツィア=ウクライナのピエモンテで片付けかけていたが、最近ガリツィアについて読むにつれかなり考えを改めた。ユニエイト聖職者は基本的に保守派で、ポピュリストからはルテニア人に欠けている貴族の立場にあたる存在として敵視されていたということ、さらにルソフィルやアルト・ルテニア主義者は1910年頃まで民衆からも人気のある勢力だったということが分かってきた。さらに本論ではルソフィルへの関与をめぐり、単なる汎スラヴ主義者と多民族帝国間の秩序の維持を重んじるロシア帝国政府の立場がしっかり区別されていたが、これはロシア・ナショナリズム論でも重要な視点だろう。
本論を前提として、第一次世界大戦の時代に反ロシアがウクライナ・ナショナリズムの主要路線となり、ルソフィルがウクライナ・ナショナリズムにおける立場を失ってゆく様を調べていければ面白そう。

2015/06/10

ドイツの町と紋章37 マメンドルフ


マメンドルフはミュンヘンとアウグスブルクの中間に位置する町で、人口は4662人。
休日にこの町だけを訪れたが、ミュンヘン周辺都市紀行のなかで一番無意味な一日だったと思う。冬のように寒く、何もない駅周辺を歩いてすぐミュンヘンに戻った。

紋章は以下の通り。

Wappen der Gemeinde Mammendorf

赤と白の帯はシトー修道会のシンボルであり、マメンドルフが歴史的にフュルステンフェルド修道院の統治下にあったことを示している。ライオンはかつて町の一部を統治していたロツベック家に、羊毛刈用のはさみはハルデンベルク家に由来する。この紋章は1980年に制定された。


そうそう、霧も濃かった。


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2015/06/04

ドイツの町と紋章36 シュタルンベルク


シュタルンベルクはオーバーバイエルンの都市で、同名の湖に面している。ミュンヘンからは約25kmの距離で、遠足や保養の目的地となっている。
シュタルンベルク湖周辺では最大の都市で、湖岸にはちゃんと遊歩道が整備されている。専ら湖周辺にいたけど、町の中心部も栄えているのだろうか。

紋章は以下の通り。

Wappen der Stadt Starnberg

三つの山(Berg)の上にムクドリ(Star)が羽を開いており、町の名称Starnbergにかけた図柄となっている。1912年の市制施行時に、バイエルンの摂政王子(Prinzregent)ルイトポルトによって現在の紋章が定められた。


駅。コリント式っぽい柱列が気になる・・・。


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2015/06/01

ドイツの町と紋章35 ベルク


ベルクはシュタルンベルク湖東岸の町。狂人だとして廃位されたバイエルン王ルートヴィヒ二世はこの町のベルク城に滞在し、医師との散歩中に失踪、湖で遺体が発見された。
電車も通っていない町だが、ルートヴィヒ二世の伝記を読んだ後であり、遺体発見場所の十字架と記念礼拝堂を訪ねた。

紋章は以下の通り。

Wappen der Gemeinde Berg

白い波と魚は町が湖に面していることを示し、上部の王冠はルートヴィヒ二世を記念したものである。彼は1866年の謎の死の前も、ベルク城を夏の離宮として頻繁に利用していた。基調となっている青と白はヴィッテルスバッハ家の色である。


記念礼拝堂、今見るとちょっと興味深い様式。


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2015/05/31

ドイツの町と紋章34 ホルツキルヒェン


ホルツキルヒェンはバイエルン州ミースバッハ郡のマルクト。S3の終着駅がある。
この頃は終着駅には何かしらあると思い一応訪問していたが、期待外れだからいい加減やめようと思ったのがこの町かもしれない。

紋章は以下の通り。

Wappen des Marktes Holzkirchen

木(Holz)と教会(Kirche)が描かれており、町の名称(Holzkirchen)にかけた図柄となっている。近代までホルツキルヒェンの紋章及び印章は定まっておらず、尖塔や玉ねぎ屋根の塔を持った教会が描かれているものや、木の数が二本のものも存在していた。1929年、最も古い印章に倣う形で現在の紋章が制定された。


ファサードの凝った建物はいくつかあったが・・・。


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2015/05/28

ドイツの町と紋章33 トゥッツィング


トゥッツィングはシュタルンベルク湖西岸の都市で、人口は1万人弱。S6の終着駅がある。
アンデクスからバスで訪れ、湖畔を少し歩いてミュンヘンに戻った。

紋章は以下の通り。

Wappen der Gemeinde Tutzing

上部の魚は町が湖に面し、かつて漁業で栄えていたことを示している。三つの星が入った青い帯は、1480年にトゥッツィングの所有者となったミュンヘンの貴族、Dichtl家のシンボルである。Dichtl家はこの土地に来てすぐに"Dichtl von Tutzing"姓を自称し、特権を得て1662までこの地を統治した。この紋章は1937年に制定された。


湖は天気次第。


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2015/05/27

ドイツの町と紋章32 アンデクス


アンデクスはバイエルン州シュタルンベルク郡の町で、人口は約3500人。中世には修道院を中心に繁栄し、18世紀に壮麗なロココ様式に改築されたアンデクス教会は町の観光名所となっている。
ヘルシングから森を抜けて修道院教会まで歩いた。教会以外何もないが、ここの修道院のビールは有名で、ビアガーデンは行列ができるほど混んでいた。瓶ならミュンヘンのスーパーでも買える。

紋章は以下の通り。

Wappen der Gemeinde Andechs

ヴィッテルスバッハ家の青白を背景とし、上部にはハンノキの枝が、下部には口を大きく広げて叫ぶライオンが描かれている。ハンノキ(Erle)は、かつての町の名称であるErlingにかけたもので、ライオンは1248年に絶えたアンデクス伯爵家に由来する。そもそもこの地域の地名はErlingであり、ヴィッテルスバッハ家の統治下にはいって以後、アンデクスは修道院と修道院が建つ「聖なる山」の名としてのみ残っていた。しかし世俗化ののちも地域の中心としての修道院の重要性は減じることなく、1956年には自治体名がErling-Andechsとなり、初めて地名にアンデクスが現れた。そして1970年代の自治体改編ののち、町はAndechs(アンデクス)と改名された。


こんなところを歩いた。


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2015/05/24

ドイツの町と紋章31 ヘルシング・アム・アマーゼー


ヘルシングはアマーゼー湖畔の都市で、ミュンヘンS8の終着駅がある。
暖かい時期に行ったおかげで湖畔のレストランや散歩道はかなりにぎわっていた。いくつかの散策コースの起点にもなっており、僕もここから隣町のアンデクスまで5kmくらい歩いた。

紋章は以下の通り。

Wappen der Gemeinde Herrsching am Ammersee

Wikipediaに解説がなかったが、バイエルン州のホームページにしっかりとした記事があった。
カモメと波は当然アマーゼー湖を表している。下部はバイエルンの紋章であり、1248年より市はバイエルン公ヴィッテルスバッハ家の統治下に入った。現在の紋章は1954年に制定された。


天気も良かった。


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ドイツの町と紋章30 アルトーミュンスター


アルトーミュンスターはミュンヘンS2の終点駅があるマルクトである。マルクトとは自治体の単位の一つであり、現在のドイツではバイエルン州のみに存続している。
ここにはダッハウ収容所のあと、Sバーンが工事中だったのでわざわざ代替バスで訪れた。オーバーバイエルンの単調な田舎風景を見たのはこのバスが最初だったかもしれない。

紋章は以下の通り。

Wappen des Marktes Altomünster

紋章には町の由来となった聖アルトー、そして聖アルトー教会(Muenster)が描かれている。ミュンスターとはラテン語Monasteriumに由来する単語で、主に南ドイツで教会の呼称として用いられた。現在の教会は18世紀にロココ様式で新築されたものだが、当初は紋章に描かれているような姿だったのだろう(あるいは、教会一般を図式化した絵柄なのかもしれない)。下部には各地の紋章でお馴染みのアヤメが加えられている。


市役所。後ろに見えるのが聖アルトー教会の塔。


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2015/05/22

ドイツの町と紋章29 ダッハウ


ダッハウはミュンヘン北西に位置する都市で、定期券圏内ではフライジンクに次いで大きい町。それでも人口は45000人。
ダッハウには強制収容所跡とヴィッテルスバッハ家の宮殿があり、僕はそのどちらも訪れた。どうしても前者のイメージが強いが、旧市街は十分独立した観光資源となっていた。

紋章は以下の通り。

Wappen der Stadt Dachau

紋章の三つの絵柄はどれもバイエルンの統治者とのダッハウの深い結びつきを示している。まず、上部の拍車は14世紀にダッハウ宮殿の管理人であったHans von Marschalckの紋章に由来するとされている。左のライオンは12世紀に絶えたダッハウ伯爵家のシンボルであり、蛇は14世紀末にバイエルン公に嫁いできたElisabettaの出身であるミラノのヴィスコンティ家の紋章獣である。蛇がダッハウの紋章に描かれているのは、Elisabettaが婚約の際の贈り物としてダッハウ市をバイエルン公から受け取ったことによる。


クリスマスマーケットにも行った。


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2015/05/21

ドイツの町と紋章28 エヒング


エヒングもオーバーシュライスハイムと同じミュンヘンの北のS1沿線の都市で、人口はこちらが2000人ほど多い。
ここは観光にきたわけではなく、最寄りのIKEAがあったので引越直後に来ただけ。写真は一枚も撮っていないし中心部に寄ってもいないが、50ユーロくらい金を落としたので訪問数にいれていいだろう。

紋章は以下の通り。

Wappen der Gemeinde Eching

上部には「フライジンクの黒ん坊」、下部にはハイデ(荒野)に咲く花の間に聖アンデレ十字が描かれている(スコットランド国旗のセント・アンドリューの十字と同じ)。「フライジンクの黒ん坊」はエヒングが属していたフライジンク司教領のシンボルであり、聖アンデレ十字は教区教会の聖アンドレアス教会を、花は市内の自然保護地区「ガルヒング・ハイデ」を表している。この紋章は1967年より用いられている。

ドイツの町と紋章27 オーバーシュライスハイム


オーバーシュライスハイムはミュンヘン郊外の都市で、人口約1万人。LMUの定期券圏内であり、以後この規模の知名度の低い町に好奇心と意地で訪問しまくることとなる。
市内にはバイエルンの王家であるヴィッテルスバッハ家が夏の離宮としていたオーバーシュライスハイム宮殿があり、そこの広い庭園を一通り歩いて回った。

紋章は以下の通り。

Wappen der Gemeinde Oberschleißheim

上部には宮殿にある三つの建物のうち二つを建設したマクシミリアン2世エマヌエル選帝侯(1662-1726)のモノグラムが、下部にはバイエルンの青白の菱形模様が描かれている。この紋章は市に在住していた紋章学者、Otto Huppの案で1925年に制定された。

とても広いが、誰もいない。


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2015/05/19

ドイツの町と紋章26 アウグスブルク


アウグスブルクはミュンヘン、ニュルンベルクに次ぐバイエルン第三の都市。ローマ時代に建設されて以降、フッガー家の繁栄やアウグスブルクの和議などで常に歴史に名を残し、現在に至っている。
ミュンヘンに家がないときオクトーバーフェストを避けてここに泊まったのだが、ミュンヘンから軽く足を延ばすには若干遠いので今思えばあのとき行っておいてよかった。夜は意外と閑散としていたが。

紋章は以下の通り。

Wappen der Stadt Augsburg

中央に描かれているのはツィルベルヌスという松かさ、すなわち広義の松ぼっくりを図式化したものであり、1467年の印章に初めて登場した。これはこの地域のローマ軍の軍旗に由来するもので、現在でもアウグスブルクのシンボルとして紋章以外でも広く用いられている。現在の紋章は1985年に簡略化されたもので、以前は鉢のような部分がコリント式の柱頭となっており、さらにそこには人間の顔が描かれていた(顔の起源は定かではない)。以下が1811年から1985年までの紋章である。



市役所なのにドイツの紋章しかない・・・。


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2015/05/18

ドイツの町と紋章25 メンヒェングラードバッハ


メンヒェングラードバッハはノルドライン=ヴェストファーレン州西部の大都市。1975年に合併で誕生した経緯から、二つの中央駅(Hauptbahnhof)を有するドイツで唯一の都市となっている。ブンデスリーガの古豪ボルシア・メンヒェングラードバッハの本拠地としても知られる。
ノイスの後に訪れたが、ここも人口の割にパッとしないNRW特有の都市。大通りのカフェでくつろいですぐケルンに引き返した。

紋章は以下の通り。

Wappen der Stadt Mönchengladbach

現在の紋章は合併前の諸都市の伝統を重んじた図柄であり、合併後の1977年に制定された。上部の白い鋸歯状の帯は旧Wickrath市を治めていたQuadt家、左部の大修道院長杖は合併前のメンヒェングラードバッハ市にあったベネディクト会、右部の黒十字は旧Rheydt市を治めていたBylandt家を、それぞれ表している。
合併前の旧紋章(下図)は聖人、ルカニアのヴィトゥスとユーリヒ公のライオンが描かれたもので、現在の紋章との連続性はない。中央の青い帯は小川を意味するGladbachのbachにかけたもので、星は聖ヴィトゥスもその一人に数えられる14の救難聖人を示している。




駅は味があってよかったな。


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2015/05/17

ドイツの町と紋章24 ノイス


ノイスはライン川左岸、ドゥッセルドルフの向かいに位置する都市。人口は15万人超で、郡と同等の地位を持つ郡独立市に属さない市としてはドイツで最大らしい。歴史は古く、ローマ時代のノヴァエシウムという植民市がその起源である。
ケルンを去る前に近場の町ということで訪れ、メインストリートと教会を軽く観光した。とりわけ目を引くものはないが、住みやすそうな印象だった。

紋章は以下の通り。右は大紋章。

Wappen der Stadt Neuss 

右部分の白十字の起源は12世紀の印章であり、十字軍を表しているとされる。1217年の最古の紋章はこの十字模様であった。15世紀に市が皇帝から特権を授かると、帝国自由都市でなかったにもかかわらず双頭の鷲が紋章となり、さらに王冠をかぶせることが許された(これは当時、ノイスとアムステルダムのみだった)。16世紀に古い十字の紋章と新しい双頭の鷲の紋章が一体とされ、それが現在まで用いられ続けている。
大紋章のライオンが登場したのは1638年である。


写真は市庁舎。よく見ると紋章が認識できる。


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2015/05/13

ドイツの町と紋章23 マンハイム


マンハイムはハイデルベルクから電車で15分ほどの距離にある大都市。ドイツでは珍しい格子状の計画都市で、特に見どころはないが高等教育や博物館が充実した文化都市である。
ハイデルベルクの帰りに寄り、町のシンボルであるユーゲントシュティールの給水塔のみ見物した。格子状の道はどこへ行くにも回り道している感じがする。

紋章は以下の通り。

Wappen der Stadt Mannheim

右に描かれたのはハイデルベルクと同じくプファルツ選帝侯のライオンで、左図はヴォルフスアンゲル、「狼を捕える罠」と呼ばれる二重鉤である。ヴォルフスアンゲルはドイツの紋章にしばしば登場し、ゲルマン的な起源ゆえナチの軍団のシンボルとしても用いられていた。両意匠は18世紀の印章に現れ、1896年に現在の紋章が制定された。

給水塔とは思えない。


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ドイツの町と紋章22 ハイデルベルク


ハイデルベルクはかつてプファルツ選帝侯の宮廷がおかれた古都である。ネッカー川のほとりの美しい旧市街に加え、ドイツ最古の大学をも擁している。
ミュンヘンで学籍登録した帰りに一泊したが、今思い出すと何と言うか観光地としての総合力が高かった。城や哲学者の道もよかったが、記憶に残っているのは大学の学生牢と早朝に見た虹。

紋章は以下の通り。

Wappen der Stadt Heidelberg

このライオンはハイデルベルクに首都がおかれていたプファルツ選帝侯領の紋章獣である。下部の三つ山図形(Dreiberg)は都市名(Heidelberg)を示唆するものだとされている。現在の紋章の図柄は1898年に採用されたが、1969年に様式化がなされており、それ以前は以下の紋章が用いられていた。



虹はまだ町に誰もいなくて独占できたのがよかった。


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2015/05/09

ドイツの町と紋章21 ザンクト・ゴアルスハウゼン


ザンクト・ゴアルスハウゼンはライン川沿いの小さな町。人口は1000人強しかないが、ライン川観光の名所であるローレライとネコ城を擁している。
僕はリューデスハイムからここまで観光船に乗り、電車でケルンに戻った。「世界三大がっかり」の一つに数えられるローレライだが、船内放送が盛り上げてくれたおかげでまあまあの迫力に見えた。ちなみに船内放送はドイツ語、英語、日本語で、その日も結構な量の日本人ツアー客が乗船していた。

紋章は以下の通り。

Wappen der Stadt Sankt Goarshausen

上部のライオンはベルギッシュ・ライオンと酷似しているが、これは当地をかつて支配していたカッツェンエルボーゲン伯の紋章である。三つのフルール・ド・リスが描かれた下部はヴィースバーデンの紋章を想起させるが、むしろ対岸のザンクト・ゴアールの斜め格子との関連が指摘されている。今後の訪問予定もないのでザンクト・ゴアールの紋章もここで紹介しておく。

Wappen der Stadt Sankt Goar

写真はローレライ。

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2015/05/08

ドイツの町と紋章20 リューデスハイム・アム・ライン


リューデスハイムもライン沿いの町。小さな町だがライン峡谷観光の主要都市で、ワイン酒場や土産屋では日本語もしばしば見られる。
日曜日に訪れたが石畳の小路はどこもかなりの人出で、おそらく平日よりにぎわっており観光地だなあと思った。ワイン畑の上をリフトでのぼり、森の中を少し歩いてアスマンスハウゼンという市内の別の地区に再びリフトで下った。最初のリフトはライン川を臨みながら涼しい風にあたれてとても気持ち良かった。

紋章は以下の通り。

Wappen der Stadt Rüdesheim am Rhein

ブリュール以来の変わり種。
騎乗しているのはトゥールのマルティヌスという聖人で、彼はマインツ大司教時代に列聖された。立っている巡礼者は聖ヤコブであり、シンボルである杖とホタテガイとともに描かれている。リューデスハイムの紋章は幾度も変化しながら現在にいたっており、類似の絵柄は17世紀から19世紀の印章に現れているが、19世紀の紋章では一時的にホタテガイのみが描かれていた。

最近またうまく紋章を撮れている。市庁舎。


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ドイツの町と紋章19 エルトヴィレ・アム・ライン


エルトヴィレ・アム・ラインはライン川沿いの小都市で、「ワインとシャンパンとバラの町」を称している。
ライン川沿いの町はとても一日で回り切れる量ではないので適当に選んだのだが、中世からの城、木組みの家、石畳の道など雰囲気がありよかった。ライン河畔のバラの花壇の前にはワインの屋台とテラス席があり、次の電車まで時間があったので一杯飲んだ。

紋章は以下の通り。

Wappen der Stadt Eltville am Rhein

初めてWikipediaに説明がなく、他サイトを参照した。
絵柄は分かりやすく、左がマインツの車輪、右が聖使徒ペトロの鍵である。マインツ大司教領の一部であったことから16世紀ごろの印章にマインツの車輪が現れ、のちにペトロの鍵が加えられた。

標識に紋章を発見。


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2015/05/06

ドイツの町と紋章18 ヴィースバーデン


ヴィースバーデンはヘッセン州の州都で、ヨーロッパで最も古い温泉保養地の一つに数えられる。州は異なるが、マインツとはライン川を挟んで隣接している。
ここも駅を起点に中心部を歩きまわった。保養地でありつつもかなりの大都市で、近代的な建物が並ぶ新市街と市庁舎の周囲の旧市街どちらも立派。もちろん、クーアハウスやカイザー・フリードリヒ浴場(ローマ式の混浴浴場)などからは現在も保養地として栄えていることが窺えた。

紋章は以下の通り。

Wappen der Stadt Wiesbaden

この紋章は16世紀の印章を起源としており、青い背景にアヤメを図式化した絵柄が三つ描かれている。この意匠は紋章学でフルール・ド・リスと呼ばれ、元来フランスに起源を持ち、中世のヨーロッパで好んで用いられた。現在の紋章は1906年に制定されたものである。

写真は市庁舎。中央上部に掲げられているのは古い紋章だろうか。


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