2014/12/19

2014/12/19


・クリスマスマーケット巡り

26. Germering
何の観光資源もなくミュンヘンのベッドタウンとしての役割に徹しているGermeringでも、3万人超の人口のおかげか毎日クリスマスマーケットが開催されている。地元の家族連れとおぼしき人々でまあまあの客入り。初めて聖ニコラウス(たぶん)が登場しているところに行きあった。


27. München, Harras
ミュンヘン南部のゼンドリング地区のクリスマスマーケットが目的地Bad Tölzへの乗り換え駅Harrasで開かれていたので寄り道した。SバーンとUバーン以外に中距離の私鉄も乗り入れており、ゼンドリングの中心なのだろう。移民が多いのか、市のポスターには「オクシデントとオリエント」だかがテーマとして載っていた。マーケットの片隅には厩と家畜が用意され、イエス降誕の場面を再現している。


28. Bad Tölz
ミュンヘン中央駅から南に一時間のBad Tölzは「歩き方」には載っていないもののオーバーバイエルンではまあまあ名の知れた観光地である。アルプスが近く、スキーや登山の拠点ともなっている。
クリスマスマーケットは駅方面からイザール川へ下るMarktstrasseが会場。坂道のクリスマスマーケットは初めてかも。上からは川の向こうの山々が臨め、通りのファサードも凝っていて観光地。なんと日本人三組くらいとすれ違ったので「歩き方」以外のガイドには載っていたりするのだろう。




2014/12/18

2014/12/18


・クリスマスマーケット巡り

19. Leipzig
ライプツィヒのクリスマスマーケットは市庁舎のあるMarktplatzを中心とし、周囲の歩行街にも露店が並ぶオーソドックスな構造。そのまま東のアウグストゥス広場まで屋台は続き、そこにも観覧車やメリーゴーラウンドなどのアトラクションがある。そこで食べたベビーカステラ的立ち位置の屋台菓子はのちにQuarkbällchenという名前だと判明した。


20. Dresden, Hauptstraße
クリスマスマーケット発祥の地ドレスデンでは、この時期スペースさえあれば所構わず市場が開かれているような状態だった。そんなドレスデンだが、エルベ川北岸の新市街で訪れたのはここ一ヶ所のみ。Hauptstraße沿いにテントが並ぶ形の市で、中心部からは遠いがさすがドレスデン、ここまで吸い寄せられている日本人もいた。


21. Dresden, Neumarkt
旧市街のフラウエン教会を取り囲むNeumarktを会場とするマーケット。観光地が密集している地区にあり、規模もまあまあ大きい。大きな教会を臨むロケーションが売りか。


22. Dresden, an der Frauenkirche
驚いたことに、上で挙げたNeumarktからわずか50mほどで別のマーケットが開かれていた。同じものが広場を挟んで分かれているだけじゃないかと思ったが、グリューワインのカップを見ると独自の会場名がプリントされており、主催者が異なるようなので別換算。会場は教会からエルベ川までの短い道で、訪れた時は大混雑だった。


23. Dresden, Postplatz
ツヴィンガー宮殿の中庭を南に抜けたところにあるポスト広場も例に漏れずクリスマスマーケット会場として用いられている。さすがに個性も何もなく、旧市街と少し離れているからか訪問客も少なめ。


24. Dresden, Striezelmarkt
1434年に始まり、今年で第580回を迎えるドイツ最古のクリスマスマーケット。Striezelはドレスデン名物シュトーレンの昔の呼び名らしい。ドレスデンがクリスマスの町となっているのも、ひとえにこのStriezelmarktの存在あってのことである。
さすが本丸だけあってひっきりなしに観光客が訪れる。また、他のマーケットよりも伝統工芸品や地元の食べ物を売る店が多いような印象を受けた。グリューワインのカップは特に特徴があるわけではなかったが、敬意を表し持って帰ることにした。


25. Dresden, Pragerstraße
Striezelmarktから中央駅に戻る道、プラハ通りにもマーケット。駅から旧市街へ徒歩で向かう人は必ず通る道なので、結構訪問者は多そう。しかし帰り道だとStriezelmarktの後なのでそこまで魅力的には映らず、ほぼ素通り。このあたりは東ドイツ時代に空襲後の再開発がなされたようで、無骨なビルが並んでいる。


2014/12/12

2014/12/12


・クリスマスマーケット巡り

14. München, Feldmoching
U2の終着駅Feldmoching駅でバスに乗り換える際、駅前広場でマーケットが開かれているのを見つけた。接続の間のため数分しか滞在していないが、グリューワインなどの屋号がただの紙なのが特徴。


15. Dachau
Feldmochingからバスで向かったのは以前一度収容所目当てに訪れたダッハウ。駅前からバスが出ているが、30分待ちだったので旧市街まで歩いた。旧市街は丘の上にあり、坂道を上らなくてはいけない。
どうしても収容所のイメージがつきまとうダッハウだが、宮殿を筆頭にそれなりの観光資源もあり、クリスマスマーケットにも力が入っていた。市役所の壁面の巨大アドベントカレンダーが目立つ。グリューワインもミュンヘン市内よりは安く、靴下の形をしたマグカップも気に入ったので飲んでカップも持って帰った。


16. München, Chinaturm
英国庭園の名物「中国の塔」のそばで開かれているクリスマスマーケット。平日昼間に行くとまだ開いていない屋台もあるなど、少し活気に欠けていた。塔と市のコントラストはどうなのか。


17. München, Münchener Freiheit
ミュンヘン北部の地区、シュヴァービングの名を冠したクリスマス・マーケット。会場ごとの個性が今のところそこまで見出せなかったクリスマスマーケット巡りにおいて、極彩色やサイケデリックなデザインに溢れたこの市はなかなか新鮮だった。シュヴァービングはかつて芸術家や作家が集まった地で、今もおしゃれなカフェや飲み屋が点在することで有名らしい。そのへんの地域としての自意識がマーケットの特性に反映されているのかもしれない。
夜も面白そうなので、もう一度訪問する予定。


18. Flughafen München
ミュンヘン空港でもクリスマス・マーケットが開かれていると知り、用もないのにわざわざ空港まで出かけた。空港なので屋内かと思ったのだが、ターミナル1とターミナル2の間の野外空間が会場となっている。トランクを持った人々に配慮してか、通路は広め。ここのツリーはドイツではかなり綺麗な部類に入る。会場の一角にスケートリンクがあり、ちょうど子供がちょっとしたショーを演じているのを見ることができた。


2014/12/11

2014/12/11


・Eisenbahn-Romantik

Eine Fahrt auf einer der beiden noch funktionierenden Eisenbahnlinien Madagaskars von Fianarantsoa im Hochland hinab nach Manakara an die Ostküste, in den betagten Waggons des "Dschungelexpress" bedeutet "Madagaskar pur".
マダガスカルで今なお機能している二つの鉄道路線のうちの一つ、高地のFianarantsoaから東海岸のManakaraへの年季の入った「ジャングル・エクスプレス」に乗っての旅は、「純マダガスカル」だ。

昨日の鉄道模型が退屈だったのでさかのぼるのはやめ、面白そうなのを見ることに。ということで今日はマダガスカル特集。FianarantsoaからManakaraへの162.8kmに12時間かける恐ろしい旅とともに、車窓や沿線地方でのマダガスカルならではのスポットも扱う。

今更最貧国のテンプレである切符売り場、車内、線路沿いの光景に衝撃を受けたりはしないが、やっぱりこういうとこも行ってみたいなとは思う。一等車には結構フランス人の白人旅行者が乗ってたりした。
個人的に気にいったのはミシュラン製の可愛い車両。これはマダガスカルに現存する二台のうちの一台だとか。



・2015年からのMVV

今日ミュンヘン交通連盟MVVのホームページを見ていたら12月14日から適用されるという新しい路線図があがっていたので開いてみると、初見で少なくとも二つの変更点に気づいた。まず、ダッハウとアルトミュンスター間がS(バーン)AからS2になっているということ。これはHbfからダッハウでの乗り換えなしでアルトミュンスター方面にも行けるということか(ダッハウでピータースハウゼン方面との切り離しがあるかも)。第二に、S6の路線がEbersbergまで延ばされたうえで、さらに東駅で分割されている。S6の多くが東駅止まりで運行していたのは知っているが、路線図上でのこの変化が何を意味しているのかは時刻表を見るまで分からない。

その他の変化には気づかず。もし時刻表も変わるなら、日中のU2のHarthof行をなくして全てFeldmoching行にしてほしい。Harthofは最寄駅の一駅手前であり、帰るとき苛々する。


2014/12/10

2014/12/10


・Eisenbahn-Romantik

昨日に続けて二作目。ルクセンブルクで開催された鉄道模型の見本市を取材したビデオ。アルプス、フランスの坑道、チェコ、ポーランド、70年代アメリカなど現実であれば架空でもある様々な場所を題材に、ヨーロッパ中から鉄道模型の作り手が集まっていた。作者へのインタビューも多く、実はモデルとなった場所には行ったことはないが資料を集めて完璧に再現したとかそんなことを語っている。鉄道模型とはいえ、注目されるのは車両そのものより景観の方のようで、一片の葉の精緻な作りなどが強調される。

個人的に鉄道模型はあまり興味がないが、興味がないながらなぜ昔の風景を題材としたものが多いんだろうかと思った。まあリアルで取り戻せないからこそ模型で再現というのも分からんでもないが。


2014/12/09

2014/12/9


・Eisenbahn-Romantik

Taiwan - kleine Insel, großes Bahnland
Für uns Europäer ist Taiwan ein ziemlich unbekanntes Land. Seine Bewohner lieben das Zweirad – hunderttausende sind täglich damit unterwegs-, aber sie lieben auch die Eisenbahn. Immer bleibt Zeit für einen höflichen Umgang miteinander. Das fällt dem Besucher als erstes auf. Die portugiesischen Eroberer nannten Taiwan „Ilha formosa“, die schöne Insel.... und sie hatten recht.
台湾―小さな島、大きな鉄道の国
我々ヨーロッパ人にとって台湾はあまり知られていない国だ。住人は二輪車を好む―毎日数10万人がそれで移動している―が、また鉄道を愛してもいる。いつでも、互いの礼儀正しい人付き合いのための時間が残っている(どういうこと)。訪問者にはまずそれが際立って見える。ポルトガルの征服者は台湾を「イル・フォルモサ」、美しい島と名付けた・・・そして彼らは正しかった。

ドイツのテレビ局SWR(南西ドイツ放送)のEisenbahn-Romantik(鉄道ロマン)という番組がyoutubeにあがっており、台湾が特集された回のを見てみた。引用文にもあるようにドイツ人にとって台湾は縁遠い土地であり、台湾そのものの紹介にも多くが費やされていた。

まずは台北Hbfからスタートし、車窓や運転席、検札などの様子が流れる。日本占領時代の名残りらしく運転士は未だに「オーライ!」と言っていた。台湾の車掌はドイツ人から見ると「礼儀正しく「模範的」らしい。

続いて諸都市の紹介へ。高雄では世界で最も美しい地下鉄駅と言われたりもする美麗島駅が、台南では台湾の歴史とともにゼーランディア城が映される。どちらも懐かしい。そして鉄道番組らしく、阿里山登山鉄道や集集線も逃さない。日ノ出を目指す祝山線は恐ろしい人の量だった。最後に彰化県にある「渓湖糖廠」という旧製糖工場、現博物館で走っているサトウキビ運搬用のトロッコ列車。これは知らなかったが、蒸気機関車はかなり本格的でおもしろそう。

台湾は暖かいだろうな。


2014/12/08

2014/12/8


・クリスマスマーケット巡り

10. Pfaffenhofen an der Ilm
ミュンヘンから30分ほどの小さい町Pfaffenhofenでも毎日クリスマスマーケットが開かれているが、僕が訪れたのは午前中であり、まだ屋台は閉まり準備すら始まっていなかった。市役所前の縦に長い広場が会場。


11. Ingolstadt
Audiの本拠地として有名なインゴルシュタットは、ドナウ河畔の旧市街も美しい中都市。旧市街は中央駅から4kmくらい離れており、隣の北駅の方が近い。知らなかった僕は中央駅からとりあえずバスで市役所前広場に向ったのだが、ちょうどそこがクリスマスマーケットの会場だった。平日昼間だったからか人の入りはそこまで。ちゃんと移動遊園地なんかもあるのはミュンヘン近郊都市との違いか。


12. Nürnberg, Handwerkerhof
中央駅から有名なクリスマスマーケット会場へと向かう道のりの途中、左手のHandwerkerhofという小さな広場でもう一つのクリスマスマーケットを見物することができる。ここは日本語で職人広場と呼ばれ、ニュルンベルクの伝統工芸品なんかを普段から売っており、この時期はそれぞれの店がクリスマス仕様になっているということらしい。ここで既に日本人観光客三組とすれ違った。さすがニュルンベルク。


13. Nürnberg, Hauptplatz
ニュルンベルクの中央広場ではドイツで最も有名なクリスマスマーケットの一つが開かれている。駅から広場までの道はイルミネーションで彩られており、地元の人びとと観光客がしきりに行き交っている。歩行街には屋台も出ており、既にグリューワインのカップを傾ける人の姿も。
中央広場はさすがの大きさと人出で、屋台が並ぶ列に入ると身動きもとれないくらいだった。正方形の広場に数列並行して屋台が並ぶというシンプルな構造で、屋台の種類は工芸品、食べ物、グリューワインに分けられる。余りに人が多いのでグリューワインを飲む人たちは一度広場から出て、周辺の商店の壁にもたれてカップ片手に歓談していたりする。夜のクリスマスマーケット特有の雰囲気で気分がよくなり、僕も一杯注文。ここはオリジナルのカップを使っているが、そこまで気に入らなかったので持ち帰りはしなかった。






2014/12/07

2014/12/7


・クリスマスマーケット巡り

6. Gauting
Starnbergに向かうS6沿線の町Gautingでも待降節の週末はクリスマスマーケットが開かれていた。駅から坂を下って数分、日曜日の閑散とした町で市役所前のマーケットだけは人が集まり賑わっていた。ほとんど訪問者は地元の顔見知りのようで、皆しきりに挨拶を交わす。
地面に木屑?が敷き詰めてあったのがここのマーケットの特徴。


7. Planegg
PlaneggはGautingからS6で二駅の町。整然とした駅前通りを進むと右手にクリスマスマーケットの会場が現れる。町の規模と比べるとステージもしっかりしており、力が入っている印象。とはいえ相変わらず地元の人びとしかいない。こういう小さい町でも工芸品や蝋燭、石鹸、衣類など売っているけど売り手は地元の人なのか、あるいはミュンヘンから来ていたりもするのか。ともかくいわゆる職人と呼ばれる職種の人にとってクリスマスマーケットは年間収入の大半を占める大イベントらしい。


8. Gräfelfing
GräfelfingはPlaneggの隣の駅だが自治体も違い、自らのクリスマスマーケットが存在する。駅前がすぐ会場の市役所広場で、ここはツリーがかなり大きかった。ようやく8会場目にして寒かったのでグリューワインを飲んだ。ミュンヘンだと一杯3.5ユーロなのが郊外のGräfelfingでは2.5ユーロだったのも理由の一つ。グリューワインのカップはその町オリジナルのデザインだったりするのだが、ここはそうではなかった。デポジット代が惜しまなければ返却せず持って帰ることもできるので、町の名前が記されたカップが土産としての価値を持つような町で主に用いられているのだと思われる。


9. München, Pasing
ミュンヘン西部のPasingは「Stadt in Stadt(都市の中の都市)」とも呼ばれ、Pasing駅周辺はミュンヘン市内からは独立した核を形成している。ただクリスマスマーケットは小規模で、週末のみの開催。上記三都市と比べると人の入りが圧倒的に多かったのはさすがミュンヘンというところか。教会の前が会場で、ちょうど子供たちが歌っていた。


2014/12/06

2014/12/6


・クリスマスマーケット巡り

待降節以来ひたすら周辺都市のクリスマスマーケット巡りに心血を注ぐ日々であり、せっかくなので記録をつけておく。

1. München, Residenz
ミュンヘンに数多くあるクリスマスマーケットのなかで最初に開幕したのがここ。時間があったので開会式に出席し、楽隊の演奏と代表者のスピーチを聞き、中世ドイツ的な音色が響くなか一通り店を見て回った。特に観光地として有名なわけではないようで、開会式に訪れていたのは地元のご老人が主だった。とりあえず、本当に皆グリューワインを飲むことがわかった。

2. München, Marienplatz
ミュンヘンの中心マリエンプラッツで催される市内最大のクリスマスマーケット。広場だけでなく、カールス門からの歩行街にも屋台が連なっている。ここの開会式も観に行ったのだが、レジデンツとは異なり観光客でかなり賑わっており、遠目から市庁舎のバルコニーで演奏する楽隊を眺めていた。スピーチの終わりでツリーの点灯が行われ、一層の盛り上がりを見せた。


3. Vaterstetten, Baldham
クリスマスマーケットは待降節からクリスマスイヴまで毎日行われる場合と、週末のみ、あるいは待降節の週の週末のみ開かれる場合がある。後者はだいたい小さい町であり、ネットでも十分な情報が得られないことも多い。Vaterstettenもそれにあたっており、開かれているという話だった日に行ってみるとまだ準備中のようだった。まあその日が記されたポスターが貼ってあったりはしたので、夕方からだったのかもしれない。


4. Freising, Altstadt
フライジンクは定期券が有効のミュンヘン近郊都市のなかでは最大の都市。クリスマスマーケット目当てに訪れたのだが、十分町だけで見どころが多く、むしろマーケットの方は市の中心部と比べるとやや寂れた印象だった。観光客がわざわざフライジンクまで来るはずもなく、地域のお祭りといった様相だった。根付いたとはいえ日本人にとってクリスマスは舶来品であるが、ドイツ人にとってのクリスマスマーケットは日本の夏祭りなんかと同じ役割なんだろう。


5. Freising, Domberg
訪れるまで知らなかったのだが、フライジンクではもう一つ大聖堂前の広場でもクリスマスマーケットが開かれていた。どちらかというとこっちの方が賑わっていた印象。ドムベルクという丘の上にあり、フライジンク市街を一望できる。



とりあえず今日はここまで。

2014/12/02

2014/12/2


・読んだもの

Wolff, Larry. The Idea of Galicia: History and Fantasy in Habsburg Political Culture. Stanford, 2010

しばらくサボっていたが再開。

p.7
「いかにして想像/創造された存在が、19世紀に地政学的にリアルな、有意味の、歴史的存在となったのか―20世紀に再び幻想の領域へと退いてゆく前に」
「本書は近代ハプスブルク史における東ヨーロッパの啓蒙概念のイデオロギー的な力と持続性を扱う」

2014/11/28

2014/11/28


・読んだもの

von Hagen, Mark. „“Kriege machen Nationen”: Nationsbildung in der Ukraine im Ersten Weltkrieg,“ in Andreas Kappeler (Hg.), Die Ukraine : Prozesse der Nationsbildung. Köln/Weimar/Wien, 2011

Fedyshyn, Oleh. Germany’s Drive to the East and the Ukrainian Revolution 1917-1918. N.Y., 1971

2014/11/27

2014/11/27


・歴代在ウクライナ大使

今日ウクライナ語版Wikipediaを物色していたらНадзвичайні і Повноважні Посли країн Європи в Україніという項目が面白かったので少し書いておくことに。直訳すると「ヨーロッパ諸国の在ウクライナ臨時大使及び全権大使」ということになるが、二つの形容詞をこう愚直に訳していいのか分からない。検索してみるとНадзвичайні і Повноважні Послиひとまとまりの用法が結構見つかるので、これで一般的には大使を指すのかもしれない。

この項目の著者はウクライナ人民共和国及びヘトマン国家と現在のウクライナの連続性を推す立場にあるようで、ドイツのウクライナ占領政策ではお馴染みのMummやオーストリア=ハンガリーのJohann Forgáchに加え、法的あるいは事実上ウクライナを承認していたブルガリア、フィンランドなどの国々の使節、さらにはただ交渉のための使節を送っていただけの英国やフランスの外交官の名も挙げられている。フランスのJean Pélissierや英国のJohn Picton Baggeなどはそれぞれフランス語版、英語版Wikipediaに記事がなく本国では取るに足らない人物のようだが、ウクライナ語版にはしっかり個別の項目がある。この時代にウクライナが主権国家として国際社会デビューを果していたことを示したいのだろうか。

そして酷いと思ったのはドイツの初代大使として扱われているAdalbert von Magdeburgという人物。彼は10世紀の初代マグデブルク大司教であり、どうやら若いころキエフ・ルーシの大公妃オリガから神聖ローマ帝国のオットー1世が要請を受け、キリスト教布教のための使者として派遣されたらしい。こんなの年代記の世界で、おそらくルーシの年代記と西側の記録で齟齬もあるだろうに、「ウクライナ史」では彼のキエフでの布教活動はウクライナ世界が西欧と結びついていた証として記憶されているのだろうか(そもそも、「ドイツ」の初代大使と言うことは「ドイツ」の連続性においても大いに問題・・・)。

まあWikipediaに突っ込みをいれること自体が馬鹿らしいのだが、こうして書いてまとめると少なくともその間は頭が働くから良い。

2014/11/24

2014/11/24


・読んだもの

Julien, Elise. Der Erste Weltkrieg. Darmstadt, 2014
S.25-32

ドイツには「歴史論争」と題された学部生向けの教科書のようなシリーズがあり、フィッシャー論争の現在地を探るため「第一次世界大戦」の巻を少し読んでみた。
いざ読んでみると60年代の論争最盛期についての叙述は充実しているが、現在は簡単に言えば相対主義が支配的であり、フィッシャー論争が正しいか否かなどという問いが成立する時代ではないのかと感じた。「ドイツの戦争責任の重さ」「ドイツの拡大志向」というフィッシャーのテーゼの一部は「最低限の合意」とされているものの、歴史学上の合意は未来の論難に対して不死身というわけではない。その例がChristopher Clarkの著作『夢遊病者たち』であり、開戦期の指導者たちの「夢遊病者」的な行動様式と集合的な政治の機能不全を強調して相対主義的アプローチをとる一方、セルビア、ロシア、フランス(独墺は正しく振る舞った)という新たな戦争責任のヒエラルキーを提示している。Clarkの著作がドイツでかなり売れているのはこちらに来てから実感しており、著者の立場を大まかに知れたのは良かった。

著者のElise Julienはパリとベルリンで学び、第一次世界大戦で博士号取得、リールの研究所で教えている。彼女はペロンヌの大戦博物館の顧問、及び「1914-1918オンライン」の編集委員会のメンバーである、とのこと。

2014/11/21

2014/11/21


・読んだもの

①Bihl, Wolfdieter. „Einige Aspekte der österreichisch-ungarischen Ruthenenpolitik 1914-1918,“ in Jahrbücher für Geschichte Osteuropas 14, 1966
②Bihl, Wolfdieter. „Die Beziehungen zwischen Österreich-Ungarn und Russland: in Bezug auf die Galizische Frage 1908-1914,“ in Karlheinz Mack (Hg.), Galizien um die Jahrhundertwende: Politische, Soziale und Kulturelle Verbindungen mit Österreich. Wien/München, 1990

①は第一次世界大戦時のハプスブルク帝国のルテニア人政策を扱った論文。「ウクライナ人」への改名問題から新暦の導入、難民、捕虜兵など多くの領域についてそれぞれ軽く触れるという感じで統一的な「ルテニア人政策」像はあまり見えてこない。在米ウクライナ人組織の活動は初見であり、ハンガリーが既にかなり国民国家的価値観で帝国政府に反発していたことがわかったのは収穫。

②は第一次世界大戦直前の墺露関係を主題とした論文。ボスニア併合以後のバルカン危機がまず前面におしだされがちだが、ガリツィアも対立の焦点の一つだった。ガリツィアのポーランド人、ウクライナ人に加え帝国政府、ロシア帝国政府、ロシアのポーランド人など様々なアクターに着目し、①よりかなり厚みがある(まあ24年後だし)。特に墺露対立が先鋭化するほどポーランド、ウクライナのそれぞれのナショナリストは利益を引き出しやすくなるため、境界地域では対立が煽られることもあった。


このWolfdieter Bihl(1937-)という人はオーストリアの歴史家で、まあ「自国史」としてこのテーマに従事していたようだ。博士論文は「オーストリア=ハンガリーとブレスト・リトフスク講和」。教諭資格を得たのは「中欧列強のコーカサス政策1914-1918」。専門は中欧列強と東・南ヨーロッパ、オリエントとの関係であり、ウクライナ、オスマン帝国、第一次世界大戦の歴史が中心である。1977年にウィーン大学の教授となり、2002年に退職した。2010年に第一次世界大戦の通史を出版している。

2014/11/17

2014/11/17


・読んだもの

Kappeler, Andreas. Die Kosaken : Geschichte und Legenden. München, 2013

ドイツ語通読三冊目。僕のなかで未だ断片的だったコサックのイメージにようやく大まかな輪郭ができた。少なくとも、混乱を生む原因となっていたドニエプル・コサックとドン・コサックは今後しっかり読み分けられるだろう。

S.33 フメリニツキーは対ポーランド戦争を組織する際、意識的に「カトリック対正教徒」という構図を利用した(ブレスト合同でユニエイトが生れ、正教徒がカトリックに取り込まれることが危惧されていた時期だった)。そのため、フメリニツキーの蜂起はヨーロッパの宗派化の枠組みにおける宗教戦争としても理解し得る。

S.52 非コサック農民らからの反発も多く地方反乱の域を出なかったドン・コサックの蜂起に対し、ドニエプルの蜂起はなぜ下層の人びとも巻き込んだ全ウクライナ的反乱となったのか。第一に、中央専制国家ロシアの方が、緩やかな貴族共和国のポーランド・リトアニアより手ごわかった。第二に、ドニエプル・コサックの方がはるかに数が多かった。そして根本的に重要だったのは、ドニエプル・コサックがウクライナ貴族の一部や正教と同盟していたことである。とりわけ、カトリック・ポーランドに対するウクライナ人民の宗教同盟は彼らの成果の決定的な要素だった。ドン・コサックの蜂起にも確かにムスリムや旧儀式派が参加していたが、大多数は敵と同じロシア正教徒だった。

S.74 十月革命後、クバンでの人民共和国について。クバン・コサックにはウクライナ入植民が多く、ウクライナ人民共和国やヘトマン国家との合同を模索していた(このあたりは長尾久が書いていた気がするのでもう一度読む必要あり)。


19世紀に皇帝と祖国の忠実な守り手(ボリシェヴィキ曰く"Schergen"、「国家権力の手先」)となったコサックがロシア革命とその後の内戦、そして第二次世界大戦で果たした役割に関してはより深める必要あり。あと、ウクライナ・ナショナリズムとコサック神話の結合は緊密すぎるので分かりやすいが、ロシア・ナショナリズムにおけるドン・コサックの居場所についてはいまいちはっきりしてしない。コサックこそが「ロシア性」なのか、ロシアの多元性を代表する一要素なのか。

2014/11/14

2014/11/14


・読んだもの

Fedyshyn, Oleh. “The Germans and the Union for the Liberation of Ukraine, 1914-1917,”  in Taras Hunczak (ed.), The Ukraine, 1917-1921 : A Study in Revolution. Cambridge, 1977

第一次世界大戦時に中欧列強の支援を得て活動していたウクライナ解放同盟(定訳はあるのか?)を主題とする論文。まずウィーンに拠点がおかれ、やがて1915年にベルリンが活動の中心となった。
ウクライナ・ナショナリズムに寄り添う立場ではこの組織の意義を過大視してしまいそうだが、本論ではこの組織が戦前の中欧列強の拡大志向になんら根を持っていないこと、また金銭的支援も比較的少なかったこと、そして中央ラーダの1917年から18年にかけての革命行動は解放同盟とは全く独立して生じたことが示されている。直截的には述べていないが、著者は「ドイツとオーストリアは長らくロシア帝国の解体のためウクライナのナショナリストを陰で支援しており、第一次世界大戦で敵国となって以後はそれが大々的に行われ、中央ラーダもドイツの手先として行動していた」というロシア寄りの史観に反論しているように見える。むしろロシアと帝国秩序を共有していたドイツとオーストリアが(ポーランド分割の共犯関係、等々)、ロシアが解体しその秩序が崩壊するのを望むはずがない、と帝国論的な視点もあって興味深かった。

2014/11/03

2014/11/3


・読んだもの

Hausmann, Guido. “Die Kultur der Niederlage : Der Erste Weltkrieg in der ukrainischen Erinnerung.” in Osteuropa 64/2-4, 2014

ドイツ語の東欧史専門誌が今年組んだ第一次世界大戦特集に寄稿された、ウクライナにおける大戦の記憶について扱った論文。その時代、Stepan Rudnyc'kyjという地理学者がドイツ語圏における地域概念としてのウクライナの普及にかなり大きな役割を果たしたらしい。さらにウィーンで活動していたガリツィア・ウクライナ人たちの組織"Bund zur Befreiung der Ukraine"(ウクライナ解放同盟)の存在やルーデンドルフのクリミア半島植民地化構想など、ドイツ語論文ならではの知識が得られ有益だった。

著者のHausmannはLMUにいるらしいが、今学期はどうも授業が見つからなかった。来学期のゼミのテーマによってはぜひ指導を受けたい人物。

2014/10/27

2014/10/27


・読んだもの

Pelenski, Jaroslav. “Hetoman Pavlo Skoropadsky and Germany (1917-18) as Reflected in His Memories,” in Hans-Joachim Torke and John-Paul Himka (ed.), German-Ukrainian Relations in Historical Perspective. Edmonton/Tronto, 1994

これは少しスコロパツキイに寄り過ぎか。彼をリアリストとして描きたいようだが、あくまでも帝政期のリアリストであり、ウィルソンとレーニンの時代のリアリストではないだろう。

2014/10/26

2014/10/26


・読んだもの

Himka, John-Paul. “Sheptyts’kyi and the Ukrainian National Movement before 1914,” in Paul Robert Magocsi (ed.), Morality and Reality : the Life and Times of Andrei Sheptyts’kyi. Edmonton, 1989

シェプティツィーとウクライナ民族運動、そして宗教とナショナリズムの間の緊張関係について。

2014/10/25

2014/10/25


・Holzkirchen
Holzkirchen ist ein Markt im oberbayerischen Landkreis Miesbach. Die Gemeinde liegt ca. 30 km südlich der Landeshauptstadt München und jeweils ca. 20 km nördlich des Tegernsees sowie der Kurstadt Bad Tölz. Holzkirchen ist die bevölkerungsreichste und wirtschaftlich stärkste Kommune des Landkreises.
ホルツキルヒェンはオーバーバイエルン、Miesbach郡のマルクトである。その自治体は州の首都ミュンヘンの約30km南、またTegernsee及び保養都市バッド・テルツの約20km北に位置している。ホルツキルヒェンは郡のなかで最も人口が多く、経済的に強力な自治体である。

今日はSバーンの終点であるHolzkirchenを訪問した。郡で最も人口が多いといっても1万5千人ほどであり、全然大したことはない。しかしアルプスに向かう私鉄BOBとローゼンハイムに向かうこれも私鉄のMeridianが乗り入れており、駅の規模は大きい印象だった。

駅から町の中心Marktplatzまでは徒歩10分ほど。教会と市場、市役所という何の変哲もない広場だが、それなりの美しさは保障されているのがさすがバイエルンというところ。土曜日だったからかある程度の人波も見られた。

帰りは違う道を通り、HEP=Holzkirchen Einkaufparadiseという小さなショッピングセンターを素通りして駅に戻った。次は私鉄Meridianを用いて別の町へ向かうつもりだったのだが、電車は30分後。先週の気温ならば待つのだが、ここ数日オーバーバイエルンの最高気温は10度前後を推移しており、今日もかなりの寒さ。そして時刻表を見れば15分ほどでミュンヘン中央駅行の列車がやってくるという。Holzkirchenを見て次の町にも大した期待を抱いていなかったこともあり、すぐにそれに乗ってミュンヘンに帰ることに決めた。

バイエルンの町には必ずある柱



2014/10/22

2014/10/22


・読んだもの

Bihl, Wolfdieter. “Sheptyts’kyi and the Austrian Government,” in Paul Robert Magocsi (ed.), Morality and Reality : the Life and Times of Andrei Sheptyts’kyi. Edmonton, 1989

Borowsky, Peter. “Germany’s Ukrainian Policy during World War I and the Revolution of 1918-19,” in Hans-Joachim Torke and John-Paul Himka (ed.), German-Ukrainian Relations in Historical Perspective. Edmonton/Tronto, 1994

アンドレイ・シェプティツキイ(Андрей Шептицький)

2014/10/21

2014/10/21


・ウクライナ語

ミュンヘンでの授業も三週目に入り、ようやく出席する授業が確定した。一コマだった予定のウクライナ語が二コマに増え、それに歴史学科の二コマを加えた四コマである。結果的にウクライナ語が半数を占めることになってしまった。

そのウクライナ語は今日が僕にとっては初回であり、恰幅の良いウクライナ人女性の厳しい授業で会話力もまずまず鍛えられそうだ(それにしても東スラヴ語はこんな教師しかいないのか?)。今日は既にロシア語を学んでいたことが有利にも働くが混乱をももたらすという一般的なイメージを実際に体験した。

2014/10/19

2014/10/19


・アンデクス修道院
Das Kloster Andechs ist heute ein Priorat der Benediktiner in Andechs in Bayern im Bistum Augsburg. Es ist seit 1850 Wirtschaftsgut der Abtei St. Bonifaz in München.
Das Kloster entstand am Ort der Burg Andechs, dem Stammsitz der Grafen von Andechs, die in direkter Linie 1248 ausstarben. 1455 wurde hier ein Benediktinerkloster durch Herzog Albrecht III. von Bayern-München gegründet, um einen 1388 hier aufgefundenen bedeutenden Reliquienschatz aufzunehmen. Die 1423 bis 1427 erbaute und ab 1751 von Johann Baptist Zimmermann im Rokokostil umgestaltete Klosterkirche Andechs war zunächst als Wallfahrtskirche errichtet worden. Der „Heilige Berg“ Andechs ist nach Altötting der zweitgrößte Wallfahrtsort Bayerns.
Die Klosterschänke ist dank ihrer Küche und ihres Bieres (Andechser) aus der Klosterbrauerei ein Magnet für Touristen und Einheimische.
アンデクス修道院は今日バイエルン州アンデクス、アウグスブルク司教区に属すベネディクト会の修道分院である。1850年以来ミュンヘンの聖ボニファス大修道院の所有物(Wirtschaftsgutって専門用語なのかな・・・)である。
その修道院は1248年に直系の途絶えたアンデクス伯爵の館であったアンデクス城の地に建てられた。1388年にここで発見された聖遺物を収容するため、1455年、ここにベネディクト修道院がバイエルン-ミュンヘンのアルブレヒト三世公によって設立された。1423年から1427年の間に建設され、1751年にバプティストのZimmermannによってロココ様式で改修されたアンデクス修道院付属教会は、まず巡礼教会として築かれていた。「聖山」アンデクスはAltöttingに次ぎ、バイエルンで二番目に大きい巡礼地である。
修道院付属の居酒屋は、その料理と修道院醸造所で作られたビール(Andechser)により、旅行者と地元民にとっての魅力となっている。
毎週末一日は外出に使おうということで、今日はミュンヘン南部のHeerschingという町にまず向かった。Ammerseeという湖に面した綺麗な町だったが、そこで有名な修道院まで歩いて5kmの散歩コースがあると書かれた看板を見つけ、気持ちの良い天気だったので歩いてみることにした。

Andechsは自治体も違う隣町であり、森の中をハイキング気分で歩いて1時間弱の道程である。修道院が唯一といってよい見どころで、かなり多くの人が集まっていた。せっかくなのでビールも飲みたかったのだが、修道院周辺の店はどこも満席状態で、仕方なく少し離れた駐車場の隅にあるミニゴルフ場の隅にある売店で瓶のAndechserを買った。

日曜日であり交通の便は良くないが、ちょうどよいタイミングでTutzingというSバーン駅に向かうバスが来たのでそれに乗車。TutzingはStarnbergerseeというAmmerseeより有名であろう湖に面した町である。そこも少し散策し、暑かったのでアイスを食べ、ストライキにより本数の減ったDBのローカル線でミュンヘンに戻った。

Ammersee
Kloster Andechs

2014/10/18

2014/10/18


・読んでいるもの

Kerstin S. Jobst, Geschichte der Ukraine. Stuttgart, 2010

レクラム文庫のウクライナの通史。だんだんかなりの好著だと分かってきたので一段落ずつメモをとりながらじっくり読んでいる。

①ガリツィアのRussophilenはウクライナのナショナル・ヒストリーからは裏切り者としての烙印を押されているが、その実ウクライナの民族運動の土台をつくったのは彼らだった。19世紀の前半、彼らはルテニア人に「ロシア的な起源」を広めることで、とくに宗教におけるポーランド人との違いを教えた。確かに、ガリツィアのルテニア人農民が理解できる参照軸は日常接する宗教しかないだろうな。そしてルソフィル→アンチ・ローマカトリック→ウクライノフィルと展開してゆく。

②1895/96年のパンフレットで初めてウクライナの独立を唱えた(らしい)バシンスキーという人物について。彼は社会主義者でありマルクス主義の解釈のもとウクライナの独立を唱えた、当然の帰結としてウクライナ国家も世界国家に溶解してゆく運命だった。また、彼はガリツィア・ルテニア人の起源をキエフ・ルーシではなく1848年革命時のガリツィア総督シュタディオン伯が強欲なポーランド人に対抗させるために産み出したものだとした(この皮肉は当時広く流布していたらしい)。彼の教義は影響力をもたなかったが、のちのナショナル・ヒストリーでは独立を最初に唱えた人物という部分だけが取り出され、民族主義の輝かしい先駆者とされた。


・読んだもの

Potul’nyts’kyi, Volodymyr. “Galician Identity in Ukrainian Historical and Political Thought,” in Christopher Hann and Paul Robert Magocsi (ed.), Galicia : A Multicultured Land. Toronto/Baffalo/London, 2005

ちょっと図式的にすぎる気もしたが。とりあえずウクライナ主義におけるガリツィアの位置づけが東ウクライナ出身かガリツィア内部からの視線か、あるいはどんな政治的立場化かによっていかに異なっていたかを示すもの。

2014/10/17

2014/10/17


・ビザ取得

今日はミュンヘン市の役所Kreisverwaltungsreferatにある外国人局Ausländerbehördeでビザの申請を行った。学生ビザ専用の待合室があるのだが、10月だとそのせいでかえってそのエリアだけ人が集中することになっている。開館後30分くらいで行ったのだが2時間半待たされた。

申請から受理までは20日くらいかかるという話だったのに、手数料を払った窓口ですぐに滞在許可のプリントされたパスポートが返却されたのには驚いた。ドイツ大使館のホームページにはそれぞれの書類にコピーが2部必要だと書かれているが原本だけで十分であり、写真も一枚だけでよかった。他の市では勝手が違うから念のため多めに書いているのかもしれないが、とりあえず僕は若干のコピー代を無駄にした。


・最近読んだもの

Magocsi, Paul Robert. “Galicia : A European Land,” in Christopher Hann and Paul Robert Magocsi (ed.), Galicia : A Multicultured Land. Toronto/Baffalo/London, 2005

Hrytsak, Yaloslav. “Historical Memory and Regional identity among Galicians Ukrainians,” in Christopher Hann and Paul Robert Magocsi (ed.), Galicia : A Multicultured Land. Toronto/Baffalo/London, 2005

Volker Berghahn, Der Erste Weltkrieg. Muenchen, 2003

これをやらないとブログ書いてる意味がなかった。光吉淑江がHrytsakについて何を書いていたか読み返さねば。

2014/10/15

2014/10/15


・ドイツ語書籍通読

今日、最近読み進めていたVolker Berghahn, Der Erste Weltkrieg. Muenchen, 2003を読了。ドイツ語の書籍を通読したのは初めてだが、LMUの図書館で借りた本なので、一週間かそこらで読めたことになる。まあ100頁ちょいのポケットブックだが。基本的には年代を追いつつも、「上から」の動きと同じだけの重点が「下から」の動きにも置かれており、女性や労働者などの被支配集団にも目配りが効いている。ただ紙幅の限界かドイツ中心だからなのか分からないが、民族問題への言及が少ないようには感じた。あとドイツ国内の諸侯の動きとかも知りたかった。

あと、今日はしばらく読んでいた日本語書籍の『狂王ルートヴィヒ』も読み終えた。ルートヴィヒ2世の評伝で、まあミュンヘンで学ぶ者としての通過儀礼。

2014/10/14

2014/10/14


・語学学校

今日から今学期の間大学の授業と並行して通う語学学校の授業が始まった。週に二時間×2が二か月ということでそこまでの負担にはならないし、日常会話ではなく学問で用いるドイツ語が学べるということで受講することにした。

今回は会話コースではないので人数も30人弱と多め、LMUと提携している学校ということもあってかメンバーもヨーロッパ人がほとんどで、メキシコ人の機械技師が多数派だったケルンの語学学校と比べるとかなりの違いがあった。日本人も僕の他にあと二人いた。
11月からは受講生のプレゼンテーションとディスカッションが主になるようで、来学期からゼミにも出たいと思っている僕にはありがたいプログラム。まあがんばる。

2014/10/13

2014/10/13


・ENDLICH DEUTSCH!

ここ数日WDRというケルンのテレビ局が制作しているENDLICH DEUTSCH!というドキュメンタリー仕立てのドラマを見ていた。ケルンでドイツ語を学ぶ様々な国から来た人々を主役とした物語で、ネットに公開されているうちでは最終話となる第四話で彼らが試験に合格しドイツ市民権を手にすることとなり、タイトルのDEUTSCHはドイツ語ではなくドイツ人を指しているのだと分かった(ENDLICHは「ついに」くらいの意味)。
出演者の話すドイツ語がまあまあ聞き取りやすいのと時折映るケルンの風景へのノスタルジーとで見ていたのだが、出身国に応じて振り当てられた国民性、あるいは個性もめちゃくちゃでありながら愛すべきという感じで描かれており(ギリシア人は家にヤギを飼い、ロシア人は大人しいがウォッカを飲みまくり挙句の果てにアルコール中毒で死に、セルビア人は裸体主義者で戦争の話題に触れられると激昂、日本人は一言も話さないが優秀)、こうやって移民受入れ国家の土壌は培われていくんだろうとか思っていた。一人登場する人種主義者の男が出演者とは正反対に憎むべき人間として描かれているのも抜かりない。

http://www.ardmediathek.de/tv/ENDLICH-DEUTSCH/Sendung?documentId=23651140&bcastId=23651140

2014/10/12

2014/10/12


・ダッハウ強制収容所
Das Konzentrationslager Dachau, in der Folge KZ Dachau genannt, bestand vom 22. März 1933 bis zur Befreiung durch Truppen der US Army am 29. April 1945. Das NS-Regime errichtete es wenige Wochen nach seiner Machtübernahme; das KZ Dachau war während der Diktatur des Nationalsozialismus eines der bekanntesten Konzentrationslager (KZ).
ダッハウ強制収容所―のちにKZダッハウと名付けられる―は1933年3月22日からアメリカ軍による1945年4月29日の解放まで存在していた。ナチ体制が権力掌握後数週間でそれを設置した:KZダッハウはナチズム独裁のあいだ、最も知られた強制収容所(KZ)であった。
今日は現在おそらくアウシュヴィッツに次いで名が知られているであろうナチの収容所、ダッハウ強制収容所を訪れた。ダッハウは旧市街や宮殿もあるバイエルンの普通の町であるが、やはりその名を聞いて頭に浮かぶのはまずこの収容所であろう。
ダッハウはミュンヘンの郊外、Sバーンで15分ほどの距離にあり、収容所は駅からバスで10分ほどの場所に位置している。日曜ということもあってか、駅から収容所までのバスは「まるで強制収容所」という不謹慎な形容が思い浮かんでしまうのほどの混みようであった。

入口の門にはアウシュヴィッツと同じくArbeit macht freiの一文。門をくぐれば収容所特有の薄ら寒くなる広大さに出迎えられる。
多くのバラックが残されていたアウシュヴィッツ・ビルケナウとは異なり、ダッハウのバラックはほとんどが解体され、一部が博物館や展示用に残されている。博物館の展示はかなり充実しており、12年間での収容所の役割の変遷が詳しく綴られている。 とくに囚人の内訳の変換の展示が興味深かった。悪名高い人体実験の記述は読んでいて気持ち悪くなる。
ここはアウシュヴィッツのような絶滅収容所ではなかったらしいが、収容所の隅にはシャワー室を偽装したガス室が設置されていた。そのそばには囚人の多くが信仰していたのであろうユダヤ教、カトリック、プロテスタント、正教の四つの礼拝堂が彼らの安らかな眠りのため、並んでいた。

アウシュビッツほどの直截的な衝撃はなかったが、これがナチ体制の多くの収容所のモデルであったと思うと、やはり彼らの行いは全く非人間的であったと感じざるを得ない。

「労働は自由をもたらす」
収容所
偽装シャワー室

2014/10/11


・特になし

四連休の二日目、今日は髪を切る予定だったが取りやめ、読書を中心に日本での休日と変わらぬ一日を過ごした。逆にこういう日があると「留学」が始まったんだなと実感する。非日常感のあったケルンの日々とは違う。

最近はVolker Berghahnの第一次世界大戦についてのペーパーバックを読んでいるのだが、調べていたら今夏邦訳が出ていたことを知った(しかし原著9Euroが3000円超・・・)。ついでに第一次世界大戦で検索をかけたら、木村靖二が新書を書いていたり(留学前だったのに気付かなかったらしい)、マイケル・ハワードの翻訳が出ていたりと一応ブームは持続している模様。

2014/10/10

2014/10/10


・バイエルン州立図書館

僕が通っているミュンヘン大学のメインの建物Hauptgebäudeの向かいにバイエルン州立図書館がある。今日は授業がない四連休の初日であり、一日過ごすつもりでそこに行ってみた。ドイツ国内でもかなりの所蔵数を誇る図書館のようで、Worldcatで日本にない本を検索するとここには置いてあると出ることも多々あり、留学前から訪れるのを楽しみにしていた。

中に入ると早速備え付けのPCを立ちあげ、予めリストに入れておいた本をざっと眺める。この図書館は大学図書館と提携しており、先日入手した大学図書館のアカウントでそのままこの図書館のOpacシステムにもログインできるのだ。
開架式の図書館ではないため読みたい本をOpac上で注文する必要があり、ここで試しに気になる数冊を注文すると受取りは10月16日から可能になると言われた。開架でないのは予想していたが、まさか受取りに一週間弱もかかるとは思っていなかった。
雑誌コーナーは開架になっており、ロシア・東欧史関連の専門誌の充実ぶりを確認して満足。そのあとは持参した本を読み、結局昼過ぎにはすることもなくなって帰宅した。今後は欲しい本は早めに家で注文しておくべきだと学んだ。

2014/10/09


・授業初週終了

火曜日から木曜日までにしか授業を取らない僕は今日でミュンヘンでの授業日程の初週が終了したこととなる。とはいっても五つとるうちだったひとつは老人に怯えて既に切ったし、二つは来週が初日なので火曜日と今日それぞれ一つずつの授業に出席したのみである。来週からは語学学校の授業も始まるし、今週はウォーミングアップ程度と見なすべきだろう。
今日の授業は「ロシアとアジア」が主題であったが、教授の専門は日露戦争ということだった。教授の口からいずれ日本人の名や日本の地名が飛び出すかと思うとそれはそれで面白そうだが、僕としてはタタールやトルキスタンの征服の部分に興味がある。それにしても、パワーポイント授業なのでなんとかなりそうだが、聞き取れない・・・。

2014/10/08

2014/10/8


・授業後に机を叩く学生たち

昨日の記事で触れたが、ドイツの学生たちは授業終了の際片手で机をドンドンと叩くことで拍手に似た表現をする。気になって少し調べてみたが、日本語ではその事実は紹介されているものの起源に関する解説は見つからなかった。
そこでドイツ語で検索してみると2002年と古いがちょうどこの伝統を扱った記事があったので今日訳してみた。


なぜ学生たちはトントンと叩いて喝采を示すのか?

学生が授業のあとに喝采を打ち鳴らすとき、彼らはそれによって古き慣習に従っているのだ。ドイツ学生史協会のFriedhelm Golueckeは長らくこの領域で研究しており、我々にここで喝采表明の歴史への簡単な見通しを与えてくれる。

宗教改革の時代、学生寮(Bursen―教師と学生の住宅、教育組合だ)への強制が廃止されると、学生たちは自発的に同郷組合、今日まで広まってきた結合で組織した。それは19世紀の終わりまで、実際は学生の代表であった。それは学生たちの振舞いの規範を定めた―学生組合に属していない者にもである:いわゆるFinke、Kamel、Wilde、Obskurantに対してだ。(訳注:これらは順にアトリ、ラクダ、野蛮人、反啓蒙主義者の意であり、どれも学生組合に属していない学生を軽蔑的に指すとき用いられるようだ)
学生たちの相互関係にとって最も重要な規則は、コメントにおいて定められた。表彰の正式な儀式や、不快感に至るまでである:Vivat!(ラテン語、万歳!)あるいはPereat!(ラテン語、くたばっちまえ!)。学生寮で修道院に似た生活が支配的であったことを顧慮するならば、学生寮の解散でも簡単には放棄されなかった非常に古い伝統が一緒に付いてくることもあった。他方で、新たな影響も効果を持つようになった。例えば、啓蒙的なフリーメーソンと、彼らの集会所での慣習を通じて、である。

教育の範疇での学生による喝采と不快感の表明は、簡単には固定されなかったようだ。それは時間的にも、場所的にも相違している。起源は、たいていはっきりとは見つからない。時に、このような学生の表明は二義的でもある。18世紀後半から19世紀半ばにおけるアカデミックな教師の「口笛の野次」、それは今日一般的に、大学の外においても慣例となっているが、大学では新入生―「キツネ」たちの全く軽蔑的ではない挨拶をも意味することがあった。

似ているのが、新入生による講義の際の「太鼓叩き」であり、1800年ごろ、棒で床を突いていたのである。それは歓迎の挨拶だったが、しかしまた教授にとっては不快感の印ともなりえた。18世紀の終わりごろ、この場合こぶしが机に打ち付けられるようにもなった。

しかし同時に不快の印として既に「床を足でこする」と「シューシュー音を立てる」ことが知られていたので、机を叩くのは教師たちにとって喝采の表明へと変わっていったようだ。後に棒を講義に持っていくことはなくなったので、この場合足を踏み鳴らすことも慣例となった。

http://www.spektrum.de/frage/warum-bekunden-studenten-durch-klopfen-ihren-beifall/589114

2014/10/07

2014/10/7


・授業初日

今日は二つの授業に出る予定だったが、四限(たぶん)の「景観史」はだだっ広い教室に老人が10人ほどまばらに座っているのみという授業開始時刻の光景に怖気づき帰ってきてしまった。
二限の「19世紀の暴力」は、現代からの視点を前面に押しだした授業で、若干のinteraktiv志向もあり形式は好きではないが、内容には関心があるので今後も出席するつもり。こちらは200人くらいの学生と老人が集った人気授業だった。肝心の聴き取りは、教師の自己紹介や事務的な話はほとんど聞き取れず、授業内容に入るとなんとか筋は理解できるという感じだった。パワーポイント授業なので、ちゃんと文字の読める位置に座ればまったくついていけないということにはならないと思う。そして、授業終了と同時に学生が一斉に机を叩きだしたのは驚いた。調べてみたら想像通り拍手と同義のようだ。

4時間ほど空き時間があり学期中に通う語学学校の手続きを済ませ、さらに余った時間で歴史学科の図書館を訪れた。歴史学科だけで五階分、素晴らしい。今日は寝たかっただけなのだが寝てる人が見当たらなかったので机に突っ伏す勇気は出ず、HimkaのReligion and Nationality in Western Ukraineを席に運んで数ページ読んだのち座ったまま寝た。

2014/10/06

2014/10/6


・ミュンヘン入り

一ヶ月ぶりの更新。余りにも呆気なく更新が滞ったことに自らもいささか驚いている。

10月1日に寮に入り、学生証その他重要書類の受取り、各方面での住所変更、生活物資の買い出しなどにここ数日は追われていた。歴史学科で行われた留学生向けのオリエンテーションにも参加し、だいたいの学事進行も頭に入った。授業は今日から始まっているのだが、月曜日は休みにしたので初めての授業は明日である。とりあえず初週は五コマ出席し、後におそらく一つは削るだろうという計画だ。
取る予定の授業は「19世紀の秩序と暴力」「景観史」「ウクライナ語」「16世紀から19世紀のロシアとアジア」「ロシア革命」である。シラバス的なものを見るとどれも概説のようだが、それでも日本で行われている特殊講義に比べればかなり詳しいテーマを扱っている。
それに加えて、大学と提携している語学学校が「学問のドイツ語」みたいな授業を週二回、夜に開講しているのでそれも受けるつもりだ。

明日からは本職の方の勉強を本格的に再開する予定なので、そのことについてだけでもブログを続けていきたいが・・・。

2014/09/01

2014/9/1


・ドゥッセルドルフとケルン

ケルン人のお気に入りのネタが、ドゥッセルドルフとケルンの争いだというのは、こちらに来てから知ったことだ。人口はケルンの方が多いが、州都はドゥッセルドルフである。観光資源はケルンに多いが、ドゥッセルドルフは日本を始め様々な企業の誘致に成功しており、豊かなのはドゥッセルドルフである。外国人の目から見ればケルンには大聖堂があるしとか思うが、ドゥッセルドルフに行ってみるととても近代的な都市で、ケルンにないものがあり、ケルン人の羨望も理解できると感じた。
この争いについて、ドゥッセルドルフの雑誌の記事を見つけたので訳してみた(当然、読む量を増やすためである)。



太古よりの争い:なぜケルン人はドゥッセルドルフが嫌いなのか?

ドゥッセルドルフ。ケルンとドゥッセルドルフのライバル関係は多くの面を持っている。DEGメトロスターズ対ハイエ、アルト対ケルシュ、Helau対Alaaf。多くは本気で言われているわけではない。しかし―中世より今日まで、両者の当時より非常に異なっていた都市の間の争いは再三存在した。ラインは両者を結びつけると同時に、別ってもいた。それぞれ異なる岸に位置しているからだ。

今日、両都市はメッセ、空港、新たな企業の誘致、また文化首都としても競合している。ドゥッセルドルフがそこで、多くの場合より豊かな成功を手にしている。

それはかつては違った。互いにたったの40kmしか隔てていない両大都市の間のライバル関係の歴史的な根について、Andrea Bartschが、及び城の塔にある船運博物館を巡る30人との講演ツアーの際に伝えた。出発点は、Bartschによれば、11世紀と12世紀に当時既に際立った交易都市であったケルン、大司教座は、未だ眠れるドゥッセルの村とは違い、関税の権利、積み替えと進水の権利を持っていたことにある。

これは次のことを意味した:バター、ニシンあるいはオランダからの織物のような、ラインを越えて運ばれる商品は、先での販売に成功するまえにまずケルンで中継保管されなければならない。そのことは、ケルンの港の何百もの船を示した古い銅版画が証拠立てている。

交易、それと結びついた労働市場は、ドムシュタットの市民たちを持てる者にした。反対に、ドゥッセルドルフ人は妬みながら、彼らがケルンの市場で相応の値上がり価格で買えるようになる前に、商品がまずは一度ラインの上で彼らの前を通り過ぎていくのを見つめなければならなかった。「あなたがたがそう望んだら、ケルン人は戦いを始めました。」Bartschは言う。後に、確かに両隣接都市の間に直行の航路ができた。しかし、さまざまな嫌がらせで、ケルン人は隣人を小さいままにとどめた。それについては、数年に及ぶ帝国最高法廷での戦いへと至った。それは、結局ケルン人の方をとった。

局面が変わったのは、ケルン人が交易でわずかしか金が稼げなかったために19世紀初めの工業化の開始を逸したときであった。今や、怒れるのはあなたがただった。ドゥッセルドルフ、Elberfeld、ゾーリンゲンの間の地域には、そこでのちに工業化が発達する前の昔から、煙突が煙を吹いていたからである。さらに、「上り調子の」ドゥッセルドルフへの羨望は、その都市が19世紀にプロテスタントのプロイセンによってライン地方の首都とされ、ずっと大きく、際立っているケルンはされなかったときに加わった。この恥辱は、イングランド人が第二次世界大戦の後、ドゥッセルドルフをノルドライン・ヴェストファーレン州の州都と宣言したとき、もう一度繰り返された。

Susanne Fimpeler,塔・船運博物館の代表は、このテーマ「ケルンとドゥッセルドルフのライバル関係の歴史的起源」への反響に驚いている。いま、彼女は同僚のAndrea Bartschと共同で、自らの展示をさらに準備するつもりだ。

http://www.rp-online.de/nrw/staedte/duesseldorf/warum-die-koelner-duesseldorf-nicht-moegen-aid-1.1128172

2014/08/31

2014/8/31


・一ヶ月

今日でケルンに到着してからちょうど一ヶ月が経った。正直言って、かなり早い。

まず大きいのは語学学校のプログラムが既に半分終ってしまったという事実である。この一ヶ月で会話力はさすがに向上したが、一方で文語で用いられる抽象名詞や婉曲な表現などをほとんど忘失し、また授業で最も必要とされるであろう聴き取り能力にも変化は感じられない。幸い今月は夏休み気分で色々やっていたわけで、来月勉強時間を作る隙間は大いにある。また、教科書に付属していたCDにも手を付けていないし、見る癖がついていないため部屋のテレビが完全に置物と化しているのも勿体ない。そしてこのまま読解力の低下を放置するわけにもいかないので、毎日何かしら読むようにしなければならない(下手したらゼミがあった日本での学期中より読んでいる量は少ない)。

外国での一人暮らしという意味では、まあ想像以上でも以下でもないという感じか。スーパーの品揃えと価格や食費の節約方法、確実にWifiが拾えるチェーン店、近郊路線運賃の仕組み、リサイクル制度、携帯電話事情、などなど適応期間に学んでいく事項を「本番」であるミュンヘン入りを前に会得できたのは良かった。
ただ、出納を計算した結果1086.56ユーロという結果が出て、これはさすがに反省する必要があるだろう。寮費と学費は抜きでこの額だから、純粋に生活費として15万円を費やしたことになる。旅行とか定期代とかあるけれど、使った分の金は消えているのだから、来月はやや節約志向。

節約と言ったそばからであるが、来月はドイツ西部の見どころを今のうち回っておくつもりである。今のところ、ドイツの自治体はケルン、レヴァークーゼン、トロイスドルフ、ドゥーレン、アーヘン、ブリュール、ドゥッセルドルフ、ヴッパータール、ゾーリンゲン、オイスキルヒェン、ボン、ケーニヒスヴィンターで12か所に訪れているようだ。100個行けるだろうか(また変な目標が出来てしまった・・・)。

2014/08/30

2014/8/30


・サッカー観戦

今日はプレミアリーグ第3節、エヴァートン対チェルシーを旧市街のアイリッシュパブで観戦した。導入以後も劣悪な我が家のネット環境のせいで二試合は観戦叶わず、好カードだしということで観に行くことにした。

日本でもパブなんて全くと言っていいほど縁がないのだが、都合よく観光客気分を発揮し気軽に入店、礼儀としてギネスビールを頼みキックオフを待つ。18:30という時間であったため普通に飲みに来ている客が多く、スクリーンの前での立ち見観戦となった。
試合は3分でチェルシーが2点を奪うまさかの展開だったが、後半以降は互いに点を取り合い終わってみれば6-3のバカ試合となった。ハーフタイムが明けた頃には観戦客だけが残っている状態で、席に着き快適に見ることができた。
ギネスもケルシュもやや高めであり、また実況の音声が小さくほとんど映像を追うだけなのが難。大量得点の勝利ということでフットボール欲も満たされ、まあもうケルンではパブは行かないかな。

2014/08/29

2014/8/29


・髪を切る

しばらくブログ更新が滞っていたが、日本からの友人が昨日まで滞在していたので仕方ない。

今日は日本にいる間からの懸案であった散髪を敢行した。ドゥッセルドルフで日本人に切ってもらうという案もあったのだが、火曜にドゥッセルドルフに行ってそれをしなかった時点でその案は捨てており、ケルンでどこを選ぶかが問題だった。
いよいよ髪を切ることを決めていた今日も店は未定のままで、繁華街Rudolfplatzや大学街をぶらぶらしつつも足が伸びず、結局地元Rodenkirchenで目をつけていた店に落ち着いた。なぜこんなに美容室選びにうだうだ言うかといえば、ドイツの美容室の日本人による評判が途方もなく悪いからであり、さらにドイツに来て町でドイツ人の髪型を見るにつけゲッツェやロイスの髪型がまったくノーマルなものだと知り若干の恐怖を抱いていたのである。

店に入ると少し待たされ、やがて30代程度の女性に席に案内された。客層は地元の年配の人中心という感じだが、割とにぎわっている店であり特別珍しくないのか東洋人の来訪にも変な目はされなかった。
いくつか単語を調べておいたので注文は苦労せず。まず髪を洗ってもらい、散髪に入る。最初は日本の美容室と特に異なるようには思わなかったが、おそらく髪を梳く段階に入ってから作業が非常に雑になった。そして驚くほどの短時間で終わりの合図。ドライヤーはしてもらえるが洗髪は最初の一度のみで、切り落とした髪をあらかた風で飛ばすとそれで終了である。噂通り雑ではあったが、16ユーロと安く担当してくれた女性も親切で、「髪をすく」「前髪を流す」「段差をつけない」などの日本での常識が一応通じたのには安心した。
今は日本で切った時と変わるようには見えないが、問題は伸びてきて雑な作業のボロが出てくるのか否かである。ということで、評価は保留。


出納
別個に毎日記録しているので月末まで放置

2014/08/25

2014/8/25


・マーストリヒト、リエージュ

週末に旅したケルン、アムステルダム、ブリュッセルを頂点とする三角形は、その前の週末でのアーヘン、マーストリヒト、リエージュの三角形を数倍に拡大したものであるとも言える。国もその順序もまったく同じである。そんなことはどうでもいいが、とりあえずその週末の記録をつけておく。

マーストリヒト中央駅から旧市街までは歩ける距離。蚤の市は活気があるが、落ち着いた街並みという印象。
蚤の市
マース川を渡ったところが旧市街で、車は入れないため土曜日のショッピングを楽しむ市民と観光客とでにぎわっている。ショウウィンドウなどを見るとドイツよりなんだかセンスがあるような気がするが、旧市街としては何の変哲もない旧市街である。マーケットプレイスの建物とテラス席とか、幾度みたことか。
一つ行けてよかったのは「世界一美しい本屋」だというセレクシーズ・聖ドミニカ教会店。何かで見たことがあったが、マーストリヒトだということは記憶していなかったので嬉しい驚き。
http://www.theguardian.com/books/2008/jan/11/bestukbookshops とか参照
「世界一美しい本屋」
さすがに写真撮影は許可されている。ここの本屋のグッズとか作ればいいのに、それは売っていなかった。
旧市街を一通り歩いてワッフルとフライドポテトを食せばマーストリヒトには満足、調べておいたリエージュ行の列車に乗り込んだ。

リエージュの長距離鉄道駅は中心部から離れたところにあり、中国の高速鉄道専用駅を髣髴とさせる気持ち悪いフォルムである。
リエージュ・ギユマン駅
駅前は閑散としており、バス停に載っている地図で自分の位置を確認。とりあえずセンター方面に行くバスに乗り込み、皆が降りた停留所で自分も降りた。
マーストリヒトが足で歩きとおせる小さな町だったのに比べ、リエージュは大きい町で活気もある。少し雑然としたところもあって、中世そのままみたいなマーストリヒトよりこちらの方が好み。
リエージュ中心部
何も調べてきておらず、Ausflugのプログラムにも組み込まれていないここリエージュについては事前情報が一切なく、ただただ歩く。旧市役所か議事堂か劇場かよくわからない立派な建物が幾度か現れる。大聖堂もある。ここリエージュにもマース川は流れている。
途中でギユマン駅に向かうバスを見つけて乗り込み、駅でサンドイッチを買い、夕焼けのなか普通列車でアーヘンへと戻った。


出納
22-24 旅行 234.27
25 パンとコーヒー、カフェ 3.84

2014/08/21

2014/8/21


・旅行

明日から旅行に行くので、三日間は更新しない。旅行については帰ってきてから書くことにする。

旅行の記録については先週分も溜まっているが、なかなか書けない原因は最近どこのカフェにいっても画像のアップロードが異様に遅く途中で嫌になることである(家では節約のためデータのアップロードはしないことにしている)。今は中央駅のスターバックスにいるが、ここも駄目である。
なおドイツに来てスタバは初めてだが、Wifiの時間制限はないし、コーヒーも2ユーロ以下なので悪くはない。


出納
ポテト、パンとコーヒー、コーヒー、スタバ
8.38

2014/8/20


・第一次世界大戦100周年

今年は第一次世界大戦開戦から100周年にあたる年である。ヨーロッパ内の列強どうしが四年に及ぶ総力戦を演じた衝撃は空前のものであり、ロシア革命への連続性も鑑みれば、第二次世界大戦より時代の転換点としての意義は大きいといわれる。
ちょうどその時代を専門にしようとしている僕は、『八月の砲声』が響いた時期にちょうど「本場」に行くということで色々と楽しみにしていた。しかし書店や博物館で特集が組まれているのは見かけるものの、いちいち重大事件100周年ごとに町が式典を開いてるなんてことは(少なくともここケルンでは)ない。
せっかくドイツにいるのだから100年前を追体験しようということで、とりあえずケルンにいる9月までのぶんだけでも年表をまとめておくことにした(どうせだしドイツ語で)。

28.6 Attentat von Sarajevo

23.7 Österreich-ungarisches Ultimatum an Serbien
28.7 Kriegserklärung Österreich-Ungarns an Serbien
30.7 russische Generalmobilmachung

1.8 Kriegserklärung Deutschlands an Russland
3.8 Kriegserklärung Deutschlands an Frankreich
4.8 Kriegserklärung Großbritanniens an Deutschland nach Ablauf des Ultimatums
     Deutscher Angriff auf Lüttich
6.8 Kriegserklärung Österreich-Ungarns an Russland
22.8 Einmarsch russischer Truppen in Galizien
23.8 Kriegserklärung Japans an das Deutsche Reich
26-30.8 Schlacht bei Tannenberg
31.8 Die russische Hauptstadt Sankt Petersburg wird auf Anordnung des Zaren in Petrograd umbenannt

6-12.9 Schlacht an der Marne
12-20.9 Schlacht an der Aisne
24.9-22.3.15 Die Belagerung von Przemyśl


とりあえずタンネンベルク100周年を逃してないことがわかってよかった。


出納
カフェ、パンとコーヒー、パン、文具、寝間着
17.23

2014/08/19

2014/8/19


・天気

こちらに来て数日は暑い日が続き、短パンを持ってきた方が良かったかとさえ思っていたが、授業が始まってからは一転して秋のような天気で今では長袖のシャツでも寒いくらいである。しかも、きっと地形の問題か何かで昼間は青空でも必ず夕方か夜になると雨が降り、そのあとは滅法冷える。

しばらくは天気予報など見ずに過ごしてきたのだが、家にネットが来たついでに見てみると、最高気温は20度前後、最低気温は10度を切っている日もある。22時頃まで明るいこちらの夏だが日の出は遅く、授業のある日の朝はコーヒーを淹れながら凍えそうになるのも頷ける。
まあ暑いよりましには決まっているのだが、服などの装備が8月のこの寒さを想定していなかったため、いささか困惑している。ミュンヘンでするつもりだった買い物を近々ケルンでしておかないと風邪を引く。


出納

パンとコーヒー、パンとコーヒー、電車
77.57

2014/08/18

2014/8/18


・擬声語

今日単語の問題集をといていたら、「話す」「言う」ことにかかわる動詞について問われ皆目分からなかったのだが、辞書を引くとすべて擬声を語源としたものだと分かった。造語力の高いドイツ語はその分派生語も多く、コツをつかむと単語の意味を類推しやすい言語なのだが、擬声語となるとそうはいかない。
意味と単語を線でつなぐ問題の答えをとりあえず和訳しておく。

stammeln 不安、あるいは興奮しているため、非常に不明瞭に話す
flüstern 非常に静かに話す
tuscheln 秘密に、ささやいて会話する
jammern 何かに不満であることを表す
nuscheln 話すとき口をほとんど動かさないので、不明瞭に話す
seufzen 苦悩あるいは安堵を、吐息の音で表現する
einsagen あることを知らない人に、言うべきことをこっそり伝える
ächzen 痛みあるいは緊張でうめく
raunen 多くの人々が同時に小声で話す

今まで辞書で引いたこともない単語ばかりだが、覚えて損はないのだろう。


出納
パンとコーヒー、パンとコーヒー、M、スーパー
12.87

2014/8/17


・アーヘン
Aachen, eigentlich Bad Aachen, ist eine kreisfreie Stadt und Kurstadt im nordrhein-westfälischen Regierungsbezirk Köln, Mitglied des Landschaftsverbandes Rheinland und gehört nach dem Aachen-Gesetz mit Wirkung vom 21. Oktober 2009 als kreisfreie Stadt zur Städteregion Aachen. 1890 überschritt Aachen erstmals die Einwohnerzahl von 100.000 und ist seitdem die westlichste deutsche Großstadt. Die Stadt ist bekannt für ihre bis in die Jungsteinzeit zurückreichende Geschichte und ihr damit verbundenes kulturelles, archäologisches und architektonisches Erbe.
アーヘン、実はバッド・アーヘン、はノルトライン・ヴェストファーレン州ケルン行政管区の郡独立市、そして保養都市である。ラインラント地域連合の構成員であり、アーヘン法の2009年10月21日の施行に伴い、郡独立市としてアーヘン諸都市圏に所属している。1890年にアーヘンは初めて人口10万人を超え、それいらいドイツ最西の大都市である。その都市は新石器時代までさかのぼる歴史と、それと結びついた文化的、考古学的、建築的遺産で知られている。
アーヘンはケルンから西に電車で1時間の位置にある都市で、人口24万人。カール大帝がここを気に入り、都と定めた地だとして知られている(実際にはカール大帝は広大な帝国を旅して一生を過ごしたが、アーヘン的には、大帝はここを「定まった居住地」にしたということらしい。アーヘンはその頃カロリング帝国の首都、すなわちヨーロッパの首都だったと声高に過去を称えるが、移動宮廷が主流だった中世の国家に「首都」という概念を適用すること自体が実はふさわしくない)。

僕は8月10日日曜日にアーヘンを訪れた。アーヘン中央駅から旧市街までは歩ける距離であり、見どころはすべて旧市街にまとまっている。
ケルンと同様アーヘンもまた有名な大聖堂を持っており、ゴシック様式とロマネスク様式が混在した独特な美を備えている(ゴシックの権化であるケルン大聖堂より美しいというのが一般的な評価らしい)。そして今年2014年はカール大帝が死んでちょうど1200年ということで、カール大帝を特集した展示が三ヵ所で開かれていた。僕は旧市役所で開かれていた一つを訪ねたのみだが、アーヘンが様々な文脈を駆使してカール大帝をとっかかりにヨーロッパ全体を取り込もうとしている様が興味深かった。
また、アーヘンはそもそもは保養地として知られ、カール大帝も温泉で長旅の疲れを休める地としてアーヘンを気に入ったと言われている。今でもその鉱泉は残っており、そこには過去の偉大な訪問者の名が彫られた石板がある。それによれば、ピョートル大帝もここを訪れた。

アーヘンの名物はアーヘナー・プリンテンという菓子であるが、試食してみるとあまりに甘く買う気にはならなかった。ただ、プリンテンの有名店であるNobisはパン屋も営業しており昼食はそこでとった。
小さな町であり午後には時間が余り、技術系の単科大学のあるエリアをぶらぶら歩いた。日曜ではあったがそのあたりの飲食店は軒並み営業しており、様々な人種の学生たちで活気づいていた。

こんな無味乾燥な記述で写真もなしというのはどうかと思うが、今これを書いているカフェのネット環境により、写真のアップロードに厖大な時間がかかりそうなのでとりあえずこれですます。
あと、まったくログを書いていないとこんなにも書くことが思い浮かばないのだなとちょっと悲しくなったので、今からでも昨日のマーストリヒト、リエージュへの旅について軽く認めるべきだろう。


出納
0!

2014/08/16

2014/8/16


・Euregioticket

今日は語学学校の主催するAusflugがあり、20ユーロでマーストリヒトに出かけられるということだったのでそれに参加した。学校は月曜から金曜の午後毎日と、たまに土曜にスポーツやら博物館見学やらさまざまな親睦イベントを主催しているのだが、まあ当然僕が参加するのは今回が初めてである。

気になっていたのが20ユーロという安さであるが、朝集合場所に辿りつきしおりを渡されてその仕組みが分かった。まずケルンからアーヘンまではノルドライン=ヴェストファーレン州内の鉄道が週末乗り放題になるチケット(5人で42ユーロ)を用い、アーヘンからマーストリヒトへはEuregioと呼ばれる地域の鉄道が乗り放題になるチケット(2人で18ユーロ)を用いることで計17ないし18ユーロでケルンとマーストリヒトを往復できるのである。このAusflugには80人超が参加しており、大人数であることを活かしたプランである(ドイツでは5人で42ユーロだからといって1人で8ユーロちょいで乗り放題券が買えるわけではない。1人分は割高に設定されていて、一方1人同行者を増やすごとに足される金額は数ユーロのみ、すなわち上限の5人で旅行すれば最も割安に済ませられるという方式である)。

そして気になったのがEuregioが乗り放題になるその名もEuregioticketである。アーヘンでそれを買う際にたまたまパンフレットを見つけたのでそれも手に取ると、チケットが有効なのはドイツ、オランダ、ベルギーの三国が国境を接する地域であり、アーヘンとマーストリヒト、さらにベルギーのリエージュも含まれている。それを知った時点で僕は今日のリエージュ行きをも決意し、2人縛りではマーストリヒトで再集合が必要となるので18ユーロのチケットを一人で使うことにした(このチケットはそもそもの上限人数が2人なので、1人で使うと倍かかる)。周りにいたクラスメイトたちは親切に「お前パートナーいないのか、それじゃあ高いだろ」とか心配してくれたが、「いや問題ない。俺は9ユーロで自由を買ったんだ」とか言っていた。

実際マーストリヒトは数時間あれば徒歩で歩き通せるような小さい町であり、カフェや居酒屋での歓談を楽しむ気がなければ十分もう一都市訪問する余裕があったので、計画は正しかったと思う。せっかくの乗り放題チケットであり、アーヘン→マーストリヒト→リエージュ→アーヘンと無駄なく三角形の鉄路を利用したのにも満足である。

日曜のアーヘンのこともまとめないまま1週間が経ってしまったが、このAusflugについてもいずれ書かねばならない。

出納
電車、ワッフル、ポテト、水、コーヒー、土産、コーヒー、サンドイッチ、ビール、コーヒー
43.77

2014/08/15

2014/8/15


・ドイツ語

今日で語学学校の二週目が終わった。一度もドイツ語について書いていなかった気がするが、月曜から金曜まで毎日4時間強の授業と毎回の宿題をこなしているのである。
僕は最初のクラス分けのインタビューでロクに話せず低めのレベルに割り振られてしまい、そこでの二週を経ての感想といえば会話は十分訓練になるが文法は全て既知で説明中は眠いというまあ予想通りの展開である。既知の文法事項であっても咄嗟に口に出すとき正しく用いられるわけではないからこれでよかったという考え方も出来るが、僕に必要なのは日常会話より発表、論文、討論などの場でのドイツ語表現であるのでこのままではミュンヘンに裸で乗り込むようなものだと焦りも感じている(そもそも、僕にとっては今のレベルが扱う家族と友人同士の会話とかのドイツ語は省略やらスラングやらが多用され、上のレベルが扱うニュースや新聞のドイツ語よりよっぽど難しいのだが・・・。)

そしてただ焦りを感じているのもアホらしいので、Neumarktという繁華街に構える大型書店で先日外国人向けの参考書を二冊購入した。一つは単語に特化した練習問題集、もう一つは重要動詞に関して活用や派生語などが書かれたVerbtabellenというもの。いずれも外国人向けではあるものの解説自体がドイツ語で書かれているのでパラパラ読んでいるだけでも単語や重要表現が頭に入ってくる。

語学に専念できるのもあと六週間だが、語学学校初日のインタビューやホスト氏とのローデンキルヒェン駅での邂逅を思い起こせば確実に力は伸びているので、まあ着々やるしかないだろう。


パンとコーヒー、ランドリー
6.34

2014/08/14

2014/8/14


・ネット開通!

今日遂に語学学校で通信用のUSBスティックを受取り、帰宅してすぐに開通させた。どうやら大型スーパーマーケットチェーンのALDIがMEDIONとかいう通信会社の3G回線を借りて提供しているプランのようだ(スーパーが通信事業に手を出すというのもそこまでやるかという感じだが、セブンイレブンがそれを始めてもそんなに驚かないかもしれない)。
軽く調べた感じでは、定額ではあるものの、5GBを超えるとその月いっぱい通信速度が極端に制限されるというありがちな方式のようだ。ということで一応ある程度節約するつもりだが、何よりそのような情報をすぐ調べられるというのが家にネットがあることの恩恵である。


出納
ノートとファイル、コーヒー、スーパー
10.63

2014/08/13

2014/8/13


・ドゥーレン
Düren ist mit etwa 89.000 Einwohnern eine große Mittelstadt am Nordrand der Eifel zwischen Aachen und Köln in Nordrhein-Westfalen. Sie ist Verwaltungssitz des gleichnamigen Kreises und Mitglied der Euregio Maas-Rhein. Die von der Rur durchflossene Stadt nennt sich Das Tor zur Nordeifel. Sie ist geprägt von mehr als 1300 Jahren wechselvoller Geschichte und ihrer modernen Industrie.
ドゥーレンは人口約89000人、アイフェル地方北部、ケルンとアーヘンの間に位置するノルトライン・ヴェストファーレン州の大中都市である。その町は同名の郡の郡庁所在地であり、マース・ライン・ヨーロッパ地方の構成員である。ルール河が貫流するその町は北アイフェルへの門を自称している。その町は、1300年以上の変化に富んだ歴史と近代的産業に特徴づけられている。
ケルンとアーヘンの間にあるということから分かるように、僕は日曜のアーヘン紀行の中途でこの「大中都市」に立ち寄った。ちなみにgroße Mittelstadtの「大中都市」という直訳は「大きな中都市」とすると分かりやすく、ドイツには都市のランクを表すのに「中都市」という公式の区分が存在し、その中都市のなかではドゥーレンは大きな方だというくらいの含意である。

ドゥーレンの玄関口はドゥーレン駅である。
1841年に鉄道が開通したようだ
駅舎
今まで訪れた町より立派な駅舎、町の規模にも期待してしまうが、生憎この日は日曜日でありしかも午前中。ドイツは教会勢力の圧力で日曜はほとんどの店の営業が禁じられており、普通の人は寝ているか教会に行くか観光地へ出かけるかのどれかである。
ドゥーレンの中心部は駅から500mほど離れている。
閑散とした中心部
中心部には広い歩行街があるが人の姿はほとんど見当たらない。ただケルンにあるような大型書店や大型電気店も見かけ、割と周辺地域の中心として機能している大きめの町なのだと分かる。ケルンにもアーヘンにも電車で30分かかるのでこのような自立性を獲得しているのだろう。
唯一人の流れがあったのが教会に向けての道である。
教会
ちょうど10時の鐘を打っているところに行きあい、閑散とした街にひたすら鐘の音だけが響き渡っていた。

30分後にアーヘン方面への次の電車が来るのでそれに合わせて駅に戻る。
ホームには転車台が放置されていた。
転車台
日本ではあまり見ない光景な気がするが(Wikipediaによれば放置状態なのは11駅)、ドイツあるいはヨーロッパでどうなのかは分からない。

ほとんど人が見られなかったドゥーレンであるが、駅にだけは多くの人が集まっていた。要するに日曜日ということで観光都市であるケルンかアーヘンに出かけるところだったのだろう。


出納
カフェ
2

2014/8/12


・DAAD奨学金

そもそも僕が今の語学学校で学ぶことになったのは、DAADという機関(日本語名はドイツ学術交流会だったかな)の語学研修のための奨学金の存在を知り、その提携校に今の学校が含まれていたことが始まりである。選択肢はいくつかあったのだが、結局は授業料が手頃であったことが決め手であり、そのおかげで授業料と寮費は奨学金で全て賄われ、ドイツまでの交通費の一部が援助されるため500ユーロほどの収入となった。

さらに、語学学校に来てから驚いているのが奨学金生へのサポートの充実ぶりである。DAAD奨学金生には特別の説明会が用意されており、そこで住民登録や銀行口座開設という外国人にとっては煩雑で嫌になる手続きを解説、一部代行さえしてくれる。さらにその説明会では、この先所属することになる大学での用事などでやむを得ずケルンを離れ遠方へ赴く場合、その交通費と必要となる場合宿泊費さえ、列車は二等車で宿はホステルなど最低限ではあるものの負担してくれるという。これは9月に一度学籍登録のためミュンヘンに行く必要のある僕にそのまま当てはまる話であり、もう少し日が近づいたころに詳細を尋ねてみようと思う。

小さいところで言えばPDFファイルの入ったUSBを持っていけば無料で印刷してくれるなどの特典もあるのだが、今日知って驚いたのが住居にインターネット回線がない生徒に通信用のUSBスティックを無料で提供しているという話である。これは隣の席の台湾人と話していて知ったのだが、これでケルンに来て一週間の最大の悩みであったネット問題が雲散霧消するかもしれない。実際、授業後即座に担当者の事務所に向かうとそのようなサービスは存在し、色々手続きして明日には受け取れるということだった。


出納

参考書、カフェ、スーパー、コーヒー、水、コーヒー、ポテト

41.47

2014/08/11

2014/8/11


・ローデンキルヒェン
Rodenkirchen ist der 2. von neun Kölner Stadtbezirken.
Der Stadtbezirk wurde am 1. Januar 1975 nach der Eingemeindung der vormals selbstständigen Gemeinde Rodenkirchen und der Stadt Wesseling in die Stadt Köln gegründet. Zusätzlich wurden noch einige bereits 1888 eingemeindete Stadtteile dem Stadtbezirk zugeordnet. Durch eine erfolgreiche Verfassungsklage gegen das Köln-Gesetz wurde der Stadtteil Wesseling am 1. Juni 1976 ausgemeindet und erhielt seine Selbstständigkeit zurück.
ローデンキルヒェンは、ケルンの新たな市区の第二区である。その区は1975年1月1日、かつての自治共同体ローデンキルヒェンとヴェッセリンク市のケルン市への編入ののち、設立された。さらに、1888年に既に編入されていた市の一部もこの区に帰属となった。ケルン市法に対する憲法訴訟の勝利により、ヴェッセリンク部分は1976年6月1日に脱退し、元通りに自治を得た。
ローデンキルヒェンはこのように独立した都市ではなくケルン市の一部分なのだが、他ならぬ今僕が暮らしている町なので紹介する。人口は約10万人で、市の南部を占めている。

ローデンキルヒェンの中心部は路面電車16番線のローデンキルヒェン駅とライン河に挟まれた地帯である。生活に必要な店はあらかた揃っているが、コインランドリーがなく部屋に洗濯機がない僕はいささか不便している。ライン河沿いの道では多くの人がランニングやサイクリングを楽しみ、河を臨むレストランでは地元の人がケルシュを傾け語らいあっている。概して落ち着いた住宅街という印象で、若い人が多いケルン市にしてここは高齢者の姿も目立つ。

ライン川
ライン川を臨むレストラン
水曜日と土曜日には町の中心の広場で市場が開かれる。僕は土曜日に散歩していたら運よくそれに行きあたった。
市場
結構おいしそうに並んでいる
初日にホスト氏が周辺を案内しながら話してくれたところによれば、ローデンキルヒェンもかなり古い町のようで、その歴史は10世紀まで遡る。交通の技術が向上して、ケルン市との時間的距離が縮まるまでは、まったく別の町として発展していたのだろう。
古そうな道
夜には静かで住みやすい町だろうが、路面電車しか通っていないせいで公共交通機関を用いると市の中心へ向かうのに30分ほどかかるのが難といえば難である。そのせいで、らしくないことに毎朝僕は6時台に起床することを強いられている。


出納
カフェ、電車、バーガーキング、コーヒーとクロワッサン
16.54

2014/08/10

2014/8/10


・バーンカード

今日は休日ということでケルンの西、ベルギーとオランダとの国境近くの町アーヘンに来ている。ケルンからアーヘンまでは片道16.8ユーロ。しかし僕は先日バーンカードというものを購入したので、半額の8.4ユーロで来ることができた。

Bahncardは25,50,100の三種類があるが、僕が購入したのは50。これを持っていれば一年間はドイツ鉄道の全ての列車が半額で買えることになる。学生は127ユーロなので、原価254ユーロ分乗ればまあ元が取れることになる。今日のアーヘン日帰り旅行で33.6ユーロだから、一年ドイツにいれば254ユーロなど簡単に越えてしまうだろう。

Bahncardについては日本語のブログでも多く触れられているが、必ず注意として書かれているのが「6週間前までに解約通知をすること」である。確かにドイツ鉄道から先日届いた規約にも、一年毎に自動更新だから解約したいなら有効期間の6週間前までに知らせろと書かれていた。多くの人が届いた瞬間に解約通知をすることを推奨しており、それに倣うのがおそらく安全だろう。

大聖堂のなか


出納
電車、パンとコーヒー、水、土産、カール大帝展、コーヒー
30.89